説教は伝わっているか、そして手話通訳者の真実

2020年3月17日

礼拝メッセージの中で、熊本益城町の被災者を訪ねる逸話が出てきました。この活動には私も参加させて戴き、昨日その最終回を務めるに至りました。仮設団地がひとつに集約され、その場所での活動はもうできなくなるからです。この訪問について、また改めて少し詳しく記しますので、今回は、この逸話のほうに戻ります。
 
仮設住宅を訪ね、催しにいらっしゃいませんか、と声をかけても、そこへは行かない、と強く言う方がいたという話です。その理由として、被災の度合いが違うことが触れられました。離れて見ている者にとっては、どの人も「被災者」と一括りにして捉えがちですが、当事者にとっては、一人ひとり被害の状況は異なります。たとえば家が全壊した人と、半壊の人とでは、状況が異なるし、ショックの度合いも異なるでしょう。違うタイプの人と一つに集って語り合う、というような場には参加したくない、という意味を言おうとしていたのだと思います。
 
このとき牧師は、それら被害の度合いの違う人たちの間に「断絶がある」という言い方をしました。そして説明が続けられて行ったのですが、これを聞いていた高校生は、ちょっと立ち止まり思いを巡らせることになりました。「ダンゼツって、何?」
 
少し話が進むと、それは「隔たり」のようなことを言おうとしていることが分かりました。だから「そうか、断絶ということか」と彼は気がつきました。確証はないけれど、たぶんそういう意味なのだろう、と。それは短い時間だったかもしれません。けれども、「ダンゼツ」という言葉によって、思考回路が止まり、何のことかな、と考えるタイムラグが生じたのでした。
 
何が言いたいか。恐らく語る方は、「断絶があった」と言えばすべての人にその意味が伝わると思い込んでいた訳ですが、実は「断絶」という言葉に馴染みがない、あるいはその言葉の意味を知らない人が、聞く者の中にいる、という点です。伝えたいことを伝えるのに一番大きなメディアは、言葉です。その言葉で伝わる、と思っているから語るのです。しかし、その言葉の意味を知らない、あるいはピンとこないために少し考えが必要になる、という場合がある、ということです。
 
最後の益城町訪問の車中、私はその牧師の車に同乗させて戴いていましたが、そのとき、こちらが語った言葉が相手には伝わらないことがある、というようなテーマで話をしていました。いまの子は、「レンゲソウ」を知らない、といったことや、「ののしる」という言葉が古文では違う意味なんだよ、などと説明しても、そもそも今「ののしる」という言葉が何を意味するのか、中学生も全く知らない、という現状を私がお話ししました。そして、牧師もまた、「濡れ縁」についてイメージが分からないと正直に仰いました。私は曲がりなりにも子どもたち相手に理解をさせる仕事をしていますので、今どきの子どもたちの生活文化についていくらか知るチャンスがあります。そこで、授業をしていても、この言葉は通じているだろうか、と子どもたちの顔を瞬時にしてあちこち見つめながら話をします。「ん?」という様子が感じられたら、必ずその場で言い換えをします。「ののしる」という言い方で説明をしながら、「つまり相手の悪口を大きな声で言うんだね」のような言い換えをして、話を進めていくようにします。説教にしても、聖霊が働いて聖書の言葉を理解させるのです、などと私たちは言いがちですが、それ以前に、聞く人に普通の言葉の意味が理解できないような形でこちらが喋っているだけだ、ということが多い危険性がある、というような点について話し合っていたのでした。
 
「断絶」について伝わっていなかった件を聞いたのは、その後のことです。高校生は、もし最初から「隔て」とか「隔たり」とかいう言葉で言っていたら、何の引っかかりもなくすうっと聞いていただろう、というようなことも言っていました。そういうことは面と向かって言いにくいかもしれないけれど、牧師に伝えたら喜ばれることではないか、と私は助言しましたが、結局私がこうして書いていることになります。それは、この特定の場合だけの問題ではなく、もっと広く、さらに言えば普遍的に、成り立つこと、考えてみる価値のあることだと思ったからです。つまり、まさに「断絶」があるのに、気づいていないのではないか、ということです。
 
