福音書は小説のように読むためのものではない

2020年2月14日

何も論文を書いているのではないし、どうせ思いつきで、よく調べもしないで自分本位に呟いているだけなので、そのおつもりでお聞きください。
 
人の子は、聖書に書いてあるとおりに、去って行く。だが、人の子を裏切るその者は不幸だ。生まれなかった方が、その者のためによかった。」(マルコ14:21,マタイ26:24)
 
世の中には、イスカリオテのユダに同情するタイプの人もいます。悪人だと蹴飛ばすだけの人もいる一方で、ユダの結末はあまりに厳しく酷い、と感じる人がいるのです。それは、自分の中にユダのような性質、つまりは罪を覚える場合、自分もああなるかもしれない、という怯えや不安の故に、ユダを弁護したくなる、という心理も潜んでいるかもしれませんが、多分に論理からしても、これは不条理だ、と叫びたくなる面があると思われます。
 
そこで、ユダは銀貨を神殿に投げ込んで立ち去り、首をつって死んだ。(マタイ27:5)
 
ところで、このユダは不正を働いて得た報酬で土地を買ったのですが、その地面にまっさかさまに落ちて、体が真ん中から裂け、はらわたがみな出てしまいました。(使徒1:18)
 
それみろ、福音書と使徒言行録とでは、ユダの死に方が全く違うじゃないか。ユダについての記事は信用できない――そんな声もあるのでしょう。第一、裏切ろうとすることを、イエスが神ならば、気づかないはずがないではないか。物語の通りだとすると、ユダはまさに神により何もかも知られた中で、いわば操られてイエスを十字架につけて人類の救いを成し遂げるために利用されたのだ。ああ、気の毒に。
 
ユダが裏切ることを、イエスは知っていたように語っています。ここに挙げていない言い方でも、そうした様子を福音書は伝えています。何もかもご存じの上で、あげく、生まれて来なかったほうがよかった、など、残酷ではありませんか。
 
そこで古来、ユダについてはいろいろと詮索がありました。聖書自体を疑うことが許されない西洋の思想史の中では、なんとか矛盾無く説明しようともがく人が多かったし、それがきっぱり解決できない故に、今度は別のユダ伝説を考える人が現れもしました。気持ちは分かります。
 
昔の人は、むやみに疑念を懐くことが許されなかったために、そんなものかと深く考えなかった可能性もあります。そもそもそれほどに聖書を読み込む人も稀だったでしょうし、第一聖書そのものを手に取るようなことも庶民はなかったのですから、現代人のように引っかかることも普通はなかったはずです。それが一人ひとりが聖書を手にするという、歴史上稀な贅沢が当たり前になっている現代日本のような環境では、読んでいた引っかかる人が続出することになります。
 
聖書を誰もが読めるようになった現代、私たちは福音書というものの存在に慣れきっていますから、いつしか自然と、物語を読むように普通に読んでいます。小説を読むように、なかなかのサスペンスだ、などとは言わないかもしれませんが、ストーリーを辿り、台詞に魅力を感じるような読み方をしているとも言えます。
 
でも、福音書というのは、画期的な文学形式であったことは確実で、ただの物語記述と同様に読むべきなのか、そこは大いに疑問を抱かなければならないと私は感じます。つまり、それは「時間順に辿るべきものとは考えられていない」のではないかと思うのです。もちろん小説でも、時間が前後することはあります。回想シーンがあるほかにも、場面が時間的に逆転して説明されるということもあります。映画でもそれはあります。しかし、それが過去であるのか、一応読者が理解できる範囲でそう仕掛けられているはずです。時間順が全く狂ってしまい分からなくなるような描き方はしないと思われます。そこでその場面を読むときには、読者の中の時計で、物語の時間の中のあの位置だ、この時に起こった出来事なのだ、と整理可能な範囲に、時間がずらされているわけです。つまりは、一定の時間軸の中での出来事という意味で了解されている以上、時間順は守られていると捉えることが可能です。
 
しかし福音書は、そうではない、と私は感じています。これをひとつの時間の流れの中に位置づけることは不可能であるどころか、書かれた意図にも反するのではないか、と考えるのです。確かに、四福音書の間では、時間的関係がおかしなことになっています。イエスの言動を共観福音書により整理しても、3つの福音書の間で同じ順に並んではいませんし、ヨハネ伝に至ってはまるで別世界です。受難の週の出来事についてさえ、それは他とは違う時計で記録されているかのようです。そこで、これらを矛盾と覚えた人々は、なんとかその困難を解消しようと、様々な説明を試みてきました。それで、福音書記者による「編集」という考え方で、編集上の問題だというようにすると、とりあえず違っていてもよいということにもなりました。
 
福音書に於いては、私たちが通常理解する時間に従う秩序がない。だから私たちの感覚で、私たちが小説や英語のストーリーを説明するように、福音書の中の記事を時間順で理解しようとか、年表の中に整理しようとか、考えるべきではない、とするのです。
 
ユダのことについてのみ、それをもう少し検討してみましょう。ユダが悲惨な死に方をしたのは、何もかも神の計画の中での筋書きだと恐れる必要はないと考えます。ユダのように、ペトロなどもイエスを裏切っているには違いないし、トマスのように疑いまくっている者もいます。他の使徒たちも、イエスを捨てて逃げて行ったという意味では同じようなものです。しかしユダは滅び、他の弟子たちは聖霊を与えられ、教会の中の権威となっていきました。ユダは他の弟子たちと決定的に違うところがあったのです。
 
