【メッセージ】復活を信じるということ

2020年2月23日

(ヨハネ11:17-27)

わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。(ヨハネ11:25,新改訳2017)
 
キリスト教の雰囲気は好きだけど、十字架はちょっと酷いかもね。それと、あの復活というのは、どうも信じる気になれなくて――というような人が少なくないと聞きます。十字架はまだアクセサリーとしていくらか馴染みがあるし、事実としてそれなりに受け容れられたとしても、復活のほうは信仰そのものとして意識されるのでしょう、やはりそこが、大きなポイントであるような気がしてなりません。
 
そこで、その復活とは少し違った角度から、「復活」ということを見つめてみましょう。「復活」というと、私なんかは、プロ野球の近鉄バファローズの盛田幸妃(こうき)投手を思い起こします。近鉄に移籍してから脳腫瘍が見つかり、手術を受けました。とても選手生活には戻れまいと思われましたが、1年後には再びマウンドに立ち、3年後にダイエーホークス相手に勝利投手に返り咲きました。この年34試合に登板し、近鉄のリーグ優勝に貢献しました。見事な「復活」でした。この2001年に盛田投手はカムバック賞を受けましたが、その後パ・リーグでは、カムバック賞を受賞した人は現れていません。盛田さんは、引退後も解説などで活躍していましたが、2004年に脳腫瘍が再発し、一旦は回復しましたが転移が起こり、2015年に亡くなりました。45歳でした。
 
カムバック賞といえば、広島カープの津田恒実投手を忘れることはできません。「炎のストッパー」と言えば年配の方は思い出されるかもしれません。浮き上がるストレートは本当に燃えているようでした。こちらは血行障害からカムバックしたのですが、その後やはり脳腫瘍で隠退を余儀なくされ、病と闘った末、済生会福岡総合病院で亡くなりました。32歳でした。津田投手の背番号14をいまつけているのは、九州共立大学から広島に入団した大瀬良大地投手ですが、津田投手を目標としているといいます。
 
ミュージシャンでも俳優でも、世の中ではよく「復活」と言う言葉を使います。再び脚光を浴びるようになるときです。トルストイの小説『復活』を思い起こす人がいるかもしれませんし、マーラーの交響曲第2番が浮かぶ人もいるでしょうか。私なんかは、不調のコンピュータが再び動き始めたときに、思わず「復活した」と喜ぶことが度々ありました。道具が再び使えるようになったときにも、確かに「復活」という言葉を使うような気がするのですが、どうでしょうか。
 
復活したと言うからには、一度ダメになったという前置きがあるはずです。これを一度「死んだ」という言葉で表現してよいこととすると、確かに野球選手も野球生命を断たれた後に再び選手となれたのであるし、コンピュータも一度もう二度と動かないのかと見られたのが再び動いて使えるようになったということになります。私などは失恋する度に、もう恋なんてしない、と歌っておきながら、また誰か相手を見つけてちゃんと復活を繰り返していたのですから、何度も何度も生き返った経験をしていると言ってよいのか悪いのか……。
 
さて、ヨハネによる福音書の中には、ひとつ珍しい記事がありまして、イエスでない人が復活したというのです。旧約聖書でも、預言者が、一度死んだ子どもを生き返らせたというような話があるし、福音書にも、イエスが死んだ青年や少女を生き返らせて家族を喜ばせたというような話もあるのですが、このヨハネの記録によると、死んで4日も経ってからの復活ですから、他に類を見ないのです。これでは仮死状態だったのでは、といった疑いはもたれないに違いありません。
 
マルタというおそらく姉と、マリアという妹、そして年齢は上か下か分かりませんが、ラザロという男兄弟が一緒に暮らしていたといいます。聖書は、年齢や生活環境を現代小説のように描いてくれませんから、情報が少なすぎるのですが、一定の大人であることは確かでしょう。イエスは、この3人と親しく付き合っていたように書かれています。しかしある時、このラザロが病気になりました。経過は思わしくありません。
 
