来るな、来るな

2020年3月7日

そもそもが閉塞感のある社会だと言われていた中へ、新型コロナウイルスという、煽られた情報により、世の中がぎすぎすし、あるいはそれまで隠されていた人間の本性が露骨に見えるようになってきました。このことばかりに囚われていることは、そうした暗闇の力に襲われる虞もあると危惧しつつも、あまりの状況に、黙っていることもできない日々です。
 
私は、医学的に詳しい知識があるわけではありません。世には、にわか研究者が続出し、あることないことを情報として飛ばしていますが、それがまた混乱やデマを呼ぶということに、賢く対処していかなければなりません。いくらかでも、健全な医学者の意見や、適切な医学的知識を以て臨みたいと思う毎日です。
 
騒動は、しばしば「無知」からきています。言葉の響きが強すぎるならば、「知らないこと」から。もちろん人間知らないことはいくらでもあり、医学的な知識も、そんなに一般的には知られていないことが多々あります。しかし、マスクがないと来てはいけないなどとなると、それは全ての人にとり言えることではないため、実害が生じますし、薬局の店員はたいへんな被害に遭っているといいます。トイレットペーパーがなくなるなどというのは語るのも馬鹿馬鹿しいくらいのものですが、お金持ちが車にトイレットペーパーを買い込んで山積みにしているなどという声は(どこまで本当か、これも分かりませんが)あちこちから飛び込んでくるし、買い占めて、人の弱みにつけこんで高値で売りに出す、悪辣な者もおり、さらに公共施設からの窃盗は無数に起こっているはずです。
 
医療機関にトイレットペーパーやマスクが不足している実情がありますが、これがとんでもないことに気づいていません。何も新型コロナウイルスだけが病気ではありません。病院では、そして医療従事者にはマスクが必要なのです。トイレットペーパーも除菌のためのものがない病院で、マスクなしに診察される患者がどうなるか(マスク交換もままならぬ病院は現にあるのではないかと危惧します)、自分は患者として病院に行かないと決めつけて、他人はどうなってもよいという精神でなければ、少しくらいは胸が痛まないでしょうか。
 
そんなとき人間は言い訳します。自分一人のせいでそんなふうになるんじゃない。自分が我慢したところで何も変わらない。――そう。この論理を皆が使うから、このような事態になっているのです。日本人の美徳と言われたものも、崩壊してしまうと、後には何も残らなくなるでしょう。
 
しかし「無知」からくるパワーは、とてつもなく大きくなります。これを食い止めようとする知恵が叫ばれても、巷には何の影響も及ぼしません。人間が悔い改めないのも当たり前だと言えます。何かしら既成事実ができると、それを根拠にして、仕方ないの連発でずるずると皆がそちらへ動いていってしまう。軍国時代の足音がするのか、などと政治批判をする人を揶揄する新聞もありましたが、きっとその足音すら聞こえないままに、そうなってしまうような勢いが懸念されます。
 
たぶん、誰もが「おかしい」と感じているのです。でも、止めることができません。「まぁそうは言っても」と体制に加担することで、体制はますます堅固なものになっていくのです。この怖さを、まざまざと見せつけられるようなこのひと月でした。
 
一人では、捕まるような行為などできもしないのに、皆同じじゃないか、と思うと、なんでもすることができるようになる。目立つことをしたくないという原理が働くかのように、皆が静かにしていればわざわざ一人悪をなすようなことはしないのに、皆が悪をしていれば自分が善を行うのは目立つから嫌だとでも言わんばかりに、自然に同調していく動き。買い占めは、外国で見られるような「略奪」と同じだという意識など、芽生えるはずもありません。金を支払う「強奪」だなどとは考えることができないのです。
 
これをなんとなく「群集心理」さ、などと嘯いているとなると、反省も何もないわけで、へたに言葉にしてしまうと、正当化や開き直りの素材となってしまいます。キリスト者ならば、ここに「罪」という語を明確にもってくる必要があるでしょう。でも、世に対してそんなふうに刃をつきつけることのできる教会が、いまの時代には見当たりません。
 
