蛍の光――益城町でのカフェ訪問を閉じて――

2020年3月21日

2016年4月、二つの巨大地震が熊本を襲います。一度目の揺れでもなんとか持ち堪えていた古い家屋も、二度目で潰れるということが起こります。
 
益城町。それまで知らなかった――「ましきまち」と読めなかったような――土地の名が、全国で有名になりました。熊本市よりも被害の大きかった町、です。
 
そこを訪ねる機会が私に与えられたのは、地震から半年ほども経ってからのことでした。仮設住宅の人々が集まって、何かしら話でもできる場所を提供したい。ひとときでも、笑顔になれる場がつくれないか。カフェということが決まっていたので、コーヒーを淹れることくらいしか取り柄のない私に、声がかかったのです。
 
幸い私の仕事のない曜日が選ばれたことで、とにかく行くことにしました。そして、それから2カ月に一度というペースで、カフェを形成する一員という役割が与えられることとなりました。別の曜日に開催された一度と、母が世を去った日に実施されたときとを除いて、そのすべてに参加できたことを、素直にうれしく思います。また、コーヒーは別の上手な方が淹れることも多くなった中、ただ話を聞いたり、折紙でデコレーションをしたりするくらいしかできなかった私を、メンバーに入れていてくれたスタッフにも、感謝のほかありません。
 
初めのうちは、被災地を巡ることもしました。来る度に、更地が増える様子が分かりました。表通りは、次第に震災の情景ではなくなっていく印象がありました。もちろん、随所に傷痕がありますが、町は次第に動き始めました。
 
さて、最初はどんなふうだろう、という感じで、集会所に顔を出して見た、ご高齢の方々が、もしかすると教会団体だということに殆ど気づかないほどにまで、安心してくださり、リピーターが現れたことは何よりでした。震災のときはどうでした、というような話も多く聞きました。息子がどこそこにいて、などという身の上話も聞きました。ただ聞くばかりしかできませんでした。そういう話を出す場所が必要と思われたからです。
 
そのうち、地震そのものの話よりも、いまどうだということや、ただ昔の歌を共に歌うだけでいいようにもなってきました。また、こちらもしばし、何かと隠し芸大会のような営みが続くようなこともありましたが、こちらが何かをしたい、という思いが先走っていないか、省みる機会にもなりました。とはいえ、直接現地に足を運ぶことはできなくても、クッキーを焼いたり手芸品を提供してくれたりしてくださったバックアップの方々には本当に頭が下がりました。
 
私にとっては毎回車にただ載せて戴いての旅でしたが、運転する側には労力と責任が伴います。かと言って私が運転するのもいろいろ拙い状況になりましょうし、ただお供するしかできませんでしたが、日曜日でお疲れの牧師が月曜日朝早くから一日がこのように使われていくというのは、大変なことだっただろうと思います。もちろん、当日だけでなく、事前に宣伝その他のために現地に赴くこともあったわけで、私のような者が何かをしたかどうかより、そちらのほうのご苦労を皆さまよくご理解ください。
 
熊本の教会の方々も毎回必ず参加してくださいました。舞踊や茶道などの本格的な技は、来てくださった女性の方々にとり良い楽しみとなりました。最後の機会に来ることのできなかったその舞踊の方によろしくと口々に言われるのでそれがよく分かりました。その他、カイロプラクティックのような技術などで慰安に努めるなど、技術をお持ちの方は喜ばれました。お菓子や料理の差し入れをはじめ、たくさんの心遣いが活動を支えてくれました。直接足を運んだ私たちは、いわば舞台俳優のようなもので、背後に大道具さんや衣装係がいないことには舞台は成り立ちません。さらに祈りの支えがあってこその、無事な運営であったことも確かです。神への感謝はもちろんのこと。
 
16日、その最後の機会となり、それを現地に知らせていたところ、多くの方が訪ねてきました。もう仮設住居自体、殆どの方が引っ越してしまっている中でした。新しく統合された仮設住居へ移る方もいれば、新築の家に入ることができる方もいて何よりでした。どうもこの日、すでに新しい住まいに移った方も、以前このカフェに来たことがあるということで、そして最後の訪問だという話が伝わって、来てくれたということではないかと想像します。ありがたい話です。
 
実は今日は病院に行かなくちゃいけないから、と始まる前に訪ねてきて、お菓子を差し入れてくださた方もいました。引越しの準備で家にいないといけないからと訪問の際お断りをされた方に、後からちょっと志のお菓子をお持ちしたら、野菜をくださったということもありました。皆さんからの、ありがとうの言葉が様々な形で届けられました。
 
そして明るく、いつものように歌うひとときが盛り上がっていき、お開きの時刻が近づいてきて、最後に何を歌うかなぁという頃になりました。最後はあれを、という目論見も実は司会者にはありました。が、「そろそろ最後に……」と言いかけたとき、皆さまのほうから、一筋の声がすうっと通りました。
 
「蛍の光」
 
それがいい、という空気がさあっと流れたのが分かりました。みんなの家に備え付けのカラオケにも、ちゃんとありました。スコットランド民謡としての「蛍の光」。ほんとうに、これにまさる最後の歌はありませんでした。近年では、紅白歌合戦の最後に歌うくらいしか触れる機会がなくなりましたが、だからこそまた、幕を閉じるところに相応しいと誰もが思うであろう、名曲「蛍の光」。そのメロディは、賛美歌にも用いられています。
 
涙が出そうでした。
 
でも、最後まで笑顔でした。深々と頭を下げるのは、私たちのほう。それぞれの住まいへ、それぞれの明日へと、ここから別れていく。いえ、分かれていく。何かをすることができたのか。何かを遺すことができたのか。人の目には、何もないような気がしてならないのですが、私はそこに、架け橋が確かに見えました。神の目には、もっともっと見えているはずだと委ねることができました。
 
とにかくそこにいなければ、何かが結ばれることもない。とにかく祈ることがなければ、天でつながることもない。でもたとえ人の力が及ばなくても、思いがそこに至らなくても、神というお方は、そちらから手を伸ばして無理にでも絆をつくり、懐に恵みを押し入れてくださるお方だ、という信頼を私たちがもっているならば、きっと将来が変化する。私たち自身が、変えられていく。
 
関わったお一人ひとりの上に、どうか安らかな導きがありますように。つながりが、切れませんように。どこまでも、いつまでも。



沈黙の声にもどります       トップページにもどります