【メッセージ】羊をめぐる福音

2020年2月16日

(ヨハネ10:7-21)

わたしは良い羊飼いである。わたしは自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている。(ヨハネ10:14)
 
田舎の小学校で、田圃の一角を借りて、小学生の稲作活動ができるところがありました。田植えと稲刈りを体験します。ジャンボタニシやヘビとの出会いもあり、いろいろなことが学べます。NHKの朝の連続ドラマ「なつぞら」では、牧畜の様子が丁寧に描かれ、そのラストにも大きく関わっていましたが、あの高校で歌われていた「FFJ」は本当にある組織で、日本学校農業クラブ連盟といいます。全国の高校生たちが、食文化のために学んでいて頼もしく思います。
 
牧畜業を含め、農業は、日本の食べ物を生産する働きです。食品工業製品も、もとをたどれば農業により生産されたものだと考えてよいかと思います。その従事者は、統計の仕方にもよりますが、大体3%台に留まるとされ、そのうちの半数が女性であるとか、65歳以上もそれに近いなどと言われています。食文化などというどころでなく、そもそも食糧に関する危機であるという認識が必要だと思います。ふんだんに物があるのが当たり前、という感覚を一掃しなければなりません。
 
イスラエルの歴史での羊は、食糧資源でもありましたが、衣食住あらゆる面で重宝する、必要不可欠の素材でした。素材、などというと、生き物をそのように呼んでよいのか、とお叱りを受けそうですが、私たちも牛や豚、鶏についてそのように扱っていることは否定できません。もちろん日本では古来、魚が主体で、獣を食しなかったとも言われますが、マタギと呼ばれる狩猟者たちの文化もあり、動物たちを生活に利用してきたのは確かでしょう。ただ西欧文化はもっと根本的に狩猟文化だと言われ、動物は神が与えてくれた資源だと当たり前に見ているであろう空気があるかと思います。他国で食する鯨や犬などを野蛮と言いつつ、牛や羊を道具と見なすことでバランスはどうなのだと問いたくもなりますが、ともかく事実は事実として、イスラエルでは羊が重要な資源であったということは、押さえておくことにしましょう。
 
1990年にオープンした「ニュージーランド村」というテーマパーク、ご存じの方いらっしゃるでしょうか。残念ながら2005年に閉園しましたが、私は子どもたちを連れて一度だけ行きました。山口県美祢市です。
 
羊飼いの実演をしてくれたのを覚えています。狭い区域ではありましたが、羊を追い込んで門を潜らせるのです。羊たちはぞろぞろと動き、ちゃんと羊の囲いの中に収まりました。聖書にあるのはこういうことだ、と喜んで見ていました。テレビで紹介される外国の牧羊では、犬を使うことがありますね。羊たちを適切なコースに誘導するために、犬が右に左にせわしなく走り回り、こっちへ行くなと吠えて急き立てるのです。かつてウサギ狩りに使われていたのがビーグル犬で、スヌーピーはその狩りができないビーグル犬であるわけですが、これは羊関係とはまた違うようです。羊を追う犬は牧羊犬と呼ばれ、警備にも役立つのですが、犬の種類としてはいろいろあるそうです。その中でも最も有名なのが、シェパード(shepherd)の種類でしょう。シェパードとは元々「羊飼い」を指す言葉なのでしょう。そしてなんと今では「牧師」を指す言葉としても使われます。教会の牧師が犬の顔だという意味ではなくて、羊飼いの役割を果たしている、というわけです。すると、どうしても私たち信徒一般は、羊ということになりそうです。ところでパスター(pastor)など、牧師などを表す語は(英語だけでも)実にたくさんあるのですが、こちらはラテン語に由来するようです。shepherdのほうは、shepとherd(群れ、または群れを導く)という英語に基づくようなことが辞書からは窺えます。
 
さて、ようやくヨハネによる福音書に入りますが、ここでイエスは、自らを「わたしは良い羊飼いである」(10:11)と宣言しました。聖書の中には羊飼いをしていた人はたくさんいますが、イエスを一種のダビデの再来というふうに期待する見方をする私たち新約の徒からすれば、羊飼いとくれば私たちはダビデをどうしても思い起こします。少年ダビデは、羊飼いをしていたので、獣とも戦う力があるゆえにゴリアトとも戦える、とサウルを目の前にして豪語したのですが、確かに羊飼いは、筋骨隆々のイメージでよいかと思います。私たちが牧歌的に、やわな優しい羊飼い、などとイメージするのはよろしくありません。教養もなく、律法も守れず、差別されていたならず者たちというふうに考えるくらいがちょうどよいと思われます。それがイエス誕生のときに真っ先に訪ねてきたのですから、福音とはどういうことか、改めて考えさせられるところです。
 
イエスもまた、ダビデのように、羊のために戦います。しかしその戦い方は少し変わっていて、「良い羊飼いは羊のために命を捨てる」(10:11)と続けて言っています。誰と戦うのか。「盗人」「強盗」などと呼ばれ、「狼」とも言われている相手でしょうか。これらは、イメージとしては悪魔のように見ておきましょう。「盗んだり、屠ったり、滅ぼしたりする」(10:10)のです。しかしイエスは、「羊が命を受けるため」(10:10)に来たといいます。
 