2人の姉妹が、エルサレムを一旦離れていたイエスにこのことを知らせます。イエスは、「この病気は死で終わるものではない」と言います。これはいまも私たちの慰めになっている言葉です。イエスはこの3人をとても愛していたことも記されています。イエスは直ちにラザロを癒すために動いた――のではありませんでした。二日間なおもそこにいました。それから唐突に、ラザロのいるユダヤに行こう、と弟子たちに告げます。目指すベタニアという地は、エルサレムから3kmと離れていないことまで福音書記者は記しています。いや、そこは先日石を投げつけられそうになった危険な場所です、と弟子たちが窘めましたが、イエスは敢然と立ち向かおうとします。そのとき「わたしたちの友ラザロが眠っている。しかし、わたしは彼を起こしに行く」と言いました。これを聞いて弟子たちは「眠っているのであれば、助かるでしょう」と呑気に考えましたが、実はこのときすでにラザロは亡くなっていたのです。イエスが到着したときには、もうラザロは墓に葬られており、既に4日を経過していました。そこで今日開かれた箇所に入っていくことになります。
 
多くの説教では、当然のことのように、イエスにスポットライトを当てます。それでよいのですが、私たちはイエスの立場にある者でなく、ただの人間ですので、イエスの視線をもつような気持ちでいるよりも、一人の人物の視線を通して、イエスを見つけて向き合ってみようかと思います。そう、ここで登場するのはマルタです。私はマルタになってここを辿ります。いま家族を喪ったばかりです。イエスにすがれば助かると祈り求めてきましたが、イエスはその死の床に間に合いませんでした。残念です。知らせたのはもう何日も前。しかしイエスが来るのが遅かったからダメだったとまでは言うことができず、仕方がなかったかもしれませんが、それでも、イエスがもしいたら死ぬことはなかっただろう、と悔しい気持ちをもっていました。
 
死んで4日以上過ぎていたのに、ユダヤ人たちは残された姉妹を慰めに集まっています。慶弔事は一週間くらいを標準とした模様です。別の福音書(ルカ)ですが、マルタばかりが給仕に走り回り、マリアのほうはじっと座ってイエスの話を聞いていた、という逸話があるました。そのせいか、今回もマリアは家の中に座っていただけで、動いたのはマルタです。イエスが訪れたことを知り、迎えに出て行きます。そして真っ先に告げます。もしここにいてくださったら、こんなことにはならなかったのに。
 
けれどもマルタはイエスに対して恨み辛みを述べたのではありません。イエスへの信頼は持ち続けていることを伝えたい。ぼやいているのではありません。すぐに続けて、「しかし、あなたが神にお願いになることは何でも神はかなえてくださると、わたしは今でも承知しています」と言いました。そう、こんなことになった「今でも」です。私たちもまた、理不尽なこと、信じたくない出来事に出会うことがあります。神を信じているという立場で、教会に通っています。クリスチャンだと自らひとに言います。だから、少々辛い目に遭ったからと言って、神に文句を言うようなことはしてはいけないと教えられています。神に祈るにしても、神には何か考えがあってのことでしょう、最善へと導いてくださることを信じます、などと言います。――本当にそう思っていますか。
 
どうして神さまこんなことをお許しになるのですか、と噛みつきたくなることはありませんか。それでも、そんな気持ちを押し殺すかのように、そんなことは言っちゃいけないと自分に言い聞かせるかのように、「あなたを信じます」と小声で言うようなことはありませんか。このときマルタがどんな気持ちでいたのか、私たちが決めつけることはできません。本当にどこか無邪気に、イエスを信頼していたというふうに見てもいいだろうし、いや内心これは抗議をしているだけなのだ、と想像しても、私はいいと思います。マルタ本人の思いを決めることはできませんが、いま私がマルタとしてイエスに対峙しているとき、私はどちらかの気持ちで向き合っていることになりますし、きっとどちらでもよいのです。聖書はそんなふうに、客観的な知識として読む必要はなく、私がその立場で参加して、私らしくイエスの前に出て、イエスと出会えばよいのです。
 
