【メッセージ】ある

2020年3月22日

(ヨハネ18:1-11)

イエスが「わたしである」と言われたとき、彼らは後ずさりして、地に倒れた。(ヨハネ18:6)
 
Flying Tiger Copenhagen という、輸入雑貨店があります。大名クロスガーデンの近くにもあるようですが、イオンモール福岡にも比較的最近できました。迷路のように棚を全部見て歩かなければレジに辿り着けないというシステムで、途中であれもこれも、とカゴに入れるように誘うのだろうと思いますが、その最初のコーナーまでが、いま全部イースター・グッズ。うさぎや卵をモチーフとしたグッズが所狭しと並んでいます。その名のとおり、デンマーク発祥の雑貨店です。
 
クリスマスも、ハロウィンも、それなりに定着した中で、商業界は次のイベントとして、イースターを狙っているのかもしれません。すでにお菓子メーカーはイースターをフィーチャーしていましたが根付かず、東京ディズニーランドのパレードのほうが、よほど華々しくアピールできていたかもしれません。それとも、夢の国だからできたことなのでしょうか。
 
イースターというのは、日本語でいうなら「復活祭」。イエス・キリストが復活したことのお祝いです。命を象徴する卵や、多産なウサギが西洋でこれに関連付けられてきた経緯があるようです。でも待ってください。復活というには、一度死んだという前提があるはずです。キリストの死、それは口にするのも忌まわしいほどの、残忍な死でありました。ローマ帝国において政治犯など最大の犯罪者のための死刑台。死への苦しみと見せしめの効果としてはこれ以上ない、なぶり殺しの刑でした。
 
イエスをこのローマに引き渡したのが、イエスが愛した弟子のひとり、イスカリオテのユダであったということは、ご存知でしょうか。4つの福音書が皆、このユダについて書いています。その描き方はいろいろ異なるのですが、だからこそなおさら、ユダのしたことが私はリアルに感じられます。ともかく、ユダについてよく、「イエスを裏切った」と言われています。ユダが他の弟子たちと比べて特別なことをしたことは分かりますが、まるでユダだけが「裏切った」かのように聞こえることには、警戒すべきではないかと私は考えています。ペトロにしても、イエスを知らないと逃れて裏切ったとも言えるし、そもそも弟子たちは皆イエスを見捨てて逃げたのです。誰もが裏切った状況でした。
 
ユダが「裏切った」と、確かに新共同訳は訳しています。他の訳では、「売る」というものが少しと、「引き渡す」というものがいくつかあります。私は、「引き渡す」が相応しいのではないかと思っています。イエスが、生贄の子羊のように縛られ連れられて行くことをも含めて私たちが捉えることができると見るからです。
 
ユタがイエスを引き渡す場面には、他の福音書のように、イエスに接吻(若い方、分かります?)しようと近づいて行くのが定番です。暗がりで、捕まえるべきイエスかどの人物であるかを間違いなく導くための手先として用いられたのです。しかし、ヨハネによる福音書にはこの接吻の場面がありません。
 
イエスが弟子たちと、夜出かけたのは、日々のルーチンであったようです。ユダもイエスたちの毎日の行動パターンを知っていますから、その場所へ、イエスを逮捕するために集められた者たちを連れて来たというのでした。
 
18:2 イエスを裏切ろうとしていたユダも、その場所を知っていた。イエスは、弟子たちと共に度々ここに集まっておられたからである。
18:3 それでユダは、一隊の兵士と、祭司長たちやファリサイ派の人々の遣わした下役たちを引き連れて、そこにやって来た。松明やともし火や武器を手にしていた。
 
ユダの役割は、イエスを特定することというよりも、イエスが夜な夜な来る場所へと一同を案内することだけだったようです。しかしヨハネは、ここにユダがいることを執拗に指摘します。ユダは完全に敵の一部であり、イエスはその敵たちに取り囲まれたのです。
 
18:4 イエスは御自分の身に起こることを何もかも知っておられ、進み出て、「だれを捜しているのか」と言われた。
18:5 彼らが「ナザレのイエスだ」と答えると、イエスは「わたしである」と言われた。イエスを裏切ろうとしていたユダも彼らと一緒にいた。
 