「命」という言葉は神学的にもいろいろ深く広く検討されるべきものですし、ヨハネによる福音書はしきりに「永遠の命」とも言います。時間的に無限の、という意味にとるのも構いませんが、単純にそういうわけではないという捉え方がよいとされています。しかしその定義をあれこれ詮索するよりは、いまこの場でこの「命」を、「真に生きる」と理解しておくことにします。私たちは生物学的に生きているとは言っても、いわば死んだような日々を送っているというケースがあろうかと思います。命輝くような喜びや希望の毎日だというよりは、辛いことや嫌なことで苦しんでいる、という捉え方でもよいでしょう。ですから、喜びと希望、愛に満ちた生き方ができるということを「ほんとうの意味で生きる」というように考えてみたいのです。イエスは、そのような生き方を与えるために来た、といま暫定的に押さえておこうと思うのです。
 
敵はそのような生き方をさせたくないと狙ってきます。あなたにとり、そのような盗人・強盗・狼とはどんなものですか。とりあえず誰それという人物そのものは避けておきましょう。その人物をそのように操っている陰の存在を指すようにしてくださいね。病や職場に苦しんでいる人もあるでしょう。いじめの情況や、人間関係の苦しみもありましょう。社会的な差別や不条理な制度、またお金の問題もそうでしょうか。これらは、あなたから喜びを奪います。安らぎや幸せといった願いを蹴散らし、人生は苦しみだぜとせせら笑って近寄ってきます。何か幸せそうな笑顔の人に妬みを懐き、あいつも不幸になればいいのに、という思いが胸の中に渦巻くこともあるかもしれません。そしてクリスチャンならば、そんな自分をまた嘆かわしく思い、ダメだダメだと俯くのです。そうしてまた、いきいきと生きることから遠ざかる自分を意識して、さらに落ち込みます。
 
イエスは「良い羊飼い」だと言いました。「命を捨てる」とも言いました。まさに十字架の上で命を捨てた方でした。それが自分のためだと切実に思った人こそがクリスチャンと呼ばれる羊たちなのですが、そのイエスはその直前に、自らを別のものに喩えて告げています。「わたしは羊の門である」(10:7)と言い、端的に「わたしは門である」(10:9)とも明かしました。当時城壁で囲まれていた町の門というものは、町に入るための限られた場所のひとつで、夜は閂がかけられて、敵の侵入を防御します。また神殿にも、不用意に相応しからぬ者が一定の場所に入らないように門が備えてありました。いずれも、その門を通らなければ中には入れず、また入るべきでない者を排除するためにありました。イエスが門であるということは、その中に、イエスに相応しい者が入ることのできる場所があるということです。ここでは「囲い」(10:16)とも呼んで、町の城壁に当たるものを示しています。その中に入ることは「救われる」(10:9)のであり、そこで「牧草を見つける」(10:9)ことになります。豊かな食事が約束されているというのです。神の国は、このように食事をする宴席であるとイエスは度々口にしていますから、そこは神が支配する平和で幸せな場所であるということは間違いないでしょう。イエスこそがその入口であり、いわば審査機関であるということになります。イエスを主と告白する者、イエスを信じる者が、その国に入ることができる、というわけです。
 
そのイエスは、命を捨てました。しかし、命を与えられました。信じる者にも確かに報いがあるということを、保証してくれた、と言えるかもしれません。命を捨てはするが、ただ捨てるのではない。無駄に死んだのではないというわけです。それを信じる生き方をさせまいとする敵がいます。けれども、それに惑わされないことです。どうせ理想は理想だし、夢みたいなものだよ、という悪魔のささやきは、ひとにそちらのほうを信じさせる魔力をもっています。それを振り切って、イエスの声を聞くとき、そして良い牧舎としてのイエスに従っていくとき、私たちは、イエスの定めた囲いに導かれていくことになるのです。
 
ところでこのイエスは、同じヨハネによる福音書において、「神の小羊」と呼ばれたことがありました(1:29,36)。イエスは、自身、羊となったということです。羊といえば、弱く愚かな存在です。ですから人間がよく羊に喩えられました。このヨハネ10章もそうです。愚かで迷いやすい羊を救うため、そして命を与えて生かすために、献げ物として犠牲になる小羊はどこにいるのか。アブラハムが息子イサクを献げようとしたときにそれを天使が止め、代わりに山羊を備えてくれたように、人間を生かすために献げられる小羊は、人間の中から選び出されるようなことはなく、神が備えてくれたのでした。そう、イエス・キリストです。イエスはその犠牲の小羊となるために、この世に来たのでした。このことを忘れてはいけません。
 
イエスは、羊飼いとなり、神の国という囲いの中に入る唯一の入口としての門にもなりました。そして自ら小羊として献げられもしました。十字架に架けられたのです。イエスは、実に多様な役割を果たしました。私は、人として、しょせんダメダメなただの羊です。但し、主に生かされた羊です。自分で判断しては囲いに入れないので、羊飼いに導いてもらわなければなりませんが、主の声を聞き分けてついて行けばきっと大丈夫でしょう。時に、シェパード犬に追い立てられて嫌々向きを変えなければならない時もあるでしょうが、それでも「主は羊飼い」(詩編23:1)という基準を決して離れないように、導かれていきたいものだと願います。



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