【メッセージ】はたして誰が

2020年4月5日

(ヨハネ19:17-30)

この後、イエスは、すべてのことが今や成し遂げられたのを知り、「渇く」と言われた。こうして、聖書の言葉が実現した。(ヨハネ19:28)
 
ピラトは、ローマ帝国からユダヤの地を治めるように遣わされていました。そこへ、捕まえられたイエスが引き渡されました(18:35)。尋問しますが、ピラトには特に有罪とする理由が見つかりません。鞭打ちを行い、ユダヤ人たちにその惨めな姿を見せれば、もうユダヤ人の王だなどということではないと気づくだろう、と考えます。しかし、ピラトの思惑とは異なり、ユダヤ人たちはますます興奮して、「殺せ、十字架につけろ」と叫び続けます。ピラトは、ついに抑えるのを諦めてイエスをユダヤ人たちに引き渡しました(19:16)。
 
ユダヤ人たちは、イエスを引き取ります(19:16)。ここから今日開かれた聖書箇所に入ります。しかし、ここは一つひとつ検討すれば、限りなく広く深く説明しなければならないことがあり、詳細に読もうとすると、何時間あっても足りません。もちろん、私もすべてを知るわけではありませんから、解説のようにすることは、ピラトのように諦めることとします。
 
それよりも、この福音書の記者が、イエスの死というひとつのクライマックスをどのように描いているか、その角度から見渡してみることにしたいと思います。それは、誰を主人公としているか、という観点です。もう少し具体的に言うと、「主語は誰か」という点です。今回それに注目することで、私は、物語をただ辿っているだけでは気づかなかったことを教えてもらったような気がします。その個人的な読み方を、押しつけがましいのですが、皆さまと分かち合っていきたいと願います。
 
19:17 イエスは、自ら十字架を背負い、いわゆる「されこうべの場所」、すなわちヘブライ語でゴルゴタという所へ向かわれた。
 
時折「ゴルゴダ」と言ったり書いたりする人がいますが、「ゴルゴタ」です。死刑執行の場所ですが、そこへ行くまでイエス自身が十字架を背負いました。この行動については、イエスが主語です。イエスの十字架は、ピラトのせいでもなく、歴史上勘違いされたようにユダヤ人のせいでもなく、イエス自らが背負ったものだったと記されています。
 
ところがこの次の節からは、主語が変わってきます。長いですが読んでいきましょう。
 
19:18 そこで、彼らはイエスを十字架につけた。また、イエスと一緒にほかの二人をも、イエスを真ん中にして両側に、十字架につけた。
19:19 ピラトは罪状書きを書いて、十字架の上に掛けた。それには、「ナザレのイエス、ユダヤ人の王」と書いてあった。
19:20 イエスが十字架につけられた場所は都に近かったので、多くのユダヤ人がその罪状書きを読んだ。それは、ヘブライ語、ラテン語、ギリシア語で書かれていた。
19:21 ユダヤ人の祭司長たちがピラトに、「『ユダヤ人の王』と書かず、『この男は「ユダヤ人の王」と自称した』と書いてください」と言った。
19:22 しかし、ピラトは、「わたしが書いたものは、書いたままにしておけ」と答えた。
19:23 兵士たちは、イエスを十字架につけてから、その服を取り、四つに分け、各自に一つずつ渡るようにした。下着も取ってみたが、それには縫い目がなく、上から下まで一枚織りであった。
19:24 そこで、「これは裂かないで、だれのものになるか、くじ引きで決めよう」と話し合った。それは、/「彼らはわたしの服を分け合い、/わたしの衣服のことでくじを引いた」という聖書の言葉が実現するためであった。兵士たちはこのとおりにしたのである。
19:25 イエスの十字架のそばには、その母と母の姉妹、クロパの妻マリアとマグダラのマリアとが立っていた。
 
「十字架につける」という言葉は一つの語です。想像するだけでも酷い刑です。掌というよりは手首ではないかと思われますが、とにかく肉体に釘打たれましたし、足の甲も同様でした。ただ、そのままでは体重で肉がちぎれて落下してしまうので、足の台があったのではないかとか、手が縛られていたのではないかとか考えられています。ローマ帝国では、ローマ市民でない者の反逆罪など国家を脅かす行為については、この見せしめとしても効果があり、刑自体としても残酷さの極みであるという十字架刑を多く実行しました。時代や場所などにより、スタイルはいくつかあったようです。イエスのつけられた杭が本当に「十」の形であったのかどうかも確定はできないようです。けれども、自ら自分の死刑台となる杭、恐らく横木を背負い刑場まで歩かされ、ついに用意された杭に下げられたのでした。自分の体重で自分の内蔵が裂け、しかし即死とはならないために激しい渇きと共に苦痛が長時間続く、しかも見せしめのための刑であったと言われています。
 