するとイエスは(多分)おもむろに、ラザロは復活する、と言いました。私マルタはその言葉に反応します。復活……そう、慰めの言葉だ、知っている、いつか裁きの日、終わりの時がくると、人間はすべて復活して神の前に出ることになるのだという教えを自分は知っている。だからイエスに、「ええ、ええ。知っていますとも。いつか復活するのです、そう教えられました。忘れてはいません」というような勢いで告げます。
 
イエスはこう言います。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか。」
 
信じるかですって? マルタは(多分)直ちに反応します。はい、そうです。信じますとも。あなたは世に来られる神の子、メシアつまりキリストですよ。知っています、信じます。これは、イエスの質問に対する即答としては、できすぎています。私は、ヨハネによる福音書にあるストーリーは、必ずしもそのように対話がなされたり理解が進んだりするドラマチックなものとは限らず、時間的順序にのみ事が進んでいくというよりは、常に前後しながらどこへでもリンクしていくように読んでよいのではないかという考えをもっています。普通の映画や舞台というよりは、ミュージカルに近い構成で受け止めてみたいと思うのです。ですから、イエスの問いかけに直ちにマルタがこのように答えたというよりは、マルタは自分が教えられたこと、信仰すべきことを告白した、つまりそれなりにちゃんと弁えていた、と受け止めてみたいと思います。それでもなお、自分をここに登場したマルタに重ねて参加していくのですから、まさに展開はミュージカル的です。つまりけっこう物わかりのいい登場人物が、その場では普通答えられないようなところまで歌い上げるのです。
 
この後、マリアが動き、ラザロの復活劇が始まることになります。つまり舞台で言えばクライマックスに進むのですが、今回はマルタがイエスにどう向き合ったか、そこに焦点を当てることにし、肝腎の良い場面を期待だけさせて宙ぶらりんにしておくというので、第一幕で終了です。残念ですね。
 
さあ、ミュージカル女優としてマルタは何をしたか、もう一度振り返ってみましょう。まずマルタはイエスを「迎えに行った」のでした。ともかくもイエスに会いに行きました。同情し集まる人に対する接待に追われていたかもしれないのに、イエスに会いに出て行きました。誰よりも、まずイエスに会いに行ったのです。
 
次にマルタはイエスに向けてものを言いますが、「もしここにいてくださいましたら」という言い方から始めました。これはひとつの仮定の言い方です。神の力がもしもあったら、この悲しい事態に陥ることはなかった、という意味でしょう。神はきっと物事を良くしてくださるという思いを告白しています。神は悪をもたらさない、私は今日、その思いをこの場面でもちたいと考えます。
 
それからマルタはさらに、イエスが神に求めるなら神は必ずかなえると今も知っている、と告げました。祈りは届く、祈りは無駄ではない、と、こんなことになってしまった今でも分かっています、と叫んでいるように私は感じました。神を信頼して祈っていることは間違っていない。目の前に見える現実がどうであろうとも、祈りは続けるという決意だと理解してみます。
 
四つめに、終わりの日に復活することも分かっている、と言いました。これは将来のことです。神は将来をも約束している、これから先も神に委ねて間違いがない、そんなことをイエスに告白しているように受け止めました。
 
そして最後に、「わたしは信じております」と力強く告げ、イエスに対する訴え並びに対話を終えます。イエスに対して言い切ってしまいたいこと、もはやイエスの返答を待つこともなく、精一杯自分の思いを伝えようとした最後が、「信じている」ということでした。「信じる」とは「信頼している」という言葉で考える価値のある言葉です。神は自分をあしらい、酷い目に遭わせないと信頼していなければ、神に向き合うことはできません。神はただ怖い神であって自分を罰するためにいる、というふうに思い込んでしまうと、萎縮してしまいます。神は救うお方です。これを面と向かって告白しているのです。
 
