【メッセージ】君のための場所

2020年3月8日

(ヨハネ14:1-14)

行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える。こうして、わたしのいる所に、あなたがたもいることになる。(ヨハネ14:3)
 
子どもたちのために祈りたい。いえ、「子どもたち」などと十把一絡げに呼ぶのは失礼でしょう。君のために。自分で気づかなくても、傷ついている君のために。
 
安易に話題に上らせることは、したくありませんでした。することはできないと思っていました。でも、今だからこそ、そしてこの箇所の聖書を開くとなると、どうしても言い及ばずにはおれないのです。新型コロナウイルスで、翻弄されている人々のことを。
 
ウイルス騒ぎに対する教会への意見は、別の機会に散々言いました。気のせいか、各地の教会に少しずつ届いているように勝手に思っています。今日は、子どもたちのために祈ります。それは、「一斉休校」という、予想しなかった事態に突然襲われたからです。
 
それは確かに「要請」でした。法律に基づくものではないので強制命令ではありませんでした。しかし、人々の不安や恐怖をうまく突いた、事実上の「強制」でした。そしてさらにこれを機に、このような時に「法律」として強制できるようにしたいという意向まで、要請した当人が口にしています。その上怖いことに、この強制的な「要請」が、総理大臣の独断で発令されたということが明らかになりました。
 
治安維持法や国家総動員法が思い起こされました。歴史を少しでも学んだ私たちは、歴史から学ばなければなりません。だのに、私たちはデマや無知からくる情報に振り回され、マスクばかりか、トイレットペーパーまでも事欠くように踊らされています。政府の、というより総理大臣ひとりの発案に、尻尾を振って従い、右往左往して、あっという間に流されるように一方向を向くようになっています。ある意味でこれが一番怖いことだと思います。
 
さて、子どもたちに目を向けます。突如として友だちとの別れを言い渡され、かなりの子が心構えもなく、短い卒業式だけで友だちと別れる羽目になりました。学校は、多くの子どもたちにとり、自分のアイデンティティというものが確かに置かれた場です。学校が嫌いな子もいるし、行きたくない子、行くと危険な子もいるのは確かですが、概ね、そこには自分がいる意味があり、人との関係が築かれています。
 
いま災害心理についての深い研究レポートを読んでいますが、災害により自分の家がなくなったということもつらいのですが、避難所や仮住まいが与えられたとしても、人間関係が崩れることで大変なダメージを受けるということが明らかにされていました。災害も突如やってきます。今回の一斉休校も、子どもたちにとっては、突如襲ってきた、同様の出来事だと言えないでしょうか。そのレポートには、子どもたちの心理状態と行動について、実例とともに詳しい話があったのですが、ここでそれを紹介することはできません。関心がおありの方はお尋ねください。
 
もちろん、親や大人も大変です。共働きの家庭にとって、夏休みなどの長期休暇期間中、子どもをどうするか、は大問題でした。私もそのようにして子を抱えていたので、人に頼むこともありましたし、ひとり留守番をさせることもありました。お弁当をこしらえ火を扱わせないとか、電話には出てはいけないとか、一定のルールを考えました。いまはそれがネット情報として出ているから、良い知恵がシェアされる良い時代になりました。かつてそのような知恵は、経験的に身につけ、考えていくしかなかったのです。
 
学校にいると感染の危険があるから休ませる。あまりにも短絡的な思いつきでした。結局子どもたちは児童館などに集められます。そこでは学校よりよほど狭い閉鎖された空間で顔を突き合わせて長い時間を過ごすことになります。このウイルスはそれほど全国津々浦々に飛んでいるわけではないので、多くの場所ではそれでも大丈夫なはずですが、何らかの経路で紛れ込んでしまうと、子どもたちがキャリアになりかねません。
 