イエスは逃げも隠れもしません。この後分かりますが、弟子たちを守ろうとしたためだとも思われます。堂々と前へ出て行きます。何もかも知っているとするのは、ヨハネの描くイエスらしさをよく表していると思います。が、いまはそのことには拘泥しません。「だれを捜しているのか」と問います。敵たちは「ナザレのイエス」と答えます。弟子たちを含むものではなく、ターゲットはイエスひとりであることがはっきりしました。
 
18:5 イエスは「わたしである」と言われた。イエスを裏切ろうとしていたユダも彼らと一緒にいた。
 
ユダはここまで登場し、この後場面からは隠れます。ユダの役割は終わりました。それに代わり、ここに現れるのが、奇妙な言葉です。「わたしである」と答えたというイエスの言葉は、「ナザレのイエスを捜している」という敵たちの言葉に対して、発されました。これだけ読むと違和感はさほどないでしょう。その意味では、日本語訳が優れていたことになります。けれども、この「わたしである」と訳した部分は、深い理解の必要な語でした。もし原文を読んでいったとすると、思わず叫びたくなるような語となっているのです。
 
いま私の手許で確認できる日本語訳聖書でこの言葉を拾ってみます。
 
『我はそれなり』(文語訳)
「我なり」(永井訳)
「私である」(聖書協会共同訳)
「わたしが、それである」(口語訳)
「わたしがそれだ」(前田訳・新改訳2017)
「それはわたしです。」(新改訳)
「それはわたしだ。」(塚本訳)
「それは私だ」(ギャロット訳)
「それはわたしである」(フランシスコ会訳)
「私〔なら、ここに〕いる」(岩波訳)
 
繰り返しますが、日本語の流れからすると、これは大変なだらかで、読む方としては何の気にも留まらないような巧い訳です。しかし、たとえば原文には「それ」という語はありません。ここにある語は、「わたし」と「ある」だけなのです。英語ならば「I am」となっています。これでは、この日本語訳の殆どに共通している「である」というものとは異なることになってしまいます。僅かに岩波訳だけが、苦労の末、「である」を避けるように表しています。
 
何を言いたいのか、いま不思議に思っている方が多いかもしれません。少し脇道へ参りましょう。ここで確認したいのは、日本語で考えて「である」と「がある」の違いだというふうに説明してみることにしましょう。
 
「ある」という日本語は、これに付く助詞によって、意味が大きく変わってくる言葉です。「で」が付くと「である」となり、主語のほかにもうひとつ何か言葉が必要です。「私はである」は文として意味をなさず、「私はクリスチャンです」となって初めて伝わる内容をもつことになります。英語ならば、「I am a Christian.」と、「補語」が必要となります。(この言い回しで自己紹介をするSNSのグループがありますが、そこには加わらないほうが無難です。)
 
他方「が」(あるいは「は」)が付くと「がある(はある)」となり、これだと主語とこれだけで文が成立します。「机がある」、生き物ならば「犬がいる」で、意味が通ります。英語だと「There is a desk.」というふうに「そこに」のニュアンスが付くことが普通でしょうし、机を主語にすると場所を表す前置詞句が付いて「A desk is in my room.」のように言わないと落ち着かないかもしれませんけれど、聖書のような文脈でいうと「God is.」で、「神がある」つまり「神が存在する」という意味をもつことができます。
 
「である」と「がある」の違いは整理できたでしょうか。実はこのヨハネによる福音書で幾度も登場する大切なフレーズが、この「神がある」なのです。正確には「私がある(私はある)」という句です。ギリシア語は日本語のように主語を省略するのが一般的に表現で、日本語でも、会話の中で「私が」「私は」を連発するとくどく、いやらしく聞こえますね。まして「あなたは」「あなたは」といちいち言うと、ケンカのようになってしまいます。ギリシア語でもそうで、「私は」という語は基本的に使いません。出てきたら、それは何らかの意味で強調しているのだ、というふうに取るのが普通です。また「ある」も省略することが少なくなく、「である」の方はなくても通用します。このように、必ずしも通常登場しない二つの語が、ヨハネによる福音書では時折並び、イエスのこと、つまりは神のこととして示されるのです。
 
今日開いた箇所でも、「わたしである」というのは、考えてみれば少し不自然な文です。だからいくつかの訳が「それは」を補って「それはわたしである」と自然な日本文にしています。しかし文の主語は「私は」ですから、「私がそれである」のほうがいくらか原文に近いことになりますが、原文は端的に「私はある」だけとなっています。
 