しかし、このマルタの信頼は、いまラザロが復活するというところにまでは及んでいませんでした。これは私たちの日常と同じだろうと思います。教会に来て、教えを受けて、それを信頼したのは、将来の復活であったとしても、いま死んだ人が生き返るということではないはずです。マルタはこの後ラザロがよみがえる場面で、まさかラザロが、という思いを吐露してしまうことになりますが、イエスはラザロを復活させることで、マルタのいう将来のことを目の前で確実に保証してくれたのかもしれません。
 
ラザロの復活は、いずれまた死ぬことになる、そんな意味での復活です。イエス自身の復活や、将来の終わりの日の復活とは、訳が違います。そのため、ここでの復活劇を軽視する人もいます。けれども、この現実に見た復活は、ますます将来の復活を確かなものとして示す出来事になったのではないでしょうか。言葉だけのものではない、現実にそういうことが起こったということは、信頼をも増すことになったに違いありません。
 
2018年の夏、母の病気が、回復の見込みがない状態にあることが分かりました。禅寺の生まれの母でしたが、最期を看取るために、いわゆる延命治療を施すのではなく、ホスピスに容れることを父が決めました。キリスト者は私だけという家族でしたが、私がいることで、初めてキリスト教のホスピスという選択肢が浮かび上がったのではないかと想像します。
 
妻の実家に里帰りしたほかは、それから毎日私はホスピスを訪ねました。仕事は幸い午後からなので、午前中にでも毎日動けたのです。高齢ですでに認知的な症状もあったため、通常の会話がスムーズにできたわけではありませんでしたし、実際眠っている時もよくありました。が、痩せたその手を握り、私は聖書を幾度か読みました。最も多く読んだのが、今日のこの箇所でした。
 
「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか。」
 
「わたしを信じる者は、死んでも生きる。」
 
母がどのように聞いたのか、どこまで聞こえていたのかは分かりません。ただ心の中で肯いてくれたらそれでいい。しるしは私に見えなくてもいい。それでも、言葉は命を与えることができる。これは命の言葉なのだ。確信をもって、語り続けました。
 
最後に生きている母に会ったのは、礼拝の後でした。その深夜にかけつけた私は、亡骸となった母にしか会えませんでした。(病院のせいではなく)トラブルで、父のところには連絡が届かず、かなりの時間、私だけがそこにいることになり、医師の最終診断も私だけが立ち会うこととなりました。それから、まだいくらか温もりのある額に手を当て、水のない洗礼を授けました。そして、祭壇のある間に行って、しばらく礼拝をしておりました。
 
「わたしを信じる者は、死んでも生きる。」
 
ラザロのような出来事はそこにはありませんでしたが、きっとまた会えるということ、そして新改訳聖書にあったこの箇所が「わたしは、よみがえりです。いのちです。」とあるのに因み、折り紙でカエルを折って病室に並べていたのですが、そのカエルを四匹、棺に納めました。「よみがえる」というメッセージをこめて。
 
これは現実の死という問題でしたが、死からよみがえるというのは、普通に考えるとありそうもないことです。けれども、ある意味で死からよみがえった経験を、人はもつことがあります。それは魂、精神の死です。打ちのめされて立ち上がれない、もうこれまでの自分は死んだ、と思うようなことは、多くの人に覚えがあるのではないかと思います。私も、実は魂においては死んだ経験がありました。イエス・キリストを信じるとき、私はかつての自分に死にました。これは完全に死んだのです。魂のレベルで確かに昔の自分は死にました。その自分が、以前には考えられないような考え方をする自分としてここによみがえっているのです。野球選手は、元の姿以上に戻ることは難しかったことでしょうが、私は元の姿とは別の存在に変えられました。だからこれを「カムバック」とは言いません。元の所には戻りません。これは確かに復活なのです。別の姿に復活したのです。いま絶望に苛まれている人も、死んだような気持ちになっている人も、よみがえることは可能なのです。この点も、ひとつ押さえておきたい、大切なところであると、付け加えさせてください。



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