【メッセージ】どこに置かれているのか

2020年4月12日

(ヨハネ20:1-18)

「わたしの主が取り去られました。どこに置かれているのか、わたしには分かりません。」(ヨハネ20:13)
 
「どこに置かれているのか」とマリアは問います。それが分からない、と。マグダラのマリアという人です。どうしてマリアはそう問うたのでしょう。
 
十字架の上で頭を垂れ、イエスは絶命しました。十字架刑は世にも残酷な死刑でした。最後に確実に殺すために足の骨を折ることを免れたのは、イエスがすでに死んでいたからですが、これは復活のひとつの伏線となりました。但し、脇腹を槍で刺されます。ヨハネはそこから血と水とが流れ出たと記録します。いろいろ深い意味を読み取ることもできるらしいのですが、今日はこの後の話に急ぎます。
 
十字架刑を受けた遺体は、死体捨て場に放り捨てられるのが普通でしたが、イエスの遺体は地位ある人に受け取られ、高級な亜麻布に包まれて、新しい墓に収められました。沖縄に伝わる「亀甲墓」をご存じの方は、それをイメージすると少しだけ近いように思われます。昨日4日は二十四節気の一つである清明(シーミー)入りといって、沖縄ではこの墓前に親戚が集まり供養と食事をする習慣があるそうです。そしてここにも新型コロナウイルスの影響が出ていると沖縄タイムスのコラムが伝えていました。ユダヤの墓はこの亀甲墓よりももっと素朴に自然の岩穴を利用したものですが、大きな岩で蓋をしておくことになります。安息日にさしかかろうとしていたので、イエスの遺体は急いでその岩穴の墓に収められました。
 
さて、ここからが今回の物語です。イエスを慕う女弟子のひとりに、マグダラのマリアという人がいました。罪深い女でしたが、イエスにより救われたと言われます。他の福音書では、イエスの遺体に香料を塗ろうと、安息日が開ける朝方にイエスの墓を訪れるという場面が描かれています。ヨハネはその役割を、マグダラのマリア一人に担わせました。しかしすでに香料は添えられていた(19:40)ことをヨハネは描いており、このマリアの行動も、とくに目的が書いてあるわけではありません。
 
とにかくイエスに会いたかった、そのようにしか思えないのですが、決めつけることなく読んでいきましょう。まだ夜明け前から出かけます。そして薄明かりの中、岩壁の岩が取り除けられ、墓の穴が剥き出しになっているのをマリアは見つけます。マリアはこれを見てすぐに、使徒たち、男の弟子たちのところへ、知らせに走って行きます。「主が墓から取り去られました。どこに置かれているのか、わたしたちには分かりません」(20:2)とマリアは弟子たちに報告しました。
 
「どこに置かれているのか」とマリアは問いました。このときは「わたしたちには分かりません」と続けました。マリアだけでなく、弟子たちも誰も、分からないということでした。だから、このマリアの言葉を聞いて、ペトロともう一人の弟子が墓へ走って行きました。当時は男たるもの、人前で走るということはしないはずなのですが、二人はなりふり構わず走ります。
 
もう一人の弟子という人は、ヨハネの福音書では時折顔を出します。よく、これがヨハネ本人ではないか、などと言われますが、はっきりとはしません。主に愛されたこの弟子は、謎でありながら、この福音書の中で特異な役割を果たす重要人物であるとだけしておきましょう。ペトロより足が速く、先に墓に着いたといいます。墓の中を覗きますが、この弟子は墓の中には入りません。後から着いたペトロは、あまり考え込まずすぐに行動に出るタイプのようで、迷わず中に入ります。すると、亜麻布だけが置いてあるのを見ました。イエスの頭を覆っていた布は、少し離れた所に丸めて置かれていた、と描写が非常に細かいことに驚きます。
 
この様子を見て、もう一人の弟子も墓の中へ「入って来て、見て、信じた」(20:8)と言います。例は挙げませんが、この福音書において、「信じる」というのは非常に重要な言葉だと考えられます。この弟子は、何を信じたのでしょう。イエスの復活を、でしょうか。それにしては、直ちに「イエスは必ず死者の中から復活されることになっているという聖書の言葉を、二人はまだ理解していなかったのである」(20:9)と説明されているのが気になります。恐らくは、復活そのものは信じたが、まだ聖書の言葉と結びついてはいなかった、などの苦しい理由づけになるかもしれません。
 
二人は家に帰ります。マグダラのマリアは、また墓に来ていました。二人と共に走ったとは考えられないので、二人を追うようにしてか、後でかは分かりませんが、とにかくまたイエスの墓に来ていました。墓の中に入る勇気はありません。ただ外で立って泣いていたといいます。しかし、泣きながらも墓の中を覗いてみました。すると二人の天使がいました。マリアがこの二人を「天使」と理解していたのか、それとも天使というのは後での説明であるのか、それもよく分かりません。天使は、マグダラのマリアに、「なぜ泣いているのか」と問います。マリアは「わたしの主が取り去られました」(20:13)とまず言い、さらに「どこに置かれているのか」(20:13)と続けます。今度は「わたしには分かりません」とも言いました。二人の弟子に報告した時とは違い、いまは一人だけです。天使が現れてもっと驚いてもよいはずなのに、マリアはそれどころではありませんでした。その天使を含めない形で、「分かりません」と告げたのでした。しかも、「わたしの主」が取り去れたのだと言いました。より、マリア本人の思いに集中して、もう夢中で言い放ったようなものでした。
 
