【メッセージ】ひとと違うのがチャンス

2020年4月19日

(ヨハネ20:19-29)

信じない者ではなく、信じる者になりなさい。(ヨハネ20:27)
見ないのに信じる人は、幸いである。(ヨハネ20:29)
 
「○○なクリスチャン」とくれば、○○には何が入る? おそらく一般的には「敬虔な」が第一位ではないでしょうか。いやはや、このイメージは困ります。確かにそんな人はいるでしょう。この場にいま同席しているかどうかは……分かりませんけれども。
 
神を信じているのか。教会に行っているなどと誰かに言うと、そんな問いも寄せられるかもしれません。それは日本においては、「神が存在する」と信じているのか、という意味だろうと思いますが、概ね世界では、それは大前提であって、「神を信頼しているのか」というレベルから、対話が進むのであろうと思われます。
 
しかし中には具体的に、「復活を信じているのか」と訊かれることがあるかもしれません。ここで、やたらと説明をすることで答えると、話がややこしくなり、へたをするとやりこめられるかもしれません。きっぱりと「信じている」、これでいいと思うのですが、そこで弱気になって疑い始めると、自分もまた迷路に入っていくかもしれませんから、気をつけましょう。一度疑いが入ると、けっこう厄介ですから。
 
新約聖書の中でも、復活を疑ったことで有名な人がいます。イエスの十二弟子の一人、トマスという人です。今日開いた聖書の箇所では途中から現れますが、ある意味で冒頭から登場します。つまり、「トマスがいないという状況の中で起こった」という出来事です。
 
それは、復活の出来事のあった日。ヨハネによる福音書に沿って見ていくと、私たちのいう日曜日の朝早く、イエスの遺体を納めた岩場の墓は、蓋が転がされて開いており、中に置かれていたイエスの体は消えていました。そこを訪れたマグダラのマリアが驚いてペトロともう一人の弟子とに知らせると、二人は走って行き、墓の中を確認します。二人がいなくなった後、マリアは泣きながら、初めて墓の中を覗きました。するとそこに二人の天使を見ます。マリアはこの情景に怯えたり慌てたりせず、ひたすらイエスの体がいまどこに置かれているのかを知りたがります。その後ろにいたのが実はイエスでしたが、話をしてもマリアは最初イエスだと気づきません。しかし、ひの人物が「マリア」と呼ぶと、マリアは気づき、この出来事を弟子たちに再び知らせに行きました。
 
その夕方のことです。それは「トマスがいないという状況」でした。弟子たちが集まっていました。がたがた震えながら身を寄せていました。イエスが殺されたので、次は弟子たちに逮捕の手が伸びるのではないかと恐れたのです。いま私たちは、外出自粛を命じられています。中には、自粛しろだなんて法律に基づかないでしょ、と言わんばかりにふらふら街に出ている人もいます。しかも、それを自慢げにSNSにアップしている人もいますから呆れます。しかし、あの弟子たちは、必死でした。外に出れば殺されるかもしれない恐怖の中にいたのです。自粛どころか、外出すると命がないという切迫した状況でした。アンネ・フランクの遺した日記は、そうした生活をリアルに伝えてくれていますが、その心理と重なる部分があるかもしれません。ですから鍵をしっかりかけて閉じこもっていたというのは、至極当然のことでしょう。その朝、ペトロともう一人の弟子とが墓の中を見て、「信じた」という力強い記録があったすぐその後に、震えていたのもあまり責めないようにしましょう。恐れていた対象は、ユダヤ人でした。イエスを憎んで当局へ引き渡したのは、ユダヤ人だったからです。
 
家の戸に「鍵をかけていた」という情景には、ぜひ注目しておきましょう。そこへいきなり、「真ん中」に立ち現れたのがイエスです。「あなたがたに平和があるように」というのは、「こんにちは」程度の挨拶の言葉であると思われますが、そこに含まれる「平和」という語を意識して訳してあると、この弟子たちの心情にどう響くかが想像されて、感慨深いものがあります
 
