いただきます

2020年2月22日

ごちそうをいただきます。このとき、そのレシピを知らないで食べるということは、よくないことでしょうか。作り方のコツをぜひ知りたい、と思いながら食べるでしょうか。
 
おいしい。幸せだ。この感想だけでは足りないでしょうか。料理人は、客のこの一言だけで、作ってよかった、と思うのではないでしょうか。もちろん、それで生計を立てているということについてありがたいと思うということは言うまでもないことですが、さしあたりそこに注目はしないでいさせてください。
 
料理人はごちそうをこしらえる。客はそれを食べて、おいしい、幸せな気持ちだ、とレスポンスする。ここに、互いの満足がある、という情景を思い描きました。
 
私は聖書を、乱暴ですが、この料理だと見なしていたいと思っています。聖書の謎をどうしても解かなければそれを読まないとか信じないとか、そんなふうには考えません。その言葉が自分を生かしてくれた。幸せになれた。聖書を与えた神のほうでも、その一言が一番喜ばれるものではないのか、と考えたいのです。
 
レシピや作り方を知りたい、と思うことが悪いとは申しません。客の中には、そこが気になる人もいることでしょう。また、それを幾らかでも知ることで、味わい方が変わってくるという場合があるかもしれません。そのように、聖書について研究してくれる神学者はありがたいものです。この料理はこのように味わうと美味しい、というような情報は、ただ出された客が知らないことがあるからです。なるほど、ここで水を一度口に含ませるとより美味しくなるのか。温かいうちにぜひ食べたほうがよいのだ。そんな知恵は、無知な客には分かりません。それを教えてくれる食べ方、つまり聖書の意味や背景について、できるかぎりのことを探究してくれる研究は、ありがたいと思います。
 
また、間違った味わい方というのもあるかもしれません。俺は醤油が好きだから、となんでもかんでも醤油をかけてしまい、料理を台なしにしてしまうことだってあるでしょう。自分が虫歯であるために、この料理はまずい、と料理を非難するようなことも、すべきではないでしょう。こんな料理くらい自分でもできるさ、などと感謝もしないで無造作に食べるということもしたくないし、テーブルマナーを無視して料理の大部分をこぼしたり撒き散らしてしまったりするのもよくありません。
 
聖書を聖書として、おいしく戴いて、幸せでありたいものです。



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