このことは、手話通訳についても、実は重大な問題を含んでいます。妻は教会で手話通訳をしています。多くはろう者ひとりのためですが、なんとかメッセージをライブで伝えたい、福音を伝え、分かち合いたいという思いで務めています。
 
皆さまは、手話通訳というと、聞こえた言葉をササッと手話に変換して表している、というイメージをお持ちではありませんか。とんでもない。手話は、日本語より語彙としては少ないながらも、多数の情報を同時に、時間差なく伝えることもできる、独特の言語です。同じ日本語でも、手話の語彙はかなり異なります。たとえば「よい」と耳に聞こえたときにも、それご「良い」なのか「好い」なのか、または「構わない」なのかなど、様々な場面があり、全部手話が違います。それで、文脈を把握した上でなければ、手などを動かせません(手話は手だけではなく、表情や口の形、体全体を使います)。そこで大切になることは、今言われているその文が、やがてどこに着地するか、ということを知ることです。話がどこへ向かうのか分からない話を手話通訳するのは、至難の業です。何が言いたいのか予備知識なしでは、安心して手話をするわけにはゆきません。
 
今回の「断絶」の場合、実は予め戴いた原稿にはないアドリブでした。これで手話通訳者は緊張します。この話は何のために話されているのだろう、と考えます。予め原稿を熟読していますから、その後どういうところに話が進むのかを理解しているので、それと考え合わせて、きっとこのような展開になるのだ、ということを予想します。そしてその流れを自ら納得した上で、相手にもその流れが同じように理解できるような手話を選び、それから手などを動かします。この間、もちろん1秒とかかりません。ものすごく頭脳を使って手話を決めていくのです。ですから、プロの手話通訳者は、15分以上続けて担当することはありません。講演会など話が長く続く場合は、15分で次の通訳者にバトンタッチします。無理もありません。それくらい神経を使うのです。教会の手話通訳者が1時間あるいはそれ以上続けているというのは、激しく苛酷なことを強いているということ、恐らく多くの方はお気づきではないと思います。中には、それくらいで交替する教会もあることを知っていますが、なかなか普通の教会では複数の通訳者は確保できないでしょう。
 
また、話は逸れますが、手話通訳者もここで一信徒であるとすると、できるならその説教をただ聞き味わう(という表現でよいのかどうか分かりませんが)者でありたいのに、ろう者にそのメッセージを伝える、語る者という立場でも同時にあることなります。これではまるで、イエスが神か人かというような議論と似てくる場面がありそうですが、本来メッセージを聞き感動し涙するという場でもあるうるのに、手話通訳をする以上は、そこで泣いてはいけないことになります。テレビでニュースキャスターが自ら感動し涙するというような姿を決して見せないように、そう、阪神淡路大震災のときにも覚えていますが、感情を殺して淡々と自分のアナウンスする使命を語り続けたアナウンサーには本当に敬服するよりほかないのですが、そのように、手話通訳者も自らのもつ感情を以て伝えるということはできません。それほどに、メッセージの内容を自分の中に取り込んで、そこにこめられた福音の意味を、なんとか伝えようと努めているのです。
 