イエスは「手」と「わき腹」を見せます。弟子たちは、主を「見て」「喜んだ」のでした。イエスはもう一度「あなたがたに平和があるように」と繰り返し、弟子たちを「遣わす」と告げると、「息」を吹きかけました。土の塊であったアダムに息を吹き込み、人が生きるようになったことを思い起こさせます。そして「聖霊を受けなさい」と言うのですが、こう聞くと、「息」という語は元々「風」や「霊」とも訳せる語であったと思い出す人もいると思います。ここにおいても私もそうかなと思いました。しかし、違いました(でもそう思い込んでしまっている説教がなされているのも見出されました)。この「息を吹きかけて」というのは一つの動詞で、新約聖書ではここにだけ登場する語でした。まさに「息を吹く」という意味の語でした。それでも、「聖霊」とのつながりを意識していると受け取ってダメだということはないでしょう。そうなるとまた、この箇所は、50日経ったときの「聖霊降臨」、いわゆる「ペンテコステ」の出来事に先立つ、ひとつの聖霊が降った出来事だと見ることもできるようです。
 
このあと、弟子たちにひとつの「権威」が与えられます。弟子たちが赦すならその罪は赦され、赦さなければその罪は残ることになるのだ、と。さあ、こうして流れをまとめると、弟子たちはまず主を見て喜んだという事態がありました。それからそれに対してイエスが告げたことが三つありました。「遣わす」ことと、「聖霊を受けよ」、そして「罪の赦し」の権威とでした。
 
繰り返しますが、この場面にトマスが不在だったことが、次のドラマを生みました。トマスがいなかったことは、物語上その次に初めて明かされます。「ディディモと呼ばれるトマス」と紹介されています。このトマスは、ヨハネによる福音書の中ではちょっとしたトリックスターで、死んだラザロのところに行くことをイエスが言ったとき、「わたしたちも行って、一緒に死のうではないか」と深読みをし過ぎたり、「わたしは道であり、真理であり、命である」(14:6)の言葉を導くためにボケた質問をしていたりします。それが最終章となって、この福音書を締め括るにあたって、極めて重要な役割を果たすのです。
 
トマスは「イエスが来られたとき、彼らと一緒にいなかった」(20:24)のですが、どうして一緒にいなかったのかは書かれていません。どうしてでしょう。他の弟子たちはみな、ユダヤ人を恐れて家の戸に鍵をかけて息を殺して潜んでいたのです。トマスはそこにいなかったのです。もしかすると、トマスは、ユダヤ人を恐れてはいなかったのでしょうか。一種の喩えや象徴でもある「道」という言葉の意味が分からなくてボケた質問をし、ラザロが死んだと聞いて自分たちも死ぬのだと早合点したトマスです。トマスは、非常に言葉を文字通りに、表面のままに感じとる人物であるように描かれています。「アスペルガー症候群」という「障害」がありますが、その人は、冗談やたとえ話と、本音との区別がつきにくい性質を示すと言われます。偏見をもってもらっても困るのですが、たとえばトマスは少しそれを思わせるようなふうにも見えます。すると、ユダヤ人がイエスを殺したことが、次に自分たち弟子への攻撃となるかもしれない、という危険性を、トマスは認知しづらかったのかもしれません。もちろんこれは私のただの空想話ですので、すぐに本気にしないでください。病気と闘っておられる方々には不愉快な思いをさせてしまったであろうことをお詫びします。しかし、もしトマスがその傾向がもしあるのだったら、だからこそ、次の反応も出てくることになると説明できます。
 
20:25 そこで、ほかの弟子たちが、「わたしたちは主を見た」と言うと、トマスは言った。「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。」
 
