アクティブ・ラーニングと礼拝メッセージ

2020年2月8日

『アクティブ・ラーニングとは何か』(渡部淳・岩波新書)
 
2020年1月発行の、岩波新書。もうさすがに「アクティブ・ラーニング」という名前を聞いたことがない方は少なくなったことと思いますが、入試制度だけでなく、当然授業内容も、そして授業形式も、大きな変革がなされています。極端に言うと、先生が教えず、生徒が調べ学び教え合い、発表する、そんなふうなイメージの授業です。すでに始まっています。ニュースで大学入試の英語の不手際を批判している程度の認識しかないおとなは、確実に時代に置いていかれてしまいます。
 
そこで、教育を専門としない人々のために、できるだけ分かりやすくアクティブ・ラーニングについてお知らせしよう、というのが本書のモチーフでした。現場の教師向けの本はもう何年も前からたくさん出ていますが、一般の人が知りたいことについて教えてくれる本は、案外少なかったと思います。岩波新書というブランドだからではありませんが、新書形式で、写真や図版を極力省いたうえでも、できるだけ効果的にアクティブ・ラーニングについて教えてくれるものが出来上がったと思います。
 
さて、だから教育についてお話ししよう、というのではありません。とにかく商売柄買って読み始めた私でしたが、最初のほうですっかり夢中になってしまいました。いえ、アクティブ・ラーニングは自身行わせる立場なので、むしろ本書後半の具体的な授業風景などは、既知のことだったのですが、最初のアクティブ・ラーニングの意義についての説明が、胸