それでも、子どもたちにとっては、学校に次ぐ、ひとつの居場所が必要なのでした。たとえ留守番が出来たとしても、多くの子どもにとって、家の中でずっと暮らしていけるものではないでしょう。子どもたちは不定愁訴のように自分の不調を訴えることすら、できない場合があります。口にしてはいけないと自分を戒めている子もいます。誰とも会わないような生活を続けると、体の具合が、あるいは精神的に、おかしくなってくることは必定と言えるでしょう。
 
そうでなくても、「いじめ」という、基本的に自分はいじめているつもりではない子どもたちによって起こる不幸な集団現象があり、自分の居場所を学校や友だちの中に感じられない子もいます。それが学校という場をいきなり失って、子どもたちはどこを居場所だと思うのでしょうか。そのくらい大したことないと大人は考えるかもしれませんが、それでは長年勤めていた会社に明日から来なくていいと突然言われたとき、はいそうですか、と笑ってまた楽しく過ごしていくことができるか、腰を据えて考えてみるとよいでしょう。配偶者が突然いなくなって、落ち着いていられるでしょうか(『ねじまき鳥クロニクル』のオカダトオルさんは稀に見る冷静さをもっていましたが。
 
子ども食堂も開けなくなっている状況があります。あなたは職を失い、配偶者が家を出て行き、馴染みの食堂や弁当屋も閉店しました。外へ出ると危険だと洗脳され、しかしそれまでしていた仕事を家でひとりでやり続けよなどという訳の分からない指示だけ受けています。そんな生活を突然強いられたということに、もっと思いを馳せてください。こうなると益々、子どもたちは第二・第三の居場所も失いったことになります。子どもが子どもとして過ごせる居場所を求めても、見えないものになってしまいました。
 
イエスに従っていた弟子たちは、イエスの口から、いやに別れ話のようなことを告げられます。そして「わたしの行く所に、あなたはついて来ることはできない」というようなことをペトロは突きつけられます。主よ、どうしてですか。ペトロは食い下がります。
 
そこでイエスは、落ち着けと宥めます。神を、わたしを信じよと言ってから、「わたしの父の家には住む所がたくさんある。もしなければ、あなたがたのために場所を用意しに行くと言ったであろうか。行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える。こうして、わたしのいる所に、あなたがたもいることになる。」(ヨハネ14:2-3)と言います。父というのは、神さまのことです。イエスは、その父の子という設定になっています。二人は父子でありながら、実は一体である、などというのがキリスト教の不思議な説明なのですが、さらに聖霊という名で働くのも同じ神であるとしか考えられないことから、「位格」と呼ばれる三つの姿が、一つの神を表しているということで、「三位一体」という神学用語が生まれました。そこはすみませんが、何かしらミステリー、つまり神秘的なことだということでスルーしてください。
 
特にこのヨハネによる福音書は非常に神秘的で、まともに意味がとれないような表現が多々あります。一つひとつの言葉を解説してくれる本もありますが、およその理解には役立つでしょうが、読めば読むほど疑問が残るものです。確かにこの福音書は、イエスの復活後の姿をひとつの基準として、そのゴールからの光を当てて物語を描いているような書き方をしていますが、それで説明してしまうと、この言葉を聞いたであろう弟子たちの驚きや戸惑い、また信ずるようになる成長などについて、全く意を介さないことになってしまいます。
 
弟子たちは、ずっとイエスに従って来ていたのです。なんだかこのとき、やばい雰囲気になっているのは分かりました。先生が命を狙われていることも分かっていました。そして以前にも、自分は殺されるというようなことを口にしていたことも知っています。しかし、イエスの行くところにおまえたちは来られないなどと言われたわけです。それから、あなたがたのための場所もある、と言われたので、少し安心したかもしれません。
 
しかしイエスは続けて、「わたしがどこへ行くのか、その道をあなたがたは知っている。」(14:4)と告げました。こんなことを言われると、また不安になります。だって、知らないのですから。トマスがたまらす尋ねると、イエスは自分こそが「道」なのだ、と答えます。神のところに行くにはイエスという道を通らなければならないと言うのです。しかしこれで、少し分かりました弟子たちのために用意される場所というのは、神の許なのです。そして神と会う、というようなことも期待させます。
 