この「ある」はもちろん、英語で言えば現在形です。現在形というのは、過去でなく未来でもなく現在、ということを表すこともありますが、永遠の真理を表すこともあるように、時間に制約されず普遍的に成立することをも表すことができます。ここでも「私はある」あるいは「神がある」というのは、過去も未来も現在もすべて含んだ形で、すべてにわたりいつでもどこでも存在する、ということを言うはずです。いまはここに神がいるけど、やがていなくなるよ、ということはないし、かつて神はいなかったけどいまはいるんだよ、ということを伝えているとは思えません。
 
このことは、旧約聖書で、ヘブライ語を用いても同様に考えられていました。モーセが神の山ホレブで、燃える柴の間から神の声を聞く時です。モーセは民をエジプトから導き出すのだと使命を受けますが、同胞に神の名を訊かれたら何と答えたらよいかと神に問います。
 
3:14 神はモーセに、「わたしはある。わたしはあるという者だ」と言われ、また、「イスラエルの人々にこう言うがよい。『わたしはある』という方がわたしをあなたたちに遣わされたのだと。」
 
もちろんここは新約聖書のギリシア語ではなく、ヘブライ語が使われており、一語ではありますが、確かに「わたしはある」という意味で神の名が明かされています。名としては不思議な響きをもちますが、これが神の名であるという意味で私たちは受け止めるしかないし、その後神の名をみだりに唱えるなということから口に上らせはしなくなりましたが、イスラエルで伝えられる神の名は「ヤハウェ」のようなものではなかったか、と研究されています。これはたとえば「本気」と書いて「マジ」と読ませるようなふうに説明されます。つまり、神の名は「本気」と書いて「ほんき」と発音するのですが、それを口にするのを憚って、「本気」に「マジ」というルビを振って、必ずそう読むようにさせた、というような背景があります。分かりにくい喩えですみませんが、その「ヤハウェ」の語が、この「わたしはある」と直結しているというように見られている事情があります。実はここは、旧約聖書の中でも最も熱い議論が戦わされている箇所であって、その数も質も最大ではないかと見られています。そしてその議論には、決定的な唯一の結論というものは出ないであろう、とも考えられているとのことです。
 
よりによってイエスは、この最大の謎の部分を、ヨハネによる福音書で口にします。8章で、イエスはユダヤ人たちに、自分の行く所にあなたたちは来ることができない、と言いしばし「おまえは誰だ」という問いにイエスが答える場面です。あなたたちは自分を捜すだろうが、あなたたちは自分の罪のうちに死ぬ、と告げ、自分はこの世には属していないと言ったことに続いて、こう言います。
 
8:24 だから、あなたたちは自分の罪のうちに死ぬことになると、わたしは言ったのである。『わたしはある』ということを信じないならば、あなたたちは自分の罪のうちに死ぬことになる。」
 
これは神の名を名乗ったというようなものです。ここにいたユダヤ人たちの中にはファリサイ派もいましたが、これが涜神的な言葉であることも直ちに感じたはずです。しかし、訝しく思ったからでしょうか、「おまえは誰だ」と問います。彼らは、イエスと父なる神との関係について語っても、理解することができません。
 
8:28 そこで、イエスは言われた。「あなたたちは、人の子を上げたときに初めて、『わたしはある』ということ、また、わたしが、自分勝手には何もせず、ただ、父に教えられたとおりに話していることが分かるだろう。
 
つまり十字架に架けて後に初めて「わたしはある」ということが分かると言うのです。確かにいま私たちは、そのようにして知りました。けれどもこれを耳にしたユダヤ人たちの中には、これを聞いてイエスを信じた者が少なからずいたとヨハネは記しています。イエスはさらにこれを信じたユダヤ人たちに、「真理はあなたたちを自由にする」(8:32)などと言いながら、アブラハムの子孫だから自由なのは当然だ、といった話に移り変わり、イエスがユダヤ人たちは信じないといったことを言うものですから、だんだんとユダヤ人たちはイエスについて行けなくなります。そしてイエスが悪霊に取り憑かれていると判断し始めたので、再びおまえは自分を何者だと考えているのかと問い詰めます。その中でアブラハムも自分を知っていたようなことをイエスが言うものですから、ユダヤ人たちはアブラハムを見たのかと問うたので、
 
