【聖書の基本】知る

2020年2月9日

この人間より、わたしは知恵がある。なぜなら、この男もわたしも、おそらく善美のことがらは、何も知らないらしいけれども、この男は、知らないのに、何か知っているように思っているが、わたしは、知らないから、そのとおりに、また知らないと思っている。だから、つまりこのちょっとしたことで、わたしのほうが知恵のあることになるらしい。つまりわたしは、知らないことは、知らないと思う、ただそれだけのことで、まさっているらしいのです。(21D)
 
神託により、ソクラテスより知恵のある者はいない、と言われて、ソクラテスはためらいます。自分では知恵のある者なんかではないと自覚していたからです。神は何を言おうとしているのだろうか。ソクラテスは、知恵があると思われている者のうちの一人を訪ねます。それは政界の人でしたが、会って問答をしているうち、人々から知恵のある人物だと思われており、自分でもそう思い込んでいるらしいが、じつはそうではないのだと気づいてきます。そのことを告げると、人々に憎まれるようになった。ソクラテスは、『ソクラテスの弁明』の中でこのように述べて、続けて自分ひとりになった時に考えた、そのことが先ほどの言葉でした。
 
ギリシアの、というより人類の、哲学のスタートとも言える瞬間でした。こうしてヘレニズムの「知」の概念が確立し、後にヘブライズムに由来する「信」あるいはそこから展開したキリスト教の「愛」、これらが西欧文明の礎となり、いまなお世界を牽引する思想の核心となったのでした。
 
しかし、聖書にも「知る」という言葉は大切な意味を伴って登場します。聖書において「知る」という言葉は、いくつかの種類の語があるようですし、細かく調べるとそれなりに意味や用法が異なるはずですが、日本語訳の聖書ではそのニュアンスを訳し分けるというよりも、日本語の範囲でも同じ「知る」をいろいろ使い分けて捉えているということから、基本的に「知る」は「知る」と訳してよいと考えたのではないかと思います。そこでは、どうやらこのギリシア的認識とは異なるタイプの「知る」考えがあるようです。
 
イエスは答えて言われた。「たとえわたしが自分について証しをするとしても、その証しは真実である。自分がどこから来たのか、そしてどこへ行くのか、わたしは知っているからだ。しかし、あなたたちは、わたしがどこから来てどこへ行くのか、知らない。(ヨハネ8:14)
 
ソクラテスではありませんから、「知らない」ほうがよいのだ、などと考える人はいないでしょう。ファリサイ派たちを相手にイエスが話をしている場面だと思われますが、このユダヤ人たちは、イエスの来し方行く末を「知らない」のであり、それは結局罪の内に死ぬ道へと陥っていくことになると告げることになります。
 
彼らが「あなたの父はどこにいるのか」と言うと、イエスはお答えになった。「あなたたちは、わたしもわたしの父も知らない。もし、わたしを知っていたら、わたしの父をも知るはずだ。」(ヨハネ8:19)
 
ユダヤ人たちは、この父が神であることはまだ知らないはずです。イエスのことすら知らないのだから、父なる神ということの意味を知っているはずがないというのです。
 
しかし、本当にその程度のことなのでしょうか。
 
「Snow Man、知ってる?」
「知ってるよ。雪だるまだろう?」
「まさかぁ、何よそれ」
 
どうやらこれじゃ「知っている」ことにはなりませんでした。では今度はどうでしょう。
 
「Snow Man、知ってる?」
「知ってるよ。ジャニーズのアイドルグループだね」
「知ってるの? じゃあ、サインもらってきて」
「え? 知ってるって、そんな間柄じゃないけど……」
 
どうやら、深い知り合いか何かだと勘違いされたようでした。
 
「知っている」ということが、ただ知識として知っているというのと、実際の関係を伴う知り合いであるのと、どちらにも使える言葉であるのがその誤解の背景にありました。もちろん、知るということのうちに私たちはすでに、「知識」と「知恵」との違いを感じているかと思います。クイズに答えられるような意味での「知識」と、問題解決のために考えを施すことのできる「知恵」とは、一般的にもよく知られる使い分けではないかと思います。しかし、先ほどの人間関係を伴う「知る」と、ただ名前だけあるいは一定の知識だけについての「知る」とは、「知識」と「知恵」のように適切に区別する言葉がないように見受けられます。
 
そこへいくと、聖書の世界での「知る」というのは、基本的に、深く人格的な交わりをもつ意味での「知る」であると考えて受け取るべきだと考えられています。
 
知れ、主こそ神であると。
主はわたしたちを造られた。
わたしたちは主のもの、その民
主に養われる羊の群れ。(詩編100:3)
 
主が神であると「知る」ことは、自分たちが主により創造されたという関係、自分たちはその主のもの、主の民であるという関係、主に養われている群れであるという関係、これらをすべて含むものでなければなりません。
 
永遠の命とは、唯一のまことの神であられるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ることです。(ヨハネ17:3)
 
ここの「知る」が、うわべだけの知識でないことは、当然です。永遠の命そのものをつまびらかにするにあたり、イエス・キリストを説明に使うのは分かるとしても、それを「知る」の一言で言い切ってしまうところに、この「知る」の深さと鋭さを感じます。どれほどの痛みをもって、この「知る」という語によって永遠の命を明らかにしようとしたことでしょう。十字架という酷い血の出来事を踏まえなければ、それは「知る」ことができないものであったのです。
 
ソクラテスが悟ったのは、「知っている」という自覚が実は「知らない」だけのことであり、自分は「知らない」というそのことを「知っている」ことのほうが、「知っている」と呼ばれるに相応しいことだという、ひとつ知のレベルを遡るような在り方のお話でありました。このように哲学は、ただ目の前の現象について議論するのでなく、そこから何かしらどこかに遡り、別の次元で物事を見ようとします。また、そのようにして考えるための言葉を探します。ですから、聖書の「知る」とはまただいぶ違う構図になっているわけですが、「人間の言い伝えにすぎない哲学、つまり、むなしいだまし事」(コロサイ2:8)だけを読んで、だから哲学はだましごとの嘘ばかりだ、と単純に考えるようであっては、むしろだまし事にすっかりだまされていることになるでしょう。というのは、コロサイ書の「哲学」が指しているものは、ソクラテスの「無知の知」から始まった「哲学」とは、論理的にも意味が異なるのに、それを同じと勘違いしてしまうことになるからです。聖書を読んで自分が何かしら偉くなった、自分は物知りになった、と思う程度であれば、簡単にソクラテスから、「知らないのに、何か知っているように思っている」だけだと見なされていることになるに違いないのです。
 
ところで、この「知る」にはもっと衝撃的な意味もあります。
 
さて、アダムは妻エバを知った。彼女は身ごもってカインを産み、「わたしは主によって男子を得た」と言った。(創世記4:1)
 
この「知った」は、(こんな表現でいいのかどうか分かりませんが)肉体関係をもったことです。男女のそのような交わりは、深い人格的な交わりにほかならないことを伝えます。最近SNSの一部でこのような話題が席巻していますが、単純に道徳や習慣、制度などでばかり話が進んでいるのがもどかしい気もします。聖書の言葉を根拠にしようとしているようでも、自分の思い込みを正当化するために聖書を利用しているように見えるケースも多々あります。それよりも、いわばイエスを「知る」のと同等の関係で、ひとりの人格たる相手を「知る」ということであることを、根底に置いていてこそ、聖書の命に生きることになるであろう、という点から、もっと議論してもらいたいものだと思うのです。



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