今度はフィリポが、神をいま体験させてくれたらうれしいというようなことを叫びます。するとイエスは、しきりに、自分と出会っているならば、神と出会ったことになるのだ、と諭します。そして、自分は神のところに行ってしまうことになるが、おまえたちはこの地上で何か事を成すのだと励まします。そしてこの後、聖霊が助けてくれるようになることを明らかにしていきます。
 
ずんずんとキリスト教用語が出てきて、ちんぷんかんぷんだと焦る方もいらしたかもしれません。とにかく弟子たちは、ついてきた師匠たるイエスが消えてしまうような不安に襲われています。永遠の命を与えるなどということでここまで頑張ってついて来ていたのに、先生が消えていなくなるかのような予感を示してくるので、今後どうなるのか、怖いと思っています。そこでイエスは、大丈夫だ、おまえたちはその神のところに居場所がある、わたしも共にいる、と安心させるような言葉を告げました。
 
信じてついてきた先生と急に会えなくなった子どもたち。中には転任する先生もいるでしょう。きちんとした離任式ができないままにお別れということもあるのでしょう。どうであれ、そんなことが不安でたまりません。これから誰について行けばいいのか。誰の話を聞けばいいのか。しばらくはひとりで勉強しなさい、などと言われるだけ。イエスに置いていかれる弟子たちの姿と重なって見えてきます。大丈夫、また学校に来ることができる時がくるから。新しい学年になって、君の座席がちゃんと用意されているから。この場合イエスはまた会えるのだからと声をかけるのです。但し、そうやって神と会うためには、イエスに従ってのことになるのだ、イエスという道を歩かねばならないのだ、というポイントだけは、イエスは押さえています。
 
3月11日は、東日本大震災から9年目です。3289日目となり、例年だと追悼式が行われますが、今年は同じ新型コロナウイルスの感染防止を考慮して、中止となりかけましたが、これはしないわけにはゆかない、との声で、ごく少数の関係者だけが出席して実施し、広く中継するという形で、開くことになった――と報じられたのも束の間、政府がそれでも中止を決定しました。いったい、国会は普通に開かれている中で、こうした魂の叫びは削除するというあり方は、何を大事にしており、何を邪魔に思っているのかを明確に示しているとは言えないでしょうか。キリスト教会の礼拝も、安易に「中止」という言葉を出してはいけないことが改めて教えられるような気がします。
 
福島ばかりでなく、岩手などでも、放射線の測定がよくなされており、子どもたちは外で遊べない日々が続きました。今では地域により差があろうかと思いますが、これもまた不安なものでした。ウイルスと違い、接触感染などでなく、あらゆるものを透過していきます。子どもたちの居場所は、いまよりさらに閉鎖されたものではなかったかと思います。どうか福島の事故のために満足な居場所をもっていないような子どもたちが、安心できる場所をひとり残らず与えられることができますように。
 
いつでも、子どもたちは社会の隅に追いやられ、厄介者扱いを受けます。少子化などという問題を突きつけられ、君たちが悪いかのように響くことも多々あるのですが、もちろん少子化をもたらしたのは大人たちです。いったい、君たちの居場所はどこにあるのでしょう。大人は、君たちのための居場所を用意してやろうとする気があるのでしょうか。問われているのは大人です。「大人たち」ではなく、一人の大人としての、あなたです。私はイエスにはなれないけれども、このイエスの約束を紹介することはできます。つまりイエスの立場から見ると、私たちは誰も振り回される子どもたちと同じものです。私たちは、居場所を見失っています。地上は旅する者でしかない身分なのかもしれませんが、だとしたら、天に自分の本当の居場所があるのだという確信が、あるでしょうか。聖書にはきっとそれが書いてあります。イエスという道さえ歩いていくのであれば、間違いなくその場所にたどり着くでしょう。イエスは、わたしを信じろ、とあなたに向けて、いまここで告げています。



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