新・沈黙の春

2020年4月24日

非常にデリケートな問題を扱います。ぱっと見ただけで頭に来て非難したくなる方も出てくると思われますし、それは言っちゃいかんと諭しにかかる方もおられるだろうと覚悟します。ある立場の人を傷つけることは必定ですし、不愉快になることは間違いないと確信した上で、それでも敢えて言葉にしてみます。私への非難は甘受しますが、それよりも、話題の内容を、ここでひとつ、格段に広い視野で、少しだけ考えてみてもらえたら幸いです。それは恰も人間が神のようになるという事態にも関わってくる問題となりますが、とことん土の塊としての人間が地べたを這いずり回りながら幻を語るという立場から膨れあがらないようにと願いつつ、ほんのわずかな間だけ、共に思いを馳せてくださることが望みます。
 
3月前半の、最初の休息期間の時のことでした。学校が休校となり、部活動も休止となりました。家の近くは比較的長閑な場所が多いので、私は散歩をしていました。中学校がありましたが、誰もいません。ふだんならば部活動の生徒たちで賑わうであろうグラウンドも、人ひとりいません。表通りからも離れたところなので、静かです。
 
ふと「沈黙の春」(レイチェル・カーソン)を思い起こしました。「春がきたが、沈黙の春だった。いつもだったら、コマドリ、スグロマネシツグミ、ハト、カケス、ミソサザイの鳴き声で春の夜はあける。そのほかいろんな鳥の鳴き声がひびきわたる。だが、いまはもの音一つしない。野原、森、沼地――みな黙りこくっている。」 人間が招いた化学薬品などによる環境破壊のために、生物の世界ではなくなった地球を危惧して描いたものですが、新型コロナウイルスがそのような世界を生みだすことも、あながち空想だけではないのではないかという思いに襲われるのでした。
 
この4月、再び、というよりも一層厳しい環境に置かれた私たちは、さらに静かな街を見ることとなりました。人とも殆ど出会うことのない道を探すのに困らない私は、また町内を歩くことがありました。今年の桜は咲きが早く、また長く散らずに残ったので、景色も美しかったのですが、聴覚も大いに刺激されました。やけに鳥の音が気になるのです。目の前の桜の枝に、ヒバリやヒヨドリがひっきりなしにやってきます。メジロも蜜を吸っているのが見えました。こんなに近くに、たくさんの鳥がいただろうか。私は驚きました。もしかするとこれまでも、鳥たちは近くにいたのかもしれません。私が気づく余裕がなかっただけなのかもしれません。けれども、それから気にしてみると、確かに鳥たちに多く出くわします。走る車が少ないから、これまでより聞こえるのかもしれません。でも確かに、鳥たちが人里に寄りつきやすくなっているように思えてならないのです。
 
どうやら人間たちが少ないようだ。あそこにも行ってみよう。鳥たちがそのように相談したかどうかは分かりませんが、鳥たちの行動範囲が、人のいるところにまで広がっているような気がしてなりません。そう言えば、外国では街に鹿や山羊が群れを成して現れたなどといったニュースが流れてもいました。人間が出歩かなくなったとき、動物たちはその動きをちゃんと察知して行動するようなのです。
 
大袈裟な言い方をしますが、これは一種の「自然の回復」であるのかもしれない、と思いました。中国の一部では工場からの煙が消え、いまは航空機や鉄道の運行数が激減しています。未来の環境のためにストライキをして自身決して飛行機には乗らないあのグレタさんやそれに同調する若者たちの叫びに対しては、耳を貸すことがなく一便たりとも飛行機を減便しなかった大人たちが、いま飛行機を飛ばすことを控えています。つまりは、二酸化炭素削減を積極的に行っているという結果になっています。
 
もちろん、それは経済的ダメージを負う行為です。あらゆる産業と経済活動に、かつてないほどの影響を与えています。人々は、また経済が回復することを望んでいます。それは当然の願いだろうと思います。しかし、ウイルス禍を乗り越えたとして、そこでまた資源を消費する活動に精を出し、大気を汚染し地球温暖化だか汚染だか、そうした道にまた舵を戻すということが、本当に人間のために、地球のためになるのかどうか、考える余地はあるのではないかと考えます。未来を奪うなという若者の叫びを、再び踏みにじることしか、私たちの目標はないのでしょうか。砂漠化を進める産業開発の競争が、私たちの目指す唯一の世界なのでしょうか。
 
