耳の日と不正な管理人

2020年3月3日

桃の節句あるいは雛祭りであるほかに、耳の日という洒落は、聴覚障害者にとっての大切な日にもなっています。言語障害をもつ人のための日でもあり、要するに「耳」が大勢の人の機能と異なる人のための日となっている、ネーミングとしても、皮肉とまでは言いませんが、思い入れの深い日とされています。
 
この3月3日は、グラハム・ベルの誕生日でもあり、周知のごとく、電話の発明者を覚えることにもなります。難聴の母親をもち、妻は聴覚障害者でした。それでろう教育にも大きな足跡を遺したことになるのですが、口話を推進する役割を果たすことになり、手話を使うろう者からはあまりよく見られないことがあるようです。そんなベルが、ろう者には使えない道具を発明したというのも、不思議な縁であるのかもしれません。
 
耳のある者は聞け。聖書が告げるフレーズは、私たちの聴く力がいい加減であることを暴いているとも言えます。聞いているようで聞いていない、と私はしばしば指摘されます。これが視覚障害者だとものすごく敏感で、まるでもう一つの視覚と呼んでよいほどに、イメージをもつらしいということを聞いたことがあります。
 
しかし音声を聞くということには限りません。見ているようで見えていない、意識していない、節穴のような目をもっているのもまた私のだらしないところであって、見たものをちっとも覚えていないことは、情けないほどです。聖書は、この点でも、「見よ」と繰り返しぶつけてきます。
 
ルカ16章に、よく「不正な管理人の譬え」と呼ばれる話があります。聖書の譬えの中でも、難解であることで有名であり、小学生に分数のわり算を教えるくらい、これに比べると何ということはないという気になってきます。
 
◆「不正な管理人」のたとえ
16:1 イエスは、弟子たちにも次のように言われた。「ある金持ちに一人の管理人がいた。この男が主人の財産を無駄遣いしていると、告げ口をする者があった。
16:2 そこで、主人は彼を呼びつけて言った。『お前について聞いていることがあるが、どうなのか。会計の報告を出しなさい。もう管理を任せておくわけにはいかない。』
16:3 管理人は考えた。『どうしようか。主人はわたしから管理の仕事を取り上げようとしている。土を掘る力もないし、物乞いをするのも恥ずかしい。
16:4 そうだ。こうしよう。管理の仕事をやめさせられても、自分を家に迎えてくれるような者たちを作ればいいのだ。』
16:5 そこで、管理人は主人に借りのある者を一人一人呼んで、まず最初の人に、『わたしの主人にいくら借りがあるのか』と言った。
16:6 『油百バトス』と言うと、管理人は言った。『これがあなたの証文だ。急いで、腰を掛けて、五十バトスと書き直しなさい。』
16:7 また別の人には、『あなたは、いくら借りがあるのか』と言った。『小麦百コロス』と言うと、管理人は言った。『これがあなたの証文だ。八十コロスと書き直しなさい。』
16:8 主人は、この不正な管理人の抜け目のないやり方をほめた。この世の子らは、自分の仲間に対して、光の子らよりも賢くふるまっている。
16:9 そこで、わたしは言っておくが、不正にまみれた富で友達を作りなさい。そうしておけば、金がなくなったとき、あなたがたは永遠の住まいに迎え入れてもらえる。
 
譬えは譬えなのであって、ひとつの目的を以て語るものであるはずであり、大昔になされることがあったように、譬えに登場する要素をすべて何らかの意味があるものとして説明しようともがくことが賢明であるようには思えません。そこでこの不可思議な譬えも、どこか大切なところがあるはずだ、とは思うのですが、どうにもスッキリしないのです。それは私だけではなく、歴史的に見ても研究者にとっても、完全に説き明かされているわけではないのではないかと思います。そして、それでよいのではないかと思います。この譬えはこの意味であって他にはない、と自信満々に披露している人がもしいたら、まぁ気の毒な方だと眺めておけばよいでしょう。
 
逆に言うと、様々な角度から、その人なりに心に食い込むところがあってもよいのではないか、とも考えられます。そこで、ふと引っかかったこと、また私のパートナーが気づいたことを、併せて覚書にしておこうかと思います。
 
そもそもこの章では、続いて金持ちとラザロの話があり、「金」のことが頭にあって、ルカが編集していることは間違いないと思われます。この直後に「金に執着するファリサイ派の人々が、この一部始終を聞いて、イエスをあざ笑った」(16:14)とあってから、ファリサイ派が自分の正しさを見せびらかすことをイエスが暴きます。間もなく、金持ちとラザロの、譬えなのかどうか分からないような物語をイエスがただ語ることになります。
 
この管理人は自分がこれから奪われる職を案じて、次の生を生きるために、金額を偽造します。いえ、管理人は偽造していません。「書き直しなさい」(16:6,7)と借り手に命じています。最初の場合には「腰を掛けて」(16:6)とまで言っています。
 
「不正な」という日本語訳だと見逃しますが、この語はもともと「非正義」という構成をしていて、正しくないことを表します。それでは不正と同じじゃないか、と思われるかもしれませんくが、正しいことの反対を、聖書の世界ではしばしば「罪」と呼んでいます。管理人が公文書偽造の罪を犯したことは明白です。だから「不正な管理人」(16:8)と呼ばれています。他方、「不正にまみれた富」(16:9,11)と訳し分けられているようでこれも同じ語(最後のは格が異なるが)であり、「罪の富」と言っているのであって、こちらは管理人の罪というよりは、金が罪なのだ、と言っているように受け取るほうが自然であるような気がします。
 
14:28 あなたがたのうち、塔を建てようとするとき、造り上げるのに十分な費用があるかどうか、まず腰をすえて計算しない者がいるだろうか。
 
14:31 また、どんな王でも、ほかの王と戦いに行こうとするときは、二万の兵を率いて進軍して来る敵を、自分の一万の兵で迎え撃つことができるかどうか、まず腰をすえて考えてみないだろうか。
 
ここで「腰を据えて」とあるのを思い起こします。もちろん同じ語です。どうして本人が書き換えるのでしょうか。当時そういう決まりであったのかもしれないし、自筆自署ということになっていたのかもしれませんが、管理人自身が書き換えることによって、恩を売ることもできたのではないでしょうか。また、本人が書き換えると、偽造したのは借り手自身だということになり、管理人はどこまでも抜け目がないということになるのでしょうか。
 
この借り手、つまり自分がクビになった後で世話をしてもらいたい魂胆を以て見つめている相手に対して、この管理人が、偽造をさせる時、100バトスを50バトスと書き直せと言い、100コロスを80コロスに書き直せと言っています。同じ割合でもないし、微妙な偽造であり、果たしてこれで恩を売ったことになるのかどうか、私にはよく分かりません。しかし、ともかくこのとき、0にはできないのです。借用証ですからそもそも0ということはありえないのでしょうが、借金という金を積みと重ねて見る見方を先ほど手イア案していました。この管理人は、罪を0にすることはできませんでしたが、思い返せば、ただ一人、罪を0にする方がいました。
 
そう、イエス・キリストです。キリストがもしこの管理人のような働きをしたならば、罪を0にできたでしょう。罪を赦す権威をもつこの方はどなたなのだ、などと弟子たちは訝しく思うシーンもありました。あなたの罪は赦された、という宣言ができるのは、キリストただ一人でありました。
 
管理人は、所詮人間です。罪を0にすることなどできません。しかし、イエスは罪を0にすることにより、後にそれを信じる者の友となりました。「不正にまみれた富で友達を作りなさい」(16:9)の「で」というところは、多くの場合「から」と訳しておけばよい前置詞が使われています。「非正義なる罪から」という感覚で、要するに「罪」のことを言っているだけだとして読み直してみると、「罪から友だちを作れ」となります。
 
神に対して自分は100の罪がある、と嘆く人がいたとき、管理人としての私は、ある意味で神の前に不正をはたらいて、いや君はそこまで悪いわけではない、50の良いところがあるじゃないか、と声をかけることができるかもしれません。神に対して自分は100の罪がある、とかなりの悪い人がいたときでも、管理人としての私は、いや君にも20の良いところがあるじゃないか、と告げることができるかもしれません。
 
16:10 ごく小さな事に忠実な者は、大きな事にも忠実である。ごく小さな事に不忠実な者は、大きな事にも不忠実である。
 
ここの訳も日本語訳だと大いに誤解します。どう見ても「忠実」と「不忠実」は反対語、あるいは後者は前者の否定概念です。しかし原語では、前者は「信実(信仰)」の語であり、後者は、ここで何度も登場した「不正」なのです。これを踏まえるとこの節はこうなります。
 
ごく小さな事に信ある者は、大きな事にも信がある。ごく小さな事に罪である者は、大きな事にも罪である。
 
私たちは、小さな人々、時折このごろでは「小さくされた人々」のことを気にします。はぐれた1匹の羊のような存在、政治経済あるいは社会から外れて見捨てられたような状態の人、差別されたり虐待されたり、迫害されたりしている、苦悩の中に置かれ、どうしようもない立場に追い込まれている人のことです。キリスト教は、古来そうした人を大切にすることをモットーとしてきたはずでした。初代教会の時代が、まさにそうでしたし、さらに言えばイエス自身がそうでした。ここでは、そうした福祉的な意味もこめて見ることもできますし、そういうカテゴリーに入らない場合でも、自分の罪の意識と共に閉じこもっているような、心を弱くされた人々も、小さな人々としましょう。そうすると、生活面では恵まれたようであっても、職場や学校や、町内やあるいはまた家庭の中で、悩みを抱えている人が広く含まれてくるようにもなるでしょう。
 
その人に対して信頼を置き、誠実に接することができるようになれば、私たちは、神を信じていると言えるのです。小さな人に対して不正をなすようであれば、神に対してもまた罪ある者となってしまうのです。耳の日という日は、耳について何か問題を抱えている、あるいはそのせいで多数を占める人々から不当な差別を受けていたり、害を受けていたりする人たちを大切に扱おうとするための日でありました。今日、聞こえない人や、多くの人のようには発音できなかったり、言葉が出なかったりする人のことを覚えたいと思います。このような人に対して不正な態度をとるならば、私たちは神から罪だと指摘されることになることを知りましょう。
 
16:13 どんな召し使いも二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらかである。あなたがたは、神と富とに仕えることはできない。
 
私たちは神の僕にされた恵みの中にあります。しかし、罪に仕えるならば、神を憎み嫌うことになってしまいます。そうでなく、神を愛するならば、罪を憎むことになるのです。
 
罪を憎んでいるからこそ、人が罪に悩むのを見たとき、苦しんでいたとき、その罪に負けないでほしいという気持ちで接することができるという可能性があると思います。但し、人間として私は、その人の罪を赦してしまうことはできません。あとはその人が自信で腰を据えて考え、イエス・キリストと出会う必要があります。私たちは、この方がそれだ、と指し示すことしかできませんが、慰め、希望を共にもつ者として、友となりたいと思うのです。するとまた、イエスが私たちの友になってくださるということになるはずです。その小さくされた人そのものが、キリストであるのかもしれない、というふうにも、考えるべきであることを、聖書はまた別のところで私たちに語りかけてくれているのですから。



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