ヨハネの記述では特に、イエスはいともあっさりとこの死刑台につけられました。「彼らはイエスを十字架につけた」(19:18)と短い一文で、十字架の上の苦痛でしかない時間が始まってしまったのです。そこからしばらく25節まで、イエスは主語にはなりません。20節に「イエスが」とありますが、これは文の主語にはなっておらず節の中です。25節も「イエスの十字架」と説明のために出てくるだけで、イエスは全く主語になっていません。「彼ら」というのは「ユダヤ人たち」であるとすると、そのユダヤ人たちと、ピラトとのやりとりと、ピラトの行ったことが記されます。兵士たちも主語になっています。旧約聖書の言葉が実現したことを示すためでした。それから、イエスの母と身近な女性たちだけが、イエスのそばに立っていたことが記録されています。
 
息子の十字架刑の姿を見つめることが、いったい母マリアにできたものかどうか、分かりません。七人の息子の酷い殺害を見せつけられても信仰に立ち勇敢に振る舞った母親の話が、マカバイ記二の7章に書かれていますから、ユダヤ人の女性はそのように強かったのかどうか、それも分かりません。生まれたイエスをエルサレムの神殿に連れてきたとき、母マリアはシメオンから、「あなた自身も剣で心を刺し貫かれます」との言葉を受けましたが、まさに今それが実現したような場面です。よくぞ、見届けたと驚きます。
 
この叙述の間、イエスは一言も言葉を発していないし、ヨハネはイエスを主語としては全く登場させていません。イエスの他の登場人物たちを次々と主語にして、情景を描写しています。イエスは、ユダヤ人たちに引き渡されて(19:16)いましたから、イエスはただ彼らにされるがままとなっていたことになります。そして言うなれば、罪人たちが、主体となってイエスを取り扱っていくのです。イエスは人間のなすがままに扱われています。十字架の上で、なすすべもなく放置されていることになります。今回この様子を脳裏に焼き付けておくことにしましょう。自ら背負った十字架の描写を最後に、イエスはもう自分では何もしないし、何も言うことがなくなっていくのです。罪ある人間たちばかりが、イエスの周辺でばたばたと意志を以て動いています。
 
久しぶりにイエスが主語として登場するのは26節からです。もう大概弱っていて苦しみの極みであっただろうと思う中で、なんと声を出して、見届ける女性たち、そしてイエスの「愛する弟子」に対して、一方的に言葉を投げかけます。
 
19:26 イエスは、母とそのそばにいる愛する弟子とを見て、母に、「婦人よ、御覧なさい。あなたの子です」と言われた。
19:27 それから弟子に言われた。「見なさい。あなたの母です。」そのときから、この弟子はイエスの母を自分の家に引き取った。
 
不思議な言葉です。しかしその意味や背景を掘っていこうと努めるよりは、今日は今日の関心に従って読み進めることにします。今日は、誰が主語か、という叙述に注目しているのです。それで、イエスが母に対して、また「愛する弟子」に対して、言い残すことを伝えます。新たな親子となるのだ、ということを、それぞれに語りかけます。これは、新たな教会共同体への言及であるとも受け取ることができるでしょうが、その際どうしても、度々この福音書に登場して目立つ働きをする、謎の「愛する弟子」がイエスの母を預かるという新たな関係性を、私たちは意識せざるをえなくなります。人々が酸いぶどう酒をイエスの口に運ぶというところのほかは、このあと最期まで、イエスは主語として、いわゆる十字架上の七つの言葉のうち二つを絞り出します。
 
19:28 この後、イエスは、すべてのことが今や成し遂げられたのを知り、「渇く」と言われた。こうして、聖書の言葉が実現した。
19:29 そこには、酸いぶどう酒を満たした器が置いてあった。人々は、このぶどう酒をいっぱい含ませた海綿をヒソプに付け、イエスの口もとに差し出した。
19:30 イエスは、このぶどう酒を受けると、「成し遂げられた」と言い、頭を垂れて息を引き取られた。
 
とても悲しい場面です。そして発された言葉は謎めいています。また頭を「垂れて」という言葉は、「人の子には枕する所もない」(ルカ9:58)という文にも使われていました。この世でできなかったことが、この十字架の上でついに完成して完了したというところに、救いの道が示されたことを私たちは覚えます。ただ、今日はそれを味わうゆとりがありません。ご容赦ください。
 
