ラジオ

2020年4月28日

テレビやラジオに触れる時間が増えている方が多いのではないでしょうか。テレビよりもラジオのほうが、何かをし「ながら」楽しめるというのでお手軽だと思うのですが、一定年齢以上だと、ラジオ、特に深夜放送というのは、独特の愛着がある人が多いのではないかと思います。しかし今どきの若者(?)にとり、ラジオはさほど興味の対象にはなっていない様子。聞きたい音楽があれば、ネットを通じて購入したり、視聴したりすることは簡単にできますから、自分の求めるものをチョイスすればそれで事足りるわけです。昔あった、ラジオ番組に「リクエスト」をするなど、ありえない行為のように見えてしまうことでしょう。(但しこの家にいる状態で、見直されているのではないかという声も聞くが、実のところどうなんだろう。)
 
ラジオ放送が開始されたのは1925年。中学の歴史でも必須の記憶事項ですが、この年にはほかに大きな出来事がありました。普通選挙法と治安維持法が成立したことです。時代はこれで一気にある方向へ傾いていくことになりますが、ラジオは新聞よりも効率の良い統制方法として使われることになったとも言えます。
 
情報は今もラジオで即座に得られますし、カーラジオの情報はやはり貴重である場合が多いのですが、かつての孤独な受験生、(生徒をも含む)学生にはパーソナルに語りかけてくる、世界への窓口となりました。まるで自分だけに話してくれるようなDJ(いまならパーソナリティ)との間に、親や身近な友人とには打ち明けられないような体験も、ハガキ(メールなんかないよ)で届けようともするのでした。
 
ラジオは、こちらのオンデマンドな内容をもたらすのではなく、番組制作側のプログラムに基づいて、あるいはリスナーのリクエストによって、曲や内容が決まります。それは、自分の好みの曲ばかりがかかるというのでは当然ありませんが、むしろ、自分の知らない世界を教えてくれるひとときにもなりました。こんな人がいるんだ。この曲、初めて聞いたけど素敵だな。もちろん、今でも何らかのニュースやコンテンツで、新しい出会いはいくらでもあるのでしょうが、かつてはリスナーは殆ど無力な受身の立場でしたので、自分の知らない世界を知る経験を、聞き流す中でたくさん与えられていたような気がします。
 
自分の求めるものが比較的容易に手に入る。結構なことなのですが、それが既定路線となると、自分の気に入らないものには見向きもしない、ということへと傾いていく可能性が出て来ます。新たな出会いの機会を避けるようになることで、中にはすっかり独善的になっていく場合も出て来るでしょう。SNSで自分を心地よくさせないものは、すぐにブロックするのが当然という気配も感じるように、個人的にもそうなのですが、教会のように善悪を問題とする組織においても、特定の価値観にそぐわないものを排除していきやすいことには、気をつけなければなりません。
 
もっと怖いのは、そのように自らチョイスしているはずの固持する価値観というものが、実はほかの何かに支配されるような危うさをもっているかもしれない、という点です。サブリミナル効果というものが話題になって久しいですが、そんなテクニックによらなくても、自分が何かの奴隷になっている、ということには、自らは気づきにくいものです。少なくとも気づきにくいのだということを弁えているだけでも違ってくるのですが、その警戒もないと、たいそう危なくなってきます。
 
音楽の歴史を見たとき、19世紀の音楽産業の成立が大きな影響を与えていまに至るのではないか、という観点があります。貴族社会とか教会とか、一定の狭い社会から解き放ったベートーヴェンなどの呼びかけそのものは、社会一般をひとつの音楽の場としてシェアできるような理想を描きました(それが良いことだったという意味ではない)が、音楽産業が結局個人個人ばらばらの、通じ合わない趣味へと解体していくことになった、という理解です(『音楽の聴き方』岡田暁生)。私は、ラジオからネット配信となっていく中で、どんどん加速しているのかもしれない、と感じました。もちろん、特定のアーチストの同じファン同士のつながりというのも、ありはするのですが、特定の島があるに過ぎず、他のファンとは何の橋渡しもありえない、他人は他人で好きにやれば、というままになる可能性を含んでいるような気がするのです。
 
他の意見を聞く。他に意見を言う。私のように、言い過ぎることもありますが、適切な「批判」を受ければそこそこ素直に応じる準備はできています。それはリアルな私を知る人にはお分かり戴けることでしょう。新たな出会いを封じるのでなく、自分の予想もしないところからもたらされるものを愉しみにする。それは、すぐに全員が画一的なものに倣えということを警戒することでもあると思うのですが、しかし良心に照らされた事柄でつながることをも可能にするのではないかと期待します。いけない、と気づかされたら、自らを省み、これは放置してはならない、と思われることには、何らかの言葉を差しはさむ。これを互いに許す関係性の中で、社会と未来は築かれていくのではないか、と模索しているところです。



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