自粛要請は存在していない

2020年3月13日

WHOがパンデミックを宣言し、欧米でも新型コロナウイルス感染が拡大し、株価が記録的な暴落を始めた中、欧米諸国もうろたえ始めた現状に憂いを覚えます。特に深刻なイタリア、さらにその医療従事者の危機には涙ながらに祈るしかありません。教会でもようやく、自分たちの健康と感染の収束のほかにも、病む人たちのための祈りが呼びかけられるようになってきましたが、医療従事者や経済的に打撃を受ける、特に弱者のための祈りはあまり聞こえてきません。まして、政治家のための祈りは、寡聞にして聞きません(きっと隠れた所で多くの祈りが献げられているであろうことは分かります)。
 
人は皆、上に立つ権威に従うべきです。神に由来しない権威はなく、今ある権威はすべて神によって立てられたものだからです。(ローマ13:1)
 
その権威ある政治と経済の危機だと認識しなければならない事態になりました。この権威者たちのために祈ろうという声があまり挙がってこないので呼びかけます。祈りましょう。経済の危機は、貧困層や社会的弱者、小規模運営店にまず圧倒的な影響を与えます。経済のために祈ることは、弱い人々を守るための祈りでもあります。自分のところにウイルスが「来るな、来るな」というところにばかり目を奪われていないか見なおす提言も、すでにさせて戴きましたが、さらに積極的に、経済のために、そしてその経済を左右する政治の動きのために、祈ろうと強く呼びかける者です。
 
もはや日本国内だけの問題ではなくなりました。イベント中止は、そのままでは経済的に自分の首を絞めることになります。良い知恵と勇気が与えられるように、積極的に求めましょう。
 
とはいえ、新聞や報道機関の言葉に私は疑問をもちました。試しに「自粛要請」と検索してみてください。マスコミ各社が3月10日の安倍総理の「イベントの開催に関する国民の皆様へのメッセージ」について報じているのですが、多くの「自粛要請」のタイトルが並ぶはずです。
 
昭和天皇が亡くなる前からも、国内には相当な自粛ムードというのがありましたが、今回ははっきりと要請がきている、とマスコミは報じています。ところでその「自粛」とは何でしょう。たとえば英作文の入試で「自粛」という語を使った文が出題された場合、どう表現すればよいのでしょうか。私にはよく分かりませんので、検索してみました。ある英語学校の方が、文脈により異なると説明しつつ、次のような提案をしていました。
- refrain from something
- exercise self control
- exercise self restraint
- choose not to do something
英語の感覚からすると、「自粛」を表そうとするときに、自らコントロールするニュアンスが感じられます。
 
上記の「イベントの開催に関する国民の皆様へのメッセージ」についてですが、この項目のもとに、そのウェブサイトには三つのメッセージが並んでいます。まず厚生労働省は2月20日の時点で、「イベント等の開催については、現時点で政府として一律の自粛要請を行うものではありません」との強調をしていました。この後総理大臣が発した二つの公式見解の中には、同様に「要請」の文字は見えますが、「自粛」の文字は見られません。恐らく「要請」の言葉に「自粛」という概念が不釣り合いであると気づいたか、または、いっそうセルフ・コントロールが進んでいるというふうに睨んだかによるものではないかと邪推します。
 
私は後者ではないかと捉えています。もはや「自粛」というリスキーな言葉を出す必要もないほどに、国民は勝手に「自粛」を当然のものとして「自ら」選び取っているという状況を踏まえているのだと見ています。
 
たとえば日本経済新聞の記事では3月10日に「首相は2月26日、全国規模のイベント開催について2週間の自粛を求めた」と記しており、記事のタイトルにも「イベント自粛10日程度延長 首相が要請」と掲げていますが、イベント開催に関して26日の総理大臣の言葉として公式に発信しているメッセージは次のようなものです。
 
政府といたしましては、この1、2週間が感染拡大防止に極めて重要であることを踏まえ、多数の方が集まるような全国的なスポーツ、文化イベント等については、大規模な感染リスクがあることを勘案し、今後2週間は、中止、延期又は規模縮小等の対応を要請することといたします。
 
ここで「自粛」という言葉は用いていません。同様に、流通ニュースでは3月11日に「政府/3月19日「専門家会議」判断、10日程度イベント自粛延長」のタイトル記事を設けていますが、記事の中では「政府としては、先般決定された基本方針において、イベントの開催の必要性について主催者等に検討をお願いし、またそれを踏まえて、全国規模のイベントについては中止、延期、規模縮小等の対応を要請したところですが、専門家会議の判断が示されるまでの間、今後概ね10日間程度はこれまでの取組を継続いただくよう御協力をお願い申し上げます」という発言などを引用しており、その発言の中には「自粛」の文字はありません。この引用は、厚生労働省が公的に発表しているものと同じ者です。
 
つまり、まさに報道機関自身が、自主的に、慎んで行う「自粛」をすっかり受容して、自らの意志でイベントをやめたという状況が出来上がってしまっていることを、これは意味しているように見えると思うのですが、如何でしょうか。
 
すると、この「自粛」によりもたらされた不利益は、自粛した側に責任が発生することにもなります。命令されて従ったのではなく、自ら選び取ったのです。従わない自由もあったけれども、自分でコントロールしてそれを選んだということは、自分の側に責任が伴うことになるからです。「要請」は、その責任論において微妙な位置にある言葉だとも言えます。そこで、新型インフルエンザ等対策特別措置法改正が持ち出されました。「緊急事態宣言」が可能になると、もはや「自粛」の必要すらなくなります。自らコントロールすることができなくなることの可能性を踏まえて考えておく必要もあろうかと思います。
 
しかしまた、「自粛」に戻りますが、自らコントロールしているつもりになっているだけ、ということがないか、警戒することも必要であろうと思われます。そう、いわゆる「洗脳」です。自分では自分が判断し自分の自由意志で選び取っているように確信しているのですが、実は他の何ものかによってコントロールされているという、検証しづらい事態です。キリスト教をにおわせるような仕方で、似ても似つかぬ世界に誘う宗教団体のしていたこととして、一時報道もされ知られるようになりましたが、いままたそれを知らない世代が増えてきているような気がします。あの時には「マインド・コントロール」という言葉で有名になりました。
 
「自粛」が「セルフ・コントロール」であるのと、「洗脳」が「マインド・コントロール」であるのとは、紙一重です。本来「セルフ・コントロール」は確かに自分の意志で選び取ることを意味していた英語だったのかもしれませんが、日本語の「自粛」はだいぶ違うように思えます。自己主張が美徳ではないと捉えられる文化において、「忖度」によって動いていく社会が、「自粛」を形成します。そして大将の失策も歩兵の責任ということで始末されることにもなりゆくのです。それも、瑣末な立場の歩兵自らが、自分のせいだと確信したままに。終戦翌日の玉音放送で、「天皇に申し訳ない」と言って土下座する人もいたという話もその構図に入るかもしれません(後に国民皆がそのようであったかのように報じられたが別写真を用いたなどのからくりもあったらしいと聞く)。
 
最後に繰り返します。政治や経済のためにも、祈りましょう。そして政治が責任を問わないで済むような形で、国民の心理をコントロールするようなことがないように、私たちが目を覚ましているようにも、祈りましょう。それもまた、政治のために祈る、という範疇に入るものだと思います。



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