【聖書の基本】「ナザレのイエス、ユダヤ人の王」

2020年4月5日

ピラトは罪状書きを書いて、十字架の上に掛けた。それには、「ナザレのイエス、ユダヤ人の王」と書いてあった。イエスが十字架につけられた場所は都に近かったので、多くのユダヤ人がその罪状書きを読んだ。それは、ヘブライ語、ラテン語、ギリシア語で書かれていた。(ヨハネ19:19-20)
 
ヘブライ語は、ユダヤ人たちが読めるように。但し、これが本当にいまで言うヘブライ語であるのか、あるいは当時一般的だったとされるアラム語(ヘブライ語に似てはいる)であるのか、それはもしかするとよく分からないのかもしれません。
 
ラテン語は、イタリアに発祥するとされるローマ帝国の言語。そもそも言語というのは、時代とともに変遷していくものですし、英語にしても、中世の英語はいま読むにはあまりに違いすぎるというようなことがあります。イエスの時代のラテン語だと、文語体が書かれていたようなものではなかったでしょうか。ローマ帝国は、法や建築など実学的な分野では目覚ましい発展を示したものの、文化的にはギリシア文化を受け継ぐような傾向がありました。
 
アレクサンドロス王のマケドニア帝国が広大な帝国を築き、東西の文化が出会い、いわゆるヘレニズム(ギリシア文化)とヘブライズム(ユダヤ文化)との融合が起こったことが、現在の欧米文化の形成の基礎をなしていると理解されています(もちろんケルトなど多様な文化を背景としている側面もある)。このときに、ギリシア語が広く通用する言語となり、東の地域ではギリシア語が中心となり、西はラテン語が公的な語であっても、ギリシア語は広く使われていたと見られています。ざっくり見ると、いまの英語の役割をギリシア語が果たしていたとでもしておきましょうか。ギリシア語を母語とする人が一番多いのではなかったと思われますが、英語でもそうした事情があると言えます。
 
罪状書きは三つの言語で書かれていたとヨハネは証言しています。しかしそのうち、ラテン語の「Iesus Nazarenus Rex Iudeorum」(いまのJは元々Iでした)が特別に有名になり、西洋絵画でもこれが描かれることになりました。結局カトリック教会の公用語としてラテン語が、半世紀ほど前まで正式の典礼でずっと使われていたために、ラテン語の頭文字INRIが知られ続けたということではないかと思われます。ラテン語は、西欧中世の言語として正式に使われていたために大学の正式な言語であり、現在でも学名はラテン語が正式なものとして使われるようになっており、それは近世になっても、17世紀のデカルトやスピノザの時代もラテン語による著述が当たり前であったし、18世紀のカントもラテン語による本があります。但し、カントは学術書を母国語であるドイツ語で書き始めた嚆矢であるとも考えることができるでしょう。
 
他の言語での翻訳を認めないイスラム教と異なり、キリスト教は、各国語への翻訳を積極的に進めてきました。そもそも新約聖書がギリシア語で書かれているということ自体、ある意味で不思議であり、そこからまた新約聖書をどう読んでいくとよいのかを謎にしていると言えますが、日本で訳された聖書の言葉にも、神の力は働くものと私たちは信じていることに違いはありません。しかし元々書かれた意味が、日本語のイメージで変化していることも考えられます。聖書すべてを言語で読むのは難儀ですが、時折、元の言葉のもつ意味やその使われ方というものに、関心を向けてみると、思い込みを少しでも避けられるかもしれません。
 
ところが、新約聖書もギリシア語という、いわば翻訳言語で著されているものですから、たとえギリシア語に詳しい人が読んだのであっても、果たしてそもそものイメージとどこまで一致しているのかどうか、保証できないとの見方も可能です。要は、聖書という偶像を仰ぐのではなく、そこから読んだ私たちが、どのように神と出会い、神の声を聞くか、そして神の言葉を出来事としていくことに参与するか、そうしたところに力点を置くようにしたいものだと願います。



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