「わたしの主はどこに置かれているのか」とマリアは叫んだのです。
 
何かを感じたのでしょうか。マリアはふと、後ろを振り向きます。そこにイエスが立っていました。しかしまだマリアはそれがイエスだとは気づいていませんから、ここでイエスが立っておられると記すのは、筆者の視点です。ヨハネも、「それがイエスだとは分からなかった」(20:14)と説明しています。天使たちに続いてこのイエスも、「なぜ泣いているのか」と尋ねますが、このとき「だれを捜しているのか」とも問いました。マリアは、イエスを捜していたに違いありません。そのイエスを園丁だと思い込んでいたマリアは、「あなたがあの方を運び去ったのでしたら、どこに置いたのか教えてください。わたしが、あの方を引き取ります」(20:15)と尤もなことを言いました。
 
「どこに置いたのか」とマリアは訊きました。「どこに置かれているのか」ではなく、あなたは「どこに置いたのか」と。園丁だから知っているだろう、という意味で読んでもよいでしょう。けれど、それがほかならぬイエスその方であったのですから、本人に尋ねているという構図がここにあります。マリアは気づかぬうちに、主イエスに、主イエスが「どこに」と尋ねていたのです。
 
ここで感動的場面があります。イエスがマリアの名を呼びます。泣いていたマリアは向きを変えてイエスのほうを向き、「ラボニ」と答えました。どうやらこれはアラム語らしいのですが、マリアはいつもイエスにそのように呼びかけていたのでしょう。泣いていたマリアが変わったはずです。イエスは、すがりつくなと言い、男の弟子たちのところへ伝達を頼みました。「わたしの父であり、あなたがたの父である方、また、わたしの神であり、あなたがたの神である方のところへわたしは上る」(20:17)と伝えよ、と。それでマリアは弟子たちにところに言って、「わたしは主を見ました」と告げてから、先の言葉を伝えました。
 
つくづく不思議な話です。さも当たり前のように天使が出てくるのも現代人には不可解でしょうが、イエスの顔をマリアが知らなかったわけではないだろうに、どうしてその姿や声で分からなかったのだろうと考えはじめると、この事態は常軌を逸しています。
 
この一連の場面は、墓へ走るペトロのもう一人の弟子が主役のように目立ちます。絵画にもそういう場面がよく描かれます。しかも「入って来て、見て、信じた」というあたり、この弟子が信仰的に優れていると伝えようとしているようにも思えます。しかし、この場面では結局、マリアが最初から最後までいて、事を動かしていることが読みとれます。そこでいま、マグダラのマリアの言動にもっと迫り、何かを聴き取りたいと思います。
 
マグダラのマリアは、まず、墓から石が取りのけてあるのを「見た」のですが、そこで、「主が墓から取り去られました。どこに置かれているのか、わたしたちには分かりません」(20:2)と報告したのです。これ、どう思いますか。あまりに早合点ではありませんか。家のドアが開いていた。これだけで、泥棒が入った、と類推するのなら、まだ分かります。それでも、中を確認してから警察に届けるのではないでしょうか。マリアは墓の中を覗くのが怖かったのかもしれません。それでも、イエスの遺体がどこに置かれているのか分からない、というのです。思い込みが強すぎます。あるいは、思い込みでないとすれば、これは信仰です。「見ないのに信じる人は、幸いである」(20:29)の伏線だと見ることもできるでしょう。
 
ところで、ここでマリアは「わたしたち」と言っています。代名詞はありませんが、ギリシア語では、動詞の形で代名詞としての主語は確定します。マリアは独りでいたように記されているにも拘わらず、「わたしたちには分かりません」と報告しています。ここで、他の福音書のように女が数人いたのだ、と解釈する人もいます。しかしそうだったら、「マグダラのマリアは墓に行った」(20:1)を三人称単数にはしなかったはずです。そこで私はこれを、読者、つまりいま読んでいる私を巻き込んでいると考えるべきだろうと思いました。というより、私がそのように巻き込まれたのです。
 
さあ、イエスの墓が開いていた。死んだと思われたイエスの遺体は、きっともうそこにはないぞ。いったいどこへ行ったのだ。分からないだろう? そう突きつけられているという迫りを感じたのです。
 
次にマリアは、二人の弟子たちの後を走ったかどうか分かりませんが、再び墓に戻ってきています。まだ墓の中には入らず、外で泣いています。けれども、ついに泣きながらも墓の中を覗き込みました。マリアは何を思っていたのでしょう。この後園丁だと勘違いした実はイエスであるその人に向かって、マリアは再び「わたしの主が取り去られました。どこに置かれているのか、わたしには分かりません」(20:13)と言っています。今度は「わたしの主」です。マリア独自の見方であり、読者を巻き込んでいません。その上で、「どこに置いたのか教えてください。わたしが、あの方を引き取ります」(20:15)と頼んでいます。マリアは、イエスの体を、引き取りたかったのです。
 