仮設住宅の入居者たちの間に、「断絶」がある、というような情報が、手話通訳者の耳に聞こえてきます。すると、この話がどこに向かうのか一瞬のうちに想像する、というようなことを言いました。このとき、もっと凄いことが起こります。たんに、「断絶があります」という手話を表すことは、決して難しいことではありません。しかし、この日本語の文は、「断絶がある」ということを伝えているのではないはずです。メッセージの脈絡からこの話を持ち出したわけは、テレビニュースのように、「断絶があるのです」ということを言うためではなかったはずなのてず。つまり、被災者でない私たちは、仮設住宅にいる人のことをいつも精一杯想像しているつもりでしょうが、実際はこのように一人ひとり被害の状況も違うし、まさに個性もそれぞれ違うのですが、十把一絡げに「被災者」というような言い方で括ってしまうような見方を、普通してしまっています。だから誰にもどうぞ来てくださいと案内をするし、それはそれで仕方がないのですが、だからと言って、さあ一緒に集まりましょう、と気軽に言えるようなものではなく、一人ひとりの間に、越えられないように壁があり、隔てというようなものがあるということに、被災していない私たちが気づくこと、気づこうとすることが大切であって、この隔てがあることを教えられたことで、私たちがどのように人に接していくのか、問われているのです――ここまで読み込んで手話を決めます。だから、「断絶があるのです」で文は終わらず、手話では、「私たちはそのように思っているがそこに問題がある」というようなところまで付け加えて初めて、話者の意図を伝える手話通訳となります。これが、手話通訳者です。
 
手話通訳の原稿を予め戴くよう願うのは、そのためです。通訳者はこれを、少なくとも三回は熟読します。そして、何を伝える必要があるのか、それをまず見抜き、そのために一つひとつの事例や言葉が、どのように有機的に関係しているのかを理解しようとします。その際、完成原稿でなくても構いません。何も情報がないよりは、当日変更があったにせよ、大きく伝える内容や意図が変わることはまず考えられないので、アウトラインでも何でも、手話通訳者の頭にそれがインプットされ、その説教者の語りたいことを熟成させる時間が必要となるのです。できるだけ完成したきちんとした原稿を渡さないと失礼だなどという理由で、当日の礼拝の直前に原稿だけ渡すような人は、原稿を見ながらであれば手話通訳ができるのだからこれでいいだろう、とお考えなのかもしれません。もちろん、原稿を渡さない人よりはよいかもしれませんが、読み込む時間などもちろんありませんから、言うなれば舞台開幕直前に台本を渡されて演じろと言われているようなものです。これが如何に、手話通訳というものを理解したとは言えない対応であるのか、ここまでお読みになった方は、恐らくお分かり戴けただろうと思います。
 
伝わる言葉を探す。手話通訳者は、表面だけの、口先だけの言葉を伝えるわけではありません。特にこれが聖書からのメッセージであれば、きっとそうです。そしてそれとは逆のことのようですが、聖書からのメッセージを伝えたいときには、口で語るということが時間の中で立ち止まることなく消えていく音を媒体とするだけに(つまり読書のように読み返すことができない環境であるために)、言い換えを含む、様々な仕方で、伝わる言葉を探さなければならないということになります。難しいことですが、これを意識するとしないとでは、きっと世界が全く違ってくることでしょう。語るほうだけがいい話をしたつもりで自己満足していても、実は誰にも何も伝わっていない独り善がりだという、笑えない話が、実は日常的に蔓延しているのではないか、と私は密かに危惧しています。
 
そのためにも、メッセージを受けて、牧師に対して、率直な意見や感想、質問などをぶつけるとよいかと思います。それは悪口でもないし、批判でもないと思います。何が伝わっていないのか、牧師としても、知ることができるよいチャンスです。学校の教師だと、テストという手段で、自分の話が伝わっているかいないかが目に見える結果として通知されます。テストというのは、生徒のためだけではなく、実は教師のためでもあるのです。この辺り、塾講師は痛いほど分かっています。牧師のメッセージには、このようなテストというものがありません。だから、どのくらい伝わっているのか、また伝わらないのはどの部分なのか、全く分からないままに毎週のメッセージが風と消えていくのです。もちろん、命となっていることも多々あることを知っています。しかし、その辺りのことを何か牧師にフィードバックしていくことは、実は大切なことではないだろうか、とこの度ますます考えるようになったのでありました。



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