そのころ、イエスを裏切ったユダは、イエスに有罪の判決が下ったのを知って後悔し、銀貨三十枚を祭司長たちや長老たちに返そうとして、「わたしは罪のない人の血を売り渡し、罪を犯しました」と言った。しかし彼らは、「我々の知ったことではない。お前の問題だ」と言った。(マタイ27:3-4)
 
マルコの言葉になにかしら一言加えるか変更するかして、自分の福音書だとしようとしたマタイが、珍しくマルコをそのまま採用していたのが、先の「生まれなかった方が」の26:24でしたが、マタイは上の場面を独自に増やしています。つまりマルコだけでは意味が伝わらないから、このことを付け加えて、ユダについて読者が誤解をしないように、と配慮しているとするのです。
 
つまり、ユダは悔恨の情を有してはいますが、イエスに赦しを求めていないのです。金をもらったユダヤの祭司長などに対して後悔の思いをぶつけ、絶望しているのです。もしもイエスならば、赦したかもしれないような場面で、この人間臭いユダヤの指導者たちは、自分には関係がない、とユダを突き放しました。ユダは、神に赦しを乞うのでなく、罪の問題を人に対してのみぶつけていたのです。
 
これではいけないんだよ。ペトロにしてもその仲間にしても、泣き崩れるなどはしましたが、その時人に赦してもらおうだなどとは考えていなかったのだけれども、ユダは神へ祈ること、神とつながりをもとうとする姿勢がなかったので、助からなかったんだよ。そんなふうなユダのような生き方をしてはいけません。イエスを裏切った行為が死に値したのではありません。他の弟子たちも裏切っているのですから。ただ神に立ち帰ることをしなかった、それは不幸なことです。
 
このように、ユダの死を読者にまず認識させます。読者は必要に応じて、また少し戻ります。イエスを裏切り、しかも悔い改めたり神に立ち帰ったりしなかった者として、ユダは不幸なのです。その不幸は、生まれてそのような神に対して向き合い悔い改めない人生を送ったからです。そして、神に救いを求めることなく、自ら命を断ちました。まるで神を無視して自分の人生を自分で始末したのです。造り主を軽んじてしまったのでした。神と向き合うことをついにしなかったのです。そんな人生は、送らないほうがまだまし。そんなふうな人間にあなたがたはなってはなりません。神に向けて祈り、悔い改めるのです。あなたの人生に、神がコンタクトできないようにしてはいけません。――そんなメッセージが聞こえてくるのです。
 
つまり、物語順に話が展開しているのではなく、必要に応じて縦横に記事を読み、理解していくことが求められていると捉える読み方です。絵画ならば、奥行きがありドラマがあり、写実的で人間の理解に沿ったふうに見える絵画ではなく、キュービズムでもあり、後期のピカソの絵です。頭の反対側にあるパーツを、手前側にも描いてしまうやり方です。もはや写実的秩序はありません。現実にそのとおりの顔の人間がいるわけではありません。しかし、全方向から見たその人間の姿という真実を表していると見ることができます。鑑賞者がまずその口を見たら、その口を味わいます。次に右目を見たら、右目だけを味わいます。もし関係ができれば、口と右目との関係を感じます。このようにして、聖書の記事は、その読者の心が引っかかったところを気にします。そこに自分が登場している、というような関わり方ができれば十分です。そこでイエスから聞いた言葉が、また別のイエスの場面からの言葉とどう関係するか、自分が問われているというように受け止めます。私は、私だけの仕方で、イエスと出会います。きっと、救われた経験のある方は、そのようにして聖書の言葉と出会っているはずです。時間順に流れながら共に旅して弟子たちと同じ順で信仰が分かっていったなどという人は殆どいないでしょう。何かしらどこかで心に引っかかり、心が捉えられ、そしてその思いのままで聖書の他の個所を開いていたら、そこで一層聖書の世界が目の前に開けてきたような感覚をおぼえ、イエスの言葉の意味が自分の中に入ってきた、そのように一人ひとり別々に、福音書の記載順とは無関係に救われていったのだと思うのです。物語の時間順の中に、辿らなければならない理由は何もない。どこからでも、どのようにでも、神の言葉が自分につながってくる。自分が神の前に出され、神の言葉として聞く。こうした営みが可能なのは、物語そのものが時間順に読まなければならないような構成をとっていないからです。もちろんぼんやりとした形で時間的な枠組みはあります。イエスが誕生したり宣教の場に現れたりして、次第に十字架が近づいてくる、といった枠組みはそこにありますが、読者がイエスと出会うのは、どこからでも、どのような順序であっても、構わないわけです。それが福音書という、神と出会うためのフィールドの醍醐味であり、強みではないかと思うのです。
 
以上、何ら学問的ではない、しかしそれなりの熱意をこめた、福音書の理解をお話しさせて戴きました。
 
なお、「生まれなかった方が、その者のためによかった」という考えは、実は現代センセーショナルな声と共に、時代の最先端で検討されている思想となりました。「反出生主義」というその考え方は、ここで説明するにはあまりにえぐいので、控えますけれども、実は私自身はそんなことを知る以前から考えていた枠組みでしたので、いまそれが現れて概観すると、非常に理解しやすいものだと言えます。ペシミズムの極致のような思想ですが、論者によってニュアンスはいろいろ違います。哲学的な思考を要求する論理にはついていけないが、その思想に興味がある、という人は、多分に文学的にそれを扱ったと言える、エミール・シオランという人をお薦めしておきます。ただ、どっぷり浸かると悲観的になりすぎて命が危ないと思うならば、近づかないことが第一ですので、念のため。



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