【メッセージ】つながる

2020年3月15日

(ヨハネ15:1-10)

わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。(ヨハネ15:5)
 
3月は、京都から福岡に来た季節。私は生まれが福岡なので、帰るという言葉が使えますが、京都府生まれの妻にとっては未知の土地。幼い子ども二人を抱えて、心細かったに違いありません。仕事の都合で私は一足遅れて引越と共に正式に動くことになり、妻と二人の子が先に住民票だけ福岡に移った形になりました。私の両親などとは良い関係だったので頼れましたが、それ以外に知る人は特に地域にはありません。地域とのつながりがまるでないわけです。言葉も文化も違いますから、まるで外国にぽつんと来て住まうような孤独感があっただろうと思います。
 
その後だいぶ経ってですが、教会でろうの方と交わらせて戴くようになりました。それまで気づかなかった、ろう者の心細さや孤独感を認識するに至りました。音と声で、周囲の人は簡単につながっていますが、そうした情報をシェアできないろう者は、聴者が当たり前のように知っていることを知ることができないし、コミュニケーションをとろうにもなかなかとれません。これが災害となると、命の問題となるのに、ふだん聴者は全く配慮などしていないのが実情だということを思い知らされました。
 
病気の人もまた、人々から引き離されます。社会でのほほんと毎日を過ごしている人との間に、心の距離もできてしまうでしょう。そして今回の新型コロナウイルスのような感染症の場合は、もちろん隔離ということが前提となって然るべきではあるのですが、たとえば中国から報道される映像では、防護服や手袋、消毒でしかも距離を置くなど、患者は異星人扱いされていました。実際的な接触を拒絶され続けることとなると、心までもつながることができなくなるという有様が想像されました。
 
イエス・キリストだったら、どうしただろう。キリストの弟子たちは、しばしばこう考えます。イエスは、当時不治の病とされ隔離差別されていた病気の人に近寄り、手を取り、癒しの業を施したと伝えられています。触れば汚れるという律法の規定を根拠に、見捨てることしかしなかった「立派な」宗教者とは異なり、貧しく身分も低く、律法を守ることのできないような正しくない人々が、心身問わず病に苦しんでいた人々の中に入り、イエスは手を当てて、まさに手当をしたのでした。たとえば次のように。
 
すると、一人の重い皮膚病を患っている人がイエスに近寄り、ひれ伏して、「主よ、御心ならば、わたしを清くすることがおできになります」と言った。イエスが手を差し伸べてその人に触れ、「よろしい。清くなれ」と言われると、たちまち、重い皮膚病は清くなった。(マタイ8:2-3)
 
イエスは、新型コロナウイルスの患者にも、手を差し伸べたに違いないと思います。主イエスは、病む人とつながってくださったことを、私たちは上のような聖書の言葉から知っているからです。病を癒すのは神の業であるにしても、孤独に追い込まれ、誰ともつながれないで生きることを強いられている、まさに「病」に苛まれている人の苦しみを体験した方でなければ、このイエスの、さりげなく記された福音書の行為のもの凄さというものを、なかなか実感できないかもしれません。
 
聖書の教えは、「よいお話でした」とか「心が洗われました」「すばらしい信仰の物語でした」とかいう感想を以て応えるためのものではありません。聖書の研究者や聖書講演会をする方はそれでも構いませんが、聖書を信ずる、あるいは聖書を生きる、ということは、この実感を経て初めてできることである、私はこの点だけは、割り引かないことにしています。
 
「わたしはまことのぶどうの木」(ヨハネ15:1)と語り始めるイエスの言葉は、よく知られている箇所であると言えます。この直前の部分とは切れているように見えますので、いきなりここからスタートして読んでいくことで構わないだろうと思います。10節までをひとつのまとまりとして受け止めることにしますが、ここには、「つながる」という言葉が頻出します。「つながっていれば」どうなるか、が幾度も幾度も語られます。
 
15:2 わたしにつながっていながら、実を結ばない枝はみな、父が取り除かれる。しかし、実を結ぶものはみな、いよいよ豊かに実を結ぶように手入れをなさる。
 
15:4 わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている。ぶどうの枝が、木につながっていなければ、自分では実を結ぶことができないように、あなたがたも、わたしにつながっていなければ、実を結ぶことができない。
15:5 わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。
 
15:7 あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたの内にいつもあるならば、望むものを何でも願いなさい。そうすればかなえられる。
 
この最後のところに「ある」という訳語が見えますが、これは存在するというよりも、「とどまっている」というような意味合いを示す言葉であるようです。こうなると目につくのが、この後「とどまる」という語が並ぶことです。
 
15:9 父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛してきた。わたしの愛にとどまりなさい。
15:10 わたしが父の掟を守り、その愛にとどまっているように、あなたがたも、わたしの掟を守るなら、わたしの愛にとどまっていることになる。
 
「つながる」と「とどまる」は語としては異なります。「つながる」はその接続を意識させるのに対して、「とどまる」はその後そのまま保持されている状態を意識させます。しかし、ここではさほど違うことを伝えているものではない、と理解してみることにします。
 