具体的なもので確認しないと、弟子たちが「主を見た」ということを真実だとは思えない、理解できない、ということのようです。
 
八日の後、というわけですから、再び日曜日でした。弟子たちは家の中にいました。ということは、一週間経ってなお、ユダヤ人たちの攻撃を恐れていたということです。時は除酵祭。まだまだ人がたくさんいたことでしょう。「戸にはみな鍵がかけてあった」と、さらに鍵のことが強調されています。そして今回は、トマスも一緒にいました。どうして今度は一緒にいたのか。それも説明はなされていません。想像するに、「主を見た」ということを認めないトマスは、弟子たちに説得されて、あるいはトマス自らが弟子たちに願うかして、弟子たちの体験に加わろうとしたのではないでしょうか。他の弟子たちからすれば、トマスを排除しなかったのですし、トマスにしても、皆と同じ世界に生きることを求めたのだ、と理解してみたいと思います。日曜日、キリスト者が主の日と置いた曜日に皆は集まります。まるでイエスが、この日に来ることを知っていたかのようにも見えますが、当時の信徒の集まりの機会を意識したものであることは確かでしょう。いまも主イエスは、日曜日毎に集まる私たちのところに来てくださいます。そうして一人ひとりに、このトマスのような出会い体験をもたらしてくれます。
 
先週と違うのは、トマスがいることだけでした。いっそう厳重な用心としての「鍵」がまたあり、そしてまたもや「真ん中に」イエスが立ったという言い方がなされています。イエスは三度「あなたがたに平和があるように」と声をかけます。もちろん「こんにちは」のことです。ただ今度はトマスにも平和があるようにと呼びかけられています。この瞬間、トマスは何を思ったか、その反応は描かれていません。このとき確かにトマスも「主を見た」のです。その瞬間の様子は謎です。反応する間もなく、イエスが続けざまに言葉を向けたのかもしれません。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。」(20:27)
 
お気づきでしょうか。トマスは、「イエスの手に釘の跡を見る」「トマスの指を釘跡に入れる」「トマスの手をイエスのわき腹に入れる」ことで初めて信じるのに、と弟子たちにぼやいていたのです。それに対してイエスは、「トマスの指をイエスの手に当てる」「イエスの手を見る」「トマスの手を伸ばしてイエスのわき腹に入れる」ことを命じました。釘跡は掌か手首かにあるのですから、その言葉の違いは構わないのですが、イエスの手に触れることと、見ることとの順序が入れ替わっています。トマスは、まず見て、それから触るという段取りを想定していたのですが、イエスは、まず触ってから見るという順序を求めました。そして間髪を入れず、「信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」(20:27)と言いました。これは厳しい口調ではなく、慈しみ深い眼差しではなかったかと勝手に想像してしまうのですが、以下ここに私は奇妙な読み込みをしてみます。個人的な読み込みですから、皆さんは惑わされないでいいですよ。
 
トマスの想定した「見る→触る」という順序が「信じない」ことで、イエスの告げた「触る→見る」の順序が「信じる」ことだと私は受け止めてみたのです。イエスの手の釘跡というのは、人の罪による傷です。いえ、私の罪による傷です。私のせいで傷ついたものを、まず見て知って、それから触れる、体験する、ということは、信じるという営みとは違うのではないか。しかしイエスは、まず触ることがあって、それから見るのでよいのだ、それが信じることなのだ、と教えているように、受け止めたのです。
 
認識や知識が先にあって、それから体験するという流れを、人は当たり前のように考えているかもしれません。まずよく理解してから、それから実践しよう、と。まずマニュアルを読んでから、機械を触ってみよう、というのが、おじさんにありがちな態度ですが、若い世代の多くは、とにかくまず触ってみて、感じをつかみにかかります。ゲームなんかその最たるもので、とりあえずやってみる、説明なんかはあとでいい、問題が起こったら調べるので十分だ、という態度です。これが読解力を貧しくしている、という批判もありますが、確かに、自転車がどうして倒れないかということについての理論をいくら学んだとしても、それで自転車に乗れるようになるわけではありません。まず乗ってみる。そうして体がバランス感覚を覚えてから、その後でジャイロ効果の説明を知ると、そうかな、と思えたりもするわけです。
 