それは、教会が正しいから、というのでもないし、教会が偉そうに世間を見下している、ということにもならないはずです。が、教会は、そのように言われたり見られたりするのが嫌でたまりません。それどころか、教会も浮き足だって、ウイルスは来るな、来るな、と明らかに最初は怯える声が多々ありました。そして、普段政治に対して NO を突きつけていた人々が、尻尾を振って政府の言いなりになっていきました。それは、知識のなさをも露呈していました。マスクを着けなければ教会に来るな、などとも言っていたのです。
 
私は思います。ほんとうは、クリスチャンや教会こそ、世の中の人々からすれば、「来るな、来るな」と言われる存在ではないか、と。それを、クリスチャンは尊敬されている、などと思い込んでいると、とんでもない仕打ちを受けるし、しっぺ返しをもらうことになるのではないかと案じます。表向き、いまの時代にクリスチャンをいじめたり、教会に石を投げたりすることはありません。しかし、今回の騒ぎのように、状況が変われば、そのようになるかもしれないと強く思いました。ひとつ風向きが変われば、本性が出てしまうことが分かったからです。
 
みんな同じにしておくことが、時々できない教会。日曜日には町内行事に参加しない。神社行事に来ない。もちろんそれだけではありませんが、何か違うことをする、ということで煙たがられているかもしれないのです。そして何か議論があると、信教の自由だとか何か言い始めて、せっかく穏やかな水面が保たれているのに、石を投げ入れ波紋を拡げるようなこともする教会。こんなところさえなければ、クリスチャンさえいなければ、もっと和気藹々と和やかにしていられるのに、と思う人がいるかもしれません。
 
いや、だからこそ教会やクリスチャンは存在意義がある、などという声もありましょう。私は、教会側の論理を否定するつもりはありません。信仰の行為だというのは、確かにそうなのです。しかし、教会の論理を正しいものとして、教会外の人々にぶつけるとき、それが紛れもなく「来るな、来るな」を強めることは事実だ、と申し上げたいのです。いや、それを恐れるのが不信仰だ、というふうにも教えられました。その通りです。信仰を持ってはいけない、などと言っているのではないのです。ただ地上ではそれが「来るな、来るな」と見られているという事実を認めなければならない、と思うのです。
 
人を愛するならば、その人の考え方を頭から否定して、こちらの教えどおりにお前の考えを変えよ、と迫るようなことはしないでしょう。その態度が、南アメリカ大陸などの多くの文明を滅亡させ、世界の美術品や遺跡を強奪し、戦争を引き起こして多数の犠牲者を産み、経済的支配の関係の中に陥らせたことを、私たちは歴史で学んでいます。教会が、自分たちは信仰的で偉いでしょ、だから言うことを聞かない世の人こそ罪の中にあって、それを善い人間に変えて救うように教えているのですよ、などという態度で接しているとしたら、とんでもないことです。でも、そうしていても、恐らく気づかないでしょう。教会が、ウイルスを「来るな、来るな」と祈るとき、最前線で闘っている医療従事者や患者家族の苦悩はすっかり忘れています。そして、自分たちこそ実は「来るな、来るな」と思われていることになど、気づこうともしません。このような「無知」から、教会は救われなければならない、とまで言わせてください。
 
教会は、というより、もう「私は」と申し上げないといけないと思っているのですが、私こそ周囲の人々からは「来るな、来るな」と思われているのであり、そう思われていても普通に接してもらっているとき、私は世から「許されて」いるのだという思いを、手放すことができません。
 
私は親や親戚から許され、多くの配慮を受け、愛されてきました。そのように愛されている私が、逆に何をも返すことができていないことを心苦しくさえ思います。
 
このような思いがなければ、とても「仕える」などということはできないでしょう。もちろん、私はそんなことができているなどとは、口が裂けても言えない立場にいるのですが、あまりにも簡単に、「仕えていきましょう」などというかけ声が内輪でなされていることに、いつもためらいを覚えます。無理です、そんなこと、と恥ずかしくなるからです。



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