つながりを欠くことがどんなに寂しいか、最初にお話ししました。この中にも、そんな寂しさを覚える人がいらっしゃるだろうと思います。都会の人混みの中ほど、孤独を強く感じさせるものはない、という言葉もあります。友だちに囲まれて楽しい毎日を送っているかのように見えても、孤独感を抱えているということがあります。ひとに合わせて笑顔を振りまいていても、誰とも心通わせることができないと悩むこともあるし、自分の心の奥を見せることができないことを重苦しく思っていることもあるでしょう。
 
こうした状況に、突然見舞われるという場合もあります。9年前、「絆」という言葉がもてはやされました。もちろんその言葉が切実に感じられ、そこに縋るようにして立ち上がれた人が数多くいたことは事実です。けれども、人口に膾炙していく中で、いわば傍観者がこれを口にするにつれ、なんだか意味合いがずれていったように見受けられたのは、歪んだ見方でしょうか。そもそも「絆」とは新たに結ぶというような性質のものではなかったのです。この字を「ほだし」と読むときはより強調されますが、「切ろうとしても断ち切れない柵」のような意味をもつ言葉なのです。つまりそれは、家畜を杭などにつなぎ止めておく紐のことでした。離れたくても離れられない、元々ある結びつきを表しますから、安易に傍観者が「つながりましょう」などと言いながら「絆です」などと言うのはおかしな気がしてなりませんでした。改めて、自分の家族などとのつながりを意識するという使い方なら良かったのですが。
 
聖書で「きずな」という語は四度、新共同訳の訳語として使われています。そのうち二つだけご紹介します。
 
わたしは人間の綱、愛のきずなで彼らを導き
彼らの顎から軛を取り去り
身をかがめて食べさせた。(ホセア11:4)
 
これらすべてに加えて、愛を身に着けなさい。愛は、すべてを完成させるきずなです。(コロサイ3:14)
 
これらは、絆を「愛」として理解しています。神が私たちを愛しているのは、たとえ人が切ろうとしても切ることのできない絆であるという意味に捉えてみたいと思います。イエス・キリストがあらゆる病人を、時には死人さえも見捨てなかったように、神は私たちへの愛を惜しむことがないということです。
 
イエスは、私たちを離すまいとしています。私たちは病んでいるのです。罪に悩んでいるし、自分ではどうしようもない病を抱えているのです。そうした病にまみれて汚れている私の手に、イエスはためらいなく触れ、握り締めました。そこから愛を注ぐために。
 
他方、私たちがイエスに「つながる」ことが求められていることも確かです。この「つながる」「とどまる」ということは、少し具体的に言えば、どういうことを言うのでしょう。
 
一つには、7節にあるように、「言葉が私たちの内にとどまっていること」です。神の言葉、聖書の言葉が、私たちの中にあって、それが私たちに、見るべき方向を教えてくれるし、光を投げかけてくれるというのです。
 
それから、8節にあるように、「イエスの弟子となること」です。最初に「わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である」(15:1)と言っていたように、私たちは直接創造主なる神と結びつくというのは難しいことです。「父」というのがその「神」を示しますが、神はどこまでも人間を超越した存在であると思われます。しかしその神と結びつくことができるように、と、神はイエスを地上に送り、イエスにつながるチャンスをくれました。私たちに理解しやすい、神の姿です。イエスに従っていくことで、神は喜ばれるということを、「わたしの父は栄光を受ける」と告げたものと、いまは理解しておくことにします。
 
そして三つめに、10節にあるように、「神の掟を守るということ」です。これは旧約聖書の律法を指すものとは思われていません。この直後にも、次のように新しい掟が記されています。
 
15:17 互いに愛し合いなさい。これがわたしの命令である。  
こうして、父なる神がイエスを愛し、イエスが私たちを愛するという構図の中で、私たちが互いに愛し合うことで、イエスにつながるのだ、という事態が明らかになってきました。
 
こうしてつながれば、「実を結ぶ」のです。何かしら、目に見えた結果が、きっと現れるというのです。あなたが、このイエスと「つながる」かどうか、「とどまる」ようにしていられるのか、そこが問われています。
 
実はこの聖書の箇所の中央に、ひとつ怖いことが書かれてあります。
 
15:6 わたしにつながっていない人がいれば、枝のように外に投げ捨てられて枯れる。そして、集められ、火に投げ入れられて焼かれてしまう。
 
ここだけが、唯一、「つながる」ことについて、否定的なことが述べられています。そして、このことを実は強調したかったのだ、ということは、ここに挙げなかった続きの18節から後を読むと分かります。この世は神とイエスと、その弟子たちを憎むのだ、と厳しく語られています。私たちは、そうした世に属するのか、イエスにつながるのか、問われているように思われて仕方がありません。
 
イエスにつながるならば、実を結ぶ。できるなら、こちらを心の中心に据えて、ここから家に帰りたいものだと思うのです。え、でも自分はだめな人間だ、卑屈で汚れて、イエスにつながるような資格はない、ですって? きっと大丈夫。今日イエスは、こんなことも言っていましたよ。
 
15:3 わたしの話した言葉によって、あなたがたは既に清くなっている。



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