8:58 イエスは言われた。「はっきり言っておく。アブラハムが生まれる前から、『わたしはある。』」
 
これでもうユダヤ人たちはかんかんになり、イエスに石を投げつけて殺そうとします。イエスは身を隠して逃げていくということでこの場面が終わります。
 
「わたしはある」ということを巡り、実に際どいシーンが生まれていました。こうした出来事をヨハネがくどくどと書いていることからしても、この「わたしはある」という言い回しに、ヨハネが大きな意味を見出していることは間違いありません。「わたしはある」のギリシア語は「エゴー・エイミー」のように言います。
 
18:5 彼らが「ナザレのイエスだ」と答えると、イエスは「わたしである」と言われた。イエスを裏切ろうとしていたユダも彼らと一緒にいた。
18:6 イエスが「わたしである」と言われたとき、彼らは後ずさりして、地に倒れた。
 
この「わたしである」も「エゴー・エイミー」です。日本語としての流れがどうであれ、ヨハネはここを、神の名を意識したフレーズで綴っていることから、目を逸らしてはならないと思います。イエスは、ここで神の名を名乗っているのです。
 
18:6 イエスが「わたしである」と言われたとき、彼らは後ずさりして、地に倒れた。
 
神の名を宣言したときに、彼らは地に倒れます。滑稽な演出のように見る人もいますが、神の名に力があることを示すひとつの場面です。彼らというのは、「兵士と、祭司長たちやファリサイ派の人々の遣わした下役たち」であったはずですが、そこには「ユダ」もいました。そう、「わたしである」の前に、「ユダ」も倒れたのです。イエスを地上の権力に引き渡した者、十字架の運命の引き金を引いた者ですら、絶対的に「ある」という神の名の前に、倒れたのです。やがてイエスは屠殺される小羊のように、無言で引き回されていくことになり、まるで神の正義や真理が敗れたかのような様相を示すことになるのですが、神の名は消して敗れたわけではないのです。ローマ帝国も、ユダヤ人の権力者も、そしてイエスを引き渡したユダもまた、神の名の前に、地に倒れたのです。上よりの力、天の栄光に輝く神の真実によって、この地上に倒れてしまうのです。
 
ペトロは、イエスのためにあらん限りの勇気を揮いました。剣を抜いて大祭司の手下、しかもマルコスという名までヨハネは調べていますが、その男の耳を切ったといいます。イエスはそれを咎めたのでもないし、裁いたのでもなく、「剣をさやに納めなさい。父がお与えになった杯は、飲むべきではないか」とだけ言ってそれ以上のことをさせませんでした。もうすでに、神の名は勝利しているのです。剣にて、地上の争いに挑む必要はないのでしょう。引き渡されるのならそれも結構。その辛い仕打ちを受けることを、「杯を飲む」と表現して、甘んじることを告げました。すでに神の名は勝っているし、引き渡されて十字架につけられることも、神の勝利へと続く中での出来事であることを知っているからです。
 
日本人は、「神を信じる」かどうか問われたとき、頭の中に、西洋的な神が「存在するか・しないか」を意識しやすいと言われます。ユダヤ人にとり、神の存在は問われるべきことではなくてもう前提でしかないわけで、「神を信じる」というのは、「自分が神を信頼するか・しないか」の問題でしかありません。もちろんキリストを信じることにおいても同様で、「自分がキリストを信頼するか・しないか」という態度を考えているだけのはずです。「わたしはある」というお方は、昨日も今日も明日も変わらず「ある」ということを改めて確認しました。しかしこれでは、まだ「神が存在する」というレベルに来ただけかもしれません。
 
さて、あなたはいま、この「ある」方を前にして、どこに立っているでしょうか。誰を信頼しているでしょうか。地に倒れているだけの者の中にいますか。自分で何とかしようと躍起になったペトロとしてそこにいますか。イエスは「この人々は去らせなさい」と言って、弟子たちを危険から逃がそうとしました。その、逃がされた中に、いるのでしょうか。案外、耳を切られたマルコスに身を寄せる人がいても、よいかと思います。とにかく「ある」ことについては一歩も身を引かない神が、私たちに迫っています。この後、十字架へと進んでいくことになりますが、あなたがどこにいるか、については、この十字架と復活の出来事に至るまで、この問題意識を持ちながら、聖書に向き合ってみては如何でしょうか。いえ、ぜひそうして戴きたいと願っています。



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