私の聖書観

2020年4月10日

聖書のここの意味はこうです。断言する人がいます。聖書はそんなことは言っていません。あなたの理解は間違っています。こう教える人もいます。
 
そんな人とは、話ができない、と私はいつも思います。そして、私の思う聖書との関わりを、その人は経験したことがないのだ、と率直に思います。
 
科学のように、聖書が何かしら一定の命題で成り立っている、などと私は考えていないからです。もしそのようなものだと、聖書の言葉は、「私」から独立したところに位置するだけで、「私」と結びつくものではないことになります。すっかり対象化されているだけのものでしかなく、「私」がなくても聖書の言葉は客観的に存在するだけのものとなってしまいます。
 
元々は「聞く」ものであったし、その後「読む」ものとなって些か変容する側面があるにしても、聖書の言葉が「私」に呼びかけられ、「私」に変化が起こります。恰も、観測者の影響なしに科学的観察が成立しないということが、前世紀の物理学で明らかになったのと同様に、聖書の言葉と出会った「私」と、その言葉はまさに結びつくのです。そしてそこから、新しい出来事が生まれます。神の言葉が出来事となるのです。こうして新たな創造が起こります。また、そこから新しい歌が生まれます。
 
だから、聖書の言葉は、それと出会うそれぞれの「私」との間で、異なった意味を以てその都度説明できるのであり、使徒言行録のように、それぞれの「私」の歴史が生まれ、刻まれていくことになります。
 
ここに、真の多様性が表れます。多様性とは、みんな違ってみんないい、というようなことではないのです。神の言葉がそれぞれの「私」において出来事として創造されるのが、当然別々であり多様であるという意味においてこそ、多様性があるとするのでなければ、神の国においては意味がないのです。
 
もしそうでなく、みんな違ってみんないい、というのが尊重すべき多様性あるいは自由であるとするならば、「多様性や自由を許さない」という思想も(パラドクスが生じるということはともかくとして)認めざるをえなくなります。けれども、神の言葉との出会いから「私」を通して起こる出来事の多様性という前提があるならば、そのような思想は埒外のものとなるでしょう。
 
聖書を自分から離れた対象として取り扱うことしかできない者は、聖書から自己を揺るがされることがありません。自己の外に聖書の言葉が存するだけであって、それを冷静に観察する自己はそこから影響を与えられることなく、絶対的に存立していることになります。つまりはこれが、自分を神とする、という現象にほかなりません。そして、そのような構造に陥っているということにも、自ら気づくことがありません。怖いことです。そして依然として、聖書のここはこういう意味だ、君の理解は間違っている、と吠え続けるのです。
 
もちろん、聖書の言葉と出会うこと、それがまた、神と出会うことでもありますし、神の声を聞くということでもあるはずです。神との交わりの内にあることであるし、それは愛による交わりでもありましょう。神の支配の内にいる、つまり神の国がそこにあるということにもなりますし、だからまた、ここにある、そこにある、と言うものではない神の国の性格をも表していることになるだろうと思います。それは滅びることがなく、いまこの時において、終わらない永遠のものでありえます。自分を神とするようなことから救われるのであり、神との信頼関係の内に確固たる立場をもち、支えられ、護られているということなのだろうと告白します。
 
これが、私の聖書との出会いから言える、精一杯の原理的な「聖書観」です。
 
この受難日を、私も、また多くのクリスチャンが、未曾有の状況の中で迎えています。けれども、聖書と向き合い、神の言葉と結びつくことにおいては、何も妨げるものはありません。今日は「私」の一日です。十字架のイエス・キリストとつながることについて、何の障害もありません。十字架の主からの言葉を聴きましょう。それを引き受けて、「私」もまた、十字架につけられる出来事が生じる時でありますように。



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