まずイエスに触る。イエスに触れる。イエスに出会う。それから、イエスはどんな方であるのかを見る。それでいいんじゃないのか。聖書について広く深くお勉強をしたから、神のことが分かるというような方向性でなく、自ら苦しみ、そこから解き放たれる体験をしたことで、神の働き、神の言葉の真実を知る、そういう順序でよいのではないのか。聖書のことがよく分からないから、信じていることにならない、などと思う必要は全くない、ということです。むしろ、聖書の意味などは後から分かれば、感じられればよいのです。まずは神に触れるように、ぶつかっていけばよいのです。「信じる者になりなさい」は、もっと具体的に、まずは触れてみよう、体験してみよう、というレベルで受け止めてみては如何でしょう。
 
それは、象徴的な言い回しや喩えを理解しづらいトマスにとっては、何よりの道でした。聖書の言葉に隠れた意味などを問題にするのでなく、イエスと出会うところから入る信仰の歩みが、一番相応しい形で及んだのが、このトマスだったと言えるのではないでしょうか。トマスは何も、科学的思考の持ち主だなどと考える必要はありません。科学などという、ごく最近生まれた考え方の枠にトマスを当てはめるというのは、了見の狭い捉え方だと思います。
 
また、弟子たちに対するイエスの現れの、最初の場面にトマスがいなかったという恵みも感じます。もしそこにトマスがいたら、最初に見てしまうことでよしとされたでしょう。しかしトマスには、その救われ方でなくてよいと神は決めたのです。トマスには、別のアプローチがよいのだ、というように、トマスは選ばれたのです。人は、このようにすれば救われるというような、私たちのちゃちな頭が考えた程度のプログラムでマニュアル化されるはずがありません。神に似せて造られた人間は、一人ひとりがもっと自由で、もっと個性的であるに違いありません。ここで、トマスには、トマスに相応しい道が与えられたのです。自分では、見てから触るのだと決めつけていたトマスが、そうじゃなくてよいのだ、おまえは触ってから見るようにしてみるがいい、とイエスが正面を向いて近づいてくださったのです。
 
トマスは「わたしの主、わたしの神よ」と、他の誰も言ったことがないような、信仰の告白をしました。果たしてイエスは神なのかどうなのか、ここだけを取り上げて、だからイエスは神なのだ、というような言い方をする必要はありません。そうでないというような議論をする必要もありません。これはトマスの、トマスによる、トマスのための、イエスとの出会いだったのです。その結果現れた告白だったのです。そして、弟子たち一同の神というばかりでなく、トマス個人の、神との出会いをここから窺うことができる、としたいと私は思うのです。
 
この告白に、イエスは重ねて言います。「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。」(20:29)と。トマスが自分で想定していた「見る→触る」の流れで信じたなどという必要は、おまえにはないのだよ。おまえは、「触る→見る」の順序で、まだ見ないままに触って信じるのでよかったのだ。他の人はともかく、おまえは、見ない段階でイエスに出会って信じる機会も特別に与えていたのに、そこだけは残念だったなぁ。そう、もちろんこれは、読者でありいまこの物語を聞いている、私たちに向けてのメッセージでもあるはずです。あなたもトマスのように、主イエスがここに現れたのを見たわけではない。弟子たちが目撃したその輪の中にいたわけではない。だが、その時に信じるという幸いがあるということを思わないか、と気づかせるメッセージなのです。
 
最初にトマスが、復活のイエスの現れた場所にいなかったこと、それはトマスにとっては悔しいことでした。けれども、トマスはトマスらしく、神と出会うチャンスを与えられたと捉えてみたいと思いました。だからまた、私もまた個人的に思い返せば、トマスでした。教会学校から育って信じたのではありませんし、人をできるだけ傷つけないで済むような、若い頃からの信仰生活ではありませんでした。しかし、人を傷つけ、自分が傷ついてぼろぼろになってからようやくイエスと出会うという道が与えられたことも、私にとって必要なチャンスだったに違いないのです。
 
私たちは、鍵を掛けています。心に鍵をかけて、誰も入らないようにしていることがあります。でも、イエスはそっと入ります。いま、イエスはあなたの心の真ん中に、立っていませんか。「平和があるように」と、呼びかけていませんか。あなたも、今日この福音を聞いた意味が、きっとあるはずです。神はあなたに、今日というチャンスを与えてくださったのです。



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