「引き取る」、邦訳のおもな聖書はこぞってそう訳しています。この原語は、ピラトがイエスをユダヤ人に引き渡したとき彼らがイエスを「引き取った」ときとも違うし、愛する弟子がイエスの母を自分の家に「引き取った」ときの語とも違います。日本語では皆同じなので混乱しますが、皆違います。ここでマリアが引き取りますと願ったその言葉は、日本語で言うなら「上げる」に一番近い感覚だろうと思われます。そこから、「取り上げる」や「運び去る」などの様々な訳が可能になります。「引き取る」で訳は構わないのですが、マリアはイエスの体を、「置かれたままではなくて、上げたかった」、このことを受け止めておきたいと思うのです。
 
マリアは二度も「どこに置かれているのか」分からないと口にし、さらに園丁と思しき人物に「どこに置いたのか」教えてくれと迫りました。ヨハネによる福音書は、くどく繰り返す言い回しが多い福音書ではありますが、ここまで同じ言葉を連発するというのは、ただ事ではありません。いったい、イエスは「どこに置かれているのか」、物語に巻き込まれた私は、心を掻き乱されました。何度も何度も、「イエスはどこに置かれているのか」と迫られているのです。
 
いま、新型コロナウイルスの恐怖で世界は浮き足だっています。いえ、傍観するつもりはありません。世界中で苦しんでいる人々や医療従事者、政治家、社会の一人ひとり、国家が悲鳴を挙げています。パニック映画を見ているのではありません。まるで悪夢を見ているようですが、これは現実なのです。もちろん、危険は身近に迫っています。教会も次第に、集まる礼拝のプログラムをもてなくなってきました。このイエスの十字架と復活を覚えるべき大切な週に、教会に集まれないという嘆きが渦巻いています。いえ、諦めかもしれません。
 
適切に恐れなければならないことはもちろんです。無謀に立ち向かうことのできない、見えない敵です。俺たちは信仰があるから感染しない、と集まっているような集団があるという噂を聞きますが、とんでもないことです。かといって、安易に「礼拝を休みます」などとは言ってほしくありません。物理的に集まることはやめても、「礼拝」はやめたり、休んだりするものではありません。もしそういう言葉を使ったら、教会は自ら死にましたと宣言しているようなものです。礼拝するのが教会の命であり、ほぼ唯一の使命です。言葉の使い方の間違いさ、などと軽く言ってくださるな。私たちの信仰は、言葉の信仰です。神が言葉であり、命の言葉を受け、伝えるのです。言葉を軽く扱うことは、断じてあってはなりません。
 
しかしまた、うろたえて右往左往しているという実情があること自体を非難するつもりもありません。人間の弱さもありますし、いろいろな不安を抱える人もたくさんいるはずです。そこでこの復活祭の礼拝において、この世界に、マグダラのマリアを通して、神は呼びかけてきたのです。「イエスはどこに置かれているのか」と。イエスは死んだままなのか。イエスはいなくなったのか。おまえは今、イエスのことを考えているのか。イエスを捨ててしまっていないか。これまで平和な時に、何を信じていたと言っていたのか。口先だけなのか。去年偉そうに信じますなどと祈っていたのは何だったのか。
 
あなたは、イエスをどこに置いているのか。
 
マリアは、問うた相手がイエスであることに気づかされます。顔を見たら分かるんじゃないか、などと他人事のようにこの場面を批評してはいけません。少なくとも私にはそんなゆとりはありません。マリアはイエスを見出しました。しかも、生きているイエスにです。どこに置かれているか分からなかったイエスと、改めて出会ったのでした。そしてそのイエスはマリアに、仲間たちにイエスのことを話して伝えよ、と命じました。マリアは、行って、「わたしは主を見ました」(20:18)とまず告げました。
 
あなたは、イエスをどこに置いているのか。
 
この厳しい問いかけに対して、答えようではありませんか。
 
わたしは主を見ました。
 
マリアが引き取ろうとしたイエスは、マリアが上げるのではなくて、父なる神により起き上がらされていました。これは「復活」と呼ぶ出来事です。復活とは、起き上がらさせることだからです。もう、ただ置かれているのではありません。イエスは一度死にましたが、そして私たちが殺しましたが、神はイエスを起き上がらせました。もう死んではいません。生きておられます。
 
何度でも言います。「イエスはどこに置かれているのか」と問われたとき、「わたしは主を見ました」と答えたい。読者よ、神が復活させたイエスと、確かに出会ったのだ、と、はっきり口に出せ、そのような出会いをするのだ、そう願いつつヨハネは筆を走らせていたと私は想像します。私たちは、この復活の出来事の記録に、全身巻き込まれていくことにより、悪夢ではなく、命の光を見ようではありませんか。私たちも、起き上がろうではありませんか。



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