【聖書の基本】ユダの接吻

2020年3月22日

今回も、聖書の他の個所での描かれ方を比較してみることにします。
 
テーマは、イエスに近づくユダ。イスカリオテのユダと呼ばれ、会計を担当していたと見られる弟子のユダは、イエスを裏切った特異な存在として知られています。但しこの「裏切った」という訳は、必ずしも最適とは思えず、意味合いとしては「引き渡した」という言葉の言い換えが適当ではなかろうかとも考えられています。他の弟子たちも、イエスを捨てて逃げ、特にペトロはイエスを三度も知らないと言い張ったわけですから、すべて「裏切った」と呼ばれても仕方がないようなことをしています。要するにユダは、イエスを敵たちに引き渡したのであり、イエスは引き渡されるままにされたということです。それは、犠牲にされる動物が静かに引かれていく様子にも比較されます。
 
ユダは、イエスを奴隷1人分の金額で売り、当局の側につくことになります。昼間に神殿で捕り物をするわけにはゆかないらしく、夜密かにイエスを逮捕すためには、その行動を知る者が誘導するのが最適でした。ユダはその役を買って出たのです。そのユダがイエスに迫るシーンを比較してみましょう。
 
まずマルコ14章から。
 
14:43 さて、イエスがまだ話しておられると、十二人の一人であるユダが進み寄って来た。祭司長、律法学者、長老たちの遣わした群衆も、剣や棒を持って一緒に来た。
14:44 イエスを裏切ろうとしていたユダは、「わたしが接吻するのが、その人だ。捕まえて、逃がさないように連れて行け」と、前もって合図を決めていた。
14:45 ユダはやって来るとすぐに、イエスに近寄り、「先生」と言って接吻した。
14:46 人々は、イエスに手をかけて捕らえた。
 
次はマタイ26章です。
 
26:47 イエスがまだ話しておられると、十二人の一人であるユダがやって来た。祭司長たちや民の長老たちの遣わした大勢の群衆も、剣や棒を持って一緒に来た。
26:48 イエスを裏切ろうとしていたユダは、「わたしが接吻するのが、その人だ。それを捕まえろ」と、前もって合図を決めていた。
26:49 ユダはすぐイエスに近寄り、「先生、こんばんは」と言って接吻した。
26:50 イエスは、「友よ、しようとしていることをするがよい」と言われた。すると人々は進み寄り、イエスに手をかけて捕らえた。
 
そしてルカは22章。
 
22:47 イエスがまだ話しておられると、群衆が現れ、十二人の一人でユダという者が先頭に立って、イエスに接吻をしようと近づいた。
22:48 イエスは、「ユダ、あなたは接吻で人の子を裏切るのか」と言われた。
 
最後に、今回のヨハネ18章をどうぞ。
 
18:2 イエスを裏切ろうとしていたユダも、その場所を知っていた。イエスは、弟子たちと共に度々ここに集まっておられたからである。
18:3 それでユダは、一隊の兵士と、祭司長たちやファリサイ派の人々の遣わした下役たちを引き連れて、そこにやって来た。松明やともし火や武器を手にしていた。
18:4 イエスは御自分の身に起こることを何もかも知っておられ、進み出て、「だれを捜しているのか」と言われた。
18:5 彼らが「ナザレのイエスだ」と答えると、イエスは「わたしである」と言われた。イエスを裏切ろうとしていたユダも彼らと一緒にいた。
18:6 イエスが「わたしである」と言われたとき、彼らは後ずさりして、地に倒れた。
 
ヨハネのほかの共観福音書では、有名な「ユダの接吻」というものがあります。若い方々の中には、「接吻」が読めないとか、言われても知らないという方もいるかもしれませんね。もっと昔の先輩たちの中には、文学作品の中で「接吻(せっぷん)」という文字があると顔を真っ赤にしてどきどきしたりもしたことでしょうし、その文字で発禁処分を受けたというような時代もあったようです。そう、もちろんこれは「キス」のことです。日本にはその習慣はないと思いますが、洋画(こんな言葉も今は死語?)などを見ると、挨拶代わりにチークキスをするのは自然なことのようにも見えます。
 
聖書でも、イエスに香油を塗った女がイエスの足に接吻していました(ルカ7:38,45)。また、放蕩息子を出迎えた父親が走り寄って首を抱き、接吻したことが描かれています(ルカ15:20)。そして使徒言行録20:37では、エフェソの長老たちをミレトスに呼び寄せたパウロが、今生の別れを告げたときに、人々がパウロの首を抱いて接吻したことも記されています。こうして見ると、ユダの接吻のほかに「接吻」が出てくるのは、新約聖書ではすべてルカの手によるものであることが分かります。
 
因みに旧約聖書では、エリシャが預言者エリヤより召命を受けたとき、両親に別れの接吻をさせてほしいと願う場面があるほかは、箴言で二度、戒めのようにして、悪なる意図での接吻に言及されるだけです。
 
ヨハネによる福音書では、ユダは接吻しませんでした。そして、「わたしである」とのイエスの言葉に一同が倒れるという不思議な現象が描かれています。素直に読む限り、この倒れた面々の中に、ユダも混じっていたような気がするのですが、さて、本当はどうなのでしょうか。



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