さあ、ここまでイエスの十字架の死へ至る過程を辿ってきました。そのとき、主語は何かということに注目してきました。まず、イエスが自ら十字架を背負いました。しかしその後ユダヤ人やピラト、また兵士たちが主語として描かれ、イエス自身が何かをしたということは一切語られませんでした。イエスはひたすら受動的に、引き渡され、引き回されていただけでした。ところが、イエスの身内や弟子にスポットライトが当たった痕は、イエスが主語となり、彼らに言葉を告げ、それから聖書の預言が実現するために、誰へということなく、「渇く」それから「成し遂げられた」と言葉を発しました。
 
私はこのように読むとき、自分の姿をそこに重ねざるを得ない経験をしました。私はかつて、世界の問題を、キリスト教のせいだと考えていました。この神はとんでもない歴史をつくってきてしまった。傲慢にも世界の王のように教会が君臨し、世界の国々を支配し、あまつさえ文明を滅ぼし、多くの戦争を起こし、地球環境を破壊することを正当化してきたのだ、と断罪していました。
 
けれども、そんな私でも、神の怒りを浴びたり、罰されたりはしませんでした。イエスはもうこのときすでに、ご自分の十字架を背負っていたのです。そして私に引き渡されると、無言で私の罵声と非難に耐えていたのです。私はピラトであり、兵士たちであり、ユダヤ人や祭司長たちでした。私の手に引きずられて、主イエスは屠り場に連れて行かれる小羊のように、縄で縛られてただ黙々と、なされるがままにしていたのであり、高々と十字架に挙げられて、無言で痛みに耐えていたのでした。
 
イエスは十字架の苦しみの中で、最期の時に「渇く」と言い、「成し遂げられた」と言いました。それは、この福音書の場面を見る限り、誰に対して言ったのか、判然としない言葉でした。でも、私は聞いたのです。そう、この言葉は、この私へ向けて告げられた言葉だったのです。
 
「渇く」――おまえはまだわたしを愚弄することしか能がないのか。わたしの中には命の水が豊かにあるが、自分のことすら分かっていないおまえに向けて注いでも、おまえの中にその水は注がれない。空のバケツのようなおまえは、命の水が流れる川に浮かんでいる。自分でしっかりと立っているつもりなのだろうが、実はぷかぷかとただ流されるだけの存在、根無し草だ。粋がっているものの、自分の罪にさえ気づかず、世界の中心で、山の頂上で世界を見下ろしているようなつもりであるのだろう。おまえはわたしの水を受けようとしない。わたしの命はおまえの中には入らない。おまえがバケツとして浮いているかぎり、わたしの中におまえは入らないし、おまえの中にわたしは入らない。わたしの命の水は、おまえの外にあるだけだ。わたしも、やるせなくて渇いている。しかしおまえも渇いている。バケツの中は日照りの中でカラカラに渇き、空っぽのまま、そのまま死んでいくだけではないか。
 
私はこのイエスの十字架を見上げたとき、そしてはっきりとではないかもしれないけれども、イエスの言葉を聞いたとき、自分の姿に気づかされました。この方とサシで向き合ったとき、私は自分の姿を知りました。人を愛せない自分に愛を教えてくれました。本当は命を失うのが怖いくせに、死ぬことばかり考えていた愚かな人間に、よみがえりの命の存在を見せてくれました。真理を求めたいという思いには、真理はここにあるではないか、と血に染まる手足を惜しげもなく示してくれました。生まれつきどうしようもない問題を抱える私に対して、それは神の栄光が現れるためではないか、と聖書の話を聞かせてくれました。
 
そうして泣き崩れる私に、イエスは、「成し遂げられた」と言って、それまで置き場のなかったその頭を、静かに、安心して、十字架を枕とするように、垂れて息を引き取りました。「息」という語は、「霊」と同じ語です。イエスと共に、かつての自分に死んだ経験をした私は、イエスのその「霊」を受けました。そして、生まれ変わって新しい命に生かされることとなったのです。私のバケツの底は破れました。バケツの中には、イエスの命の水が流入してきました。私の中に、命が流れこみました。そしてバケツは命の水の流れの中にすっかり入りました。私が、命の中に招き入れられたのでした。バケツの私は溺れ死にましたが、生きるようになりました。
 
イエスの死は、やがて究極の死を迎える前に、新しく生きる命をもたらすための死へと私を誘いました。このイエスの業は、いまも、今日も、起こり得る出来事です。この言葉を聴く、一人ひとりのために、イエスは何度でも、「成し遂げられた」と言い続けるに違いありません。



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