【聖書の基本】道

2020年3月8日

わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。(ヨハネ14:6)
 
有名な言葉です。イエス自身が、自らについて定義するかのように三つも並べ立てるというのは尋常ではありません。このうち真理や命は、それなりにピンとくるものですが、道というのが、はっきりしません。道という言葉は、ギリシア語からしても、私たちの言葉のように、実際に歩くこの道を表すと共に、象徴的な意味合いを示すために用いられることが多々あります。聖書に数多く登場する「道」も、もちろんただの道路の意味で使われるものが多くありますが、中には日本語のそれのように、象徴的な意味で用いられることがあります。いま、創世記からのみ、歩く道以外の意味を拾ってみましょう。
 
3:24 こうしてアダムを追放し、命の木に至る道を守るために、エデンの園の東にケルビムと、きらめく剣の炎を置かれた。
 
これは実際の道を表していると取ることもできますが、土地の上の道だけとしか読みとれないこともないような気がします。アダムが命の木とコンタクトがなくつながらないように、ということなので、そこを通ることで命の木とつながってしまうことを神は危惧しているように見えます。離れているふたつをつなぐものでした。
 
6:12 神は地を御覧になった。見よ、それは堕落し、すべて肉なる者はこの地で堕落の道を歩んでいた。
 
これはかなり抽象的な意味のように見受けられます。堕落の道というのは、辿り着く先は必ず堕落であるというような一本道、不幸なシナリオを表しています。この場合は悪へと続く連鎖のことですが、逆に神の祝福への道というのも同類であろうかと思います。
 
18:19 わたしがアブラハムを選んだのは、彼が息子たちとその子孫に、主の道を守り、主に従って正義を行うよう命じて、主がアブラハムに約束したことを成就するためである。
 
この道が抽象度が高いもの。辿り歩く道のイメージから一番離れているように思われます。但し、なんだか日本人には少し馴染みがあるようにも考えられます。柔道・剣道・茶道・華道・書道など、日本人は何でも「道」を付けがちで、これが付くと、何かしら修行をしたり修練を積んだりして、技や心を求め続け極みを目指すものであるように捉えています。他の分野の語を付けて、たとえば「野球道」のような使い方をしても、意味が通じるところがこの語の一般性を示しているように見えます。これらは、「柔の道」や「書の道」というような言い方ができる時もあり、こうなると、この「主の道」というものも、少し理解できるような気持ちになってきます。
 
これが顕著なのが、新約聖書の使徒言行録です。厭わずに引用してみると、次のような箇所が認められます。
 
9:2 ダマスコの諸会堂あての手紙を求めた。それは、この道に従う者を見つけ出したら、男女を問わず縛り上げ、エルサレムに連行するためであった。
 
18:25 彼は主の道を受け入れており、イエスのことについて熱心に語り、正確に教えていたが、ヨハネの洗礼しか知らなかった。
 
18:26 このアポロが会堂で大胆に教え始めた。これを聞いたプリスキラとアキラは、彼を招いて、もっと正確に神の道を説明した。
 
19:9 しかしある者たちが、かたくなで信じようとはせず、会衆の前でこの道を非難したので、パウロは彼らから離れ、弟子たちをも退かせ、ティラノという人の講堂で毎日論じていた。
 
19:23 そのころ、この道のことでただならぬ騒動が起こった。
 
22:4 わたしはこの道を迫害し、男女を問わず縛り上げて獄に投じ、殺すことさえしたのです。
 
24:14 しかしここで、はっきり申し上げます。私は、彼らが『分派』と呼んでいるこの道に従って、先祖の神を礼拝し、また、律法に則したことと預言者の書に書いてあることを、ことごとく信じています。
 
24:22 フェリクスは、この道についてかなり詳しく知っていたので、「千人隊長リシアが下って来るのを待って、あなたたちの申し立てに対して判決を下すことにする」と言って裁判を延期した。
 
さて、これくらい並べてみると、お気づきだろうと思います。「主の道」「神の道」「この道」などを、すべて「キリスト教」と読み替えても、ほぼそのまま意味が通らないでしょうか。
 
当時、「キリスト教」というような表現がありませんでした。「教え」はむしろ具体的な内容の方を指しても、その宗教全体を指すためにいまの私たちのようには使いませんでした。その代わりに、「道」という語が、私たちのいう「教」の意味のように扱われていたと考えられるのです。
 
「キリスト教」というと却って、他のなんとか教と横並びに扱うような気がしませんか。そうなると、多神教とか一神教、しかも唯一神教(他の神を認めない)だとか拝一神教(他の神がある前提に立つ)などの分け方をしてしまう中で、キリスト教はどれだろう、というような見方に誘われてしまいます。けれどもたとえば剣道を自分が熱心にやっているとして、自分のしているものは柔道や野球と並ぶスポーツの中の一つだ、というような意識を普通もつことはないだろうと思います。これが自分の目指すもの、自分の才能、努力、青春のすべて、あるいは人生、のように見なしているのではないでしょうか。
 
並列的な「教」のカタログに並べて眺めるようなことはせず、ただ自分が生きる世界、人生を賭けて求める、まさに「道」として、キリスト教信仰を捉えてみては如何でしょう。語感というものが与えるものは小さくないと思われますが、「キリスト教」と呼ぶよりも「主の道」と呼び、そこを歩くのは誰かあの人というのではなく、この自分の歩む道、自分の生き方なのだ、というスタンスで、この「道」を歩くのです。きっと、そのほうが、皆さんも実感できるのではないかと思います。



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