確かに、環境問題は、一部の人が真摯に考え行動する事柄でした。いまでは学校の教科書にも必ず載っている問題として、知らない人がいないと言われる問題でした。しかし、「そうは言ってもねえ」と殆どの人は、「経済」というものを優先し、地球環境を破壊することを是とするばかりでした。そんな中、ちくりと刺してくる良心の呵責を和らげようとして、リサイクルに協力するとか、地球に優しい製品を使うとか、レジ袋をもらわないとか、そのくらいのことで、地球環境問題に参与しいるような、免罪符を私たちは、これまたしばしば商業ベースに載せられて、自慢するようにすらなっていました。経済発展という名の偶像にひれ伏すことしか、人間はしていなかったのかもしれません。
 
ウイルスは、人の命を奪い、人同士を近寄らせないように仕向けています。後者はともかくとして、いまも痛みの中で苦しんでいる人が多くいるし、亡くなった方のことを悪く言うつもりなど全くありません。また、これが神の計画であるとか、神の罰だとか、分かったようなことを言うつもりもないし、神に責任を負わせるようなことも考えません。しかし、ウイルスのために、自然が回復する道が拓かれたのかもしれない、という視点を、考えていけないということはないと思うのです。人間は滅べなどと言っているのでもありません。この出来事に意味がある、などと言っているのでもないのです。自然を回復する、地球を護るということがどういうことなのか、私たちは考えてもよいのではないか、ということです。
 
神学的な説明がお望みなら、聖書の記述を再び読み直すのもよいでしょう。創世記はしばしば環境問題を考えるときの鍵になる箇所をもっています。天地創造の中にこめられた古代人の願いや読み込んだ意味などは、近代以降の私たちの自然観とは全く違います。違うパラダイムの中で、違う世界観をもって書かれたものですから、いまの私たちの思い込みによって判断することには慎重でなければなりません。また、そこで人間に与えられた管理とは何か、かつて自己弁護のように人間の支配を裏付けていた時代もあったし、それが近年は真摯な反省を読み取る動きも出て来た中で、キリスト教は自然を破壊した、などという短絡的な声さえあることに対して、詭弁や弁解だけでなく、どう応えていくのか、改めてこの状況の中から応える道があるべきではないか、とも思います。
 
私たちは何かを覚ってもよいのではないでしょうか。覚ろうともがいてもよいのではないでしょうか。自分だけは協力するものか、と気軽に不必要に出歩く人がいるような世界で、人間はウイルスとばかりでなく、人間の自己中心性や、敢えて神学的に言えば「罪」と、まだまだ闘わなければなりません。そして、再び自然を破壊するために乗り越えようとするだけでよいのかどうか、私たちは自分自身とも闘わなければならないのではないか、と思うのです。うろたえ、舞い上がり、情報に左右され、そしてそれを無批判に(リテラシーの自覚なしに)拡散するのは、キリスト者であっても、どんなに偉い肩書きがある人でも同じです。知りもしない知識や政策、医療現場について無責任に、影響を与えうるオピニオンを垂れ流しにしている人が多々あります。医療従事者を愛するならば、じっとしていることも大切なのではないでしょうか。煽らないことです。そのくらいのことにも気づかないで、どうして聖書の愛などが語れるのでしょうか。迷惑なことを無邪気にしでかすよりは、自然の回復の問題に思いを馳せるほうが――しかしそれを誰かに押しつけるつもりはさらさらないとした上で――、まだ無害なのです。結論が出ることではないのですが、一人ひとりが、自然の中の自分の立ち位置について、またここに置かれて期待されている自分の存在の意味について、沈思する機会を得てもよいのではないか、いやぜひもって戴きたい、と私は密かに願うのです。そして、人間の欲望の喧噪が消えた、沈黙の春を迎えたいと夢見るのです。
 
なお、日本赤十字社がアニメーション動画「ウイルスの次にやってくるもの」を公開しています。心の中の恐怖や不安が、いっそう恐ろしいものを招いている、という非常にシビアなものです。私は最初からずっと、このことを皆さまに考えて戴きたかった。そのための呼びかけが必要だと思っていたし、日常の行動を営むようにと考えていました。上記の、常軌を逸したようなひとつの視点も、その一環として受け止めて戴ければ幸いだと思っています。



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