2種類の牧師

2020年2月24日

これまで直接幾人もの牧師の牧会を受けてきました。説教を聞いたとなると、ずいぶんな数の人が挙げられ得るだろうと思います。そうした牧師あるいは伝道師(以後まとめて「牧師」と称す)について、目立つ二つのタイプがあることに気が付きました。もちろんすべての方をこの二つのうちのどちらかに収めようとするものではありませんが、対照的に浮かび上がってきたことから何かを教えられるように思ったので、ここに記してみます。もちろん、牧師という職にあっても人間ですから、偶像視するつもりはありませんが、かといって十分な尊敬を払わないというのもおかしなものです。そうした意識で常日頃過ごしていることは、私を直接知る方ならばお分かり戴けるのではないかと思っています。そのうえで、過ぎた表現をこれからすることになるかと思います。不愉快を覚えたら、すみませんとしか申せません。
 
最初のタイプは、なんらかの問題を起こした牧師でした。法に触れることをしたという人は、私は直接には存じ上げませんでしたが、そうした牧師も、比較的身近にいました。身近だったのは、法的にどうのということはありません。が、一部の非常に厳しい信徒が追及し、けしからんという勢力を増やしていった経緯がありました。それにより教会が二つに割れるようにもなりました。教会という場所であるからこそ糾弾されたのかもしれませんし、それでもそこまで吊し上げなくても、と思える場合もありましたが、結局牧師は追放されるようなことになりました。
 
しかし私は、こうしたケースでは、それらの牧師をそれほど悪く扱う気持ちは全く起こりませんでした(追放のときにはもうその教会にいなかったせいもあります)。結局一部の信徒がやたら正義の使者に成り代わってしまい、牧師を悪の代表のように告発するようになっていったわけですが、私はそのような考えは持ち合わせませんでした。それは私のもつ「甘さ」の故であると言われればそれまでですが、むしろ何らかの弱さを抱えた人間であるからこそ、牧師という職をやっていけるのだ、というのが私の基本的なスタンスだったからです。少々の過ちや失敗をしようが、そうした弱さを経験し、あるいは心に具えた人でなければ、ひとを生かしひとを癒やす御言葉を発することはできない、と考えるからです。苦難を抱え、自らの弱さを経たひとだからこそ、信頼できる牧師となりうるという思いが常にあるのです。
 
問題を起こしたというのでなくても、このタイプの中に、自分の弱さというものを痛感している牧師も含めて捉えてみたい気もします。謙遜のポーズではありません。自分の弱さを弱さとして受け止め、またそれを説教の中でもきちんと語ることがあるということです。説教で語るということは、前置きのように言うのではなく、その弱いところからこそ見える神の姿、弱さ故に知ることのできる神と出会い、それがメッセージそのものとなっていくということです。形だけ自分はだめな人間です、などと言うのではなく、真底そのような場所に立っているからこそ、感じる神の恵みを語ることができるということです。こうしてこれらは、いろいろな意味で、弱いタイプの人、と呼んでもよいかもしれません。
 
他方、先のような問題を起こさないタイプの牧師も当然いました。陰ではどうかなと思われていたかもしれませんが、概して信徒は、指導者を敬うべきだと心得ていますから、よほど揚げ足を取られるようなことをしない限り、はっきりと口には出さないものです。それで面と向かった何かを言われることがないのを、いつの間にか自分は立派だと勘違いするようになっていく罠が待ちかまえていることになります。口では謙遜しているようでも、内実はそうではないので、少しでも何か(適切な意味での)批判を受けると、牙を剥くということもあり、火種を消してしまいます。そのように、保身の業を心得ていて、いわばうまく立ち回ることができるタイプです。これは、ざっくりとした言い方に過ぎませんが、強いタイプの人、と捉えてよいかもしれません。
 
前者のタイプの方々は、やはり糾弾され孤独にされた事態にショックを受けていました。しかしそんなことについて相談を誰かにすることはできません。牧師だから神に向き合えばいい、などと偉そうなことを言うつもりは私にはありません。誰かに聞いてほしいと思うのは、決して牧師に相応しからぬことではないと確信しています。むしろ、誰にも話せないで悩みを抱えるというふうに強いられることで、多くの牧師が心を病むことがあるのではないかと思っています。偶々私との接触があったことで、私を信頼して、その苦しい心の内を吐露してくださったこともありました。
 
後者のタイプだと、いろいろな対処がありましたが、私のような信徒に対しては非常に批判的でした。というより、嫌悪感を抱いていました。それでも保身を優先しますから、牧師らしからぬ態度を人々の前で見せはしません。直接私を悪魔だと罵るようなケースもありましたが、えてして自分を正当化するべく行動を始めるのが見てとれました。こういうのもまた、人間的な欠点であるかもしれませんが、私はその故にこうした人を非難するつもりはありません。ただ、そのような弱さを弱さとして自覚しないようなこのタイプの牧師は、教会にとりよくないという意見は持ち続けることだろうと思います。弱いときこそ強いという知恵は、逆に強いからこそ悪いことへとつながっていく可能性を含みます。
 
旧約聖書では、預言者たちが、王や祭司たち、つまりイスラエルやユダの指導者たちについて、容赦なく批判を重ねています。私は、出会ったこの後者のタイプの人を、それに当てはめて膝をたたくような真似はしたくありません。しかし、指導する立場にある人の中に両タイプがあるのを幾度もの経験の中で知るとき、旧約聖書はよく人間を観察し、よく描いているものだと感動を覚えます。
 
キリスト教会の牧師だからその人の言うことに逆らうのは不信仰であり、不従順の罪だ、と今どき主張する人は少ないだろうと思いますが、教団や教会の中には、その原則を貫いているところも現にあります。この人と結婚しなさい、と命じてさせるようなことも、有名なカルト集団ならずとも、実際にある現実を知らなければなりません。それの身近なバージョンは、日常的にもっとあるはずです。しかし、聖書に描かれる民衆は、指導者に逆らうということはできませんでした。権力にある者の側につくほうが、安全だったからです。現実の教会でも、信徒はそういう計算をしています。牧師に反対する意見に固執すると自分が悪の側になる、というような信仰的な苦しみもあるかもしれませんし、たんに教会の中でよい立場にいたいために牧師につねに賛成しておく、という打算的な考えもあるかもしれません。いずれにしても、牧師の中でも、この情況の中で、自分は常に正しいしこれでいい、という勘違いをもつような性格の人がいる時、教会は危ないのです。
 
ひとつにはやはり、個人的な性格や、人格障害などの問題も隠れています。牧師だからそうした障害の人がいるわけがない、という根拠のない確信をお持ちにならないほうがよいでしょう。元来そうだという人が、なんとか信仰の中で抑えている場合もあるし、逆に牧師という立場の中でそれが発症していく場合もあるのです。それほどに、牧師という立場が置かれている情況が、信徒がなんとなく思う以上に苛酷な精神状態を招きやすいという事情もあります。
 
そしてまた、とにかくよいことが続いているような教会や牧師の個人的環境にあるということも、決して油断してはならないものだと警戒する必要があります。それまで弱さを抱えて自覚が強く、弱者の立場によく気づいていた牧師が、よいことが起こっていったり、俗な言い方をすれば、運が回ってきたりしたとき、その良い点を忘れていく、あるいは見えなくなっていく、つまり変貌していく、ということは、基本的にありがちなのです。こういうことを、信仰の言葉で言えば、調子の良いときこそサタンが狙う、と言います。どう説明しようが、それがあるのは事実です。
 
要は、牧師のために祈る必要があるということです。そして、牧師に適切な批判を明らかにしなければならないということです。随所から批判(くれぐれも、これは非難ではありません。問題点の指摘という意味です)を受けると、さすがにこれは何か問題があるのだということに気づくものと思われます。もちろん、逆に自省の傾向の強い牧師の場合は、小さな指摘にも押しつぶされそうになってしまう場合がありますから、一概に法則としては定めることはできませんが、概ね、コミュニケーションができるようでありたいものです。
 
子どもたちに教える立場の教師の経験のある方は、ここで私が告げてきたことの意味は、きっとお分かり戴けると思います。尤も、最近は教職者は、生徒や保護者のクレームに辟易しているかもしれず、悪く言われることばかりで悩ましいという場合もあるかもしれませんから、これもまたケースバイケースでしょう。私も決めつけていくことは極力やめましょう。どうぞ自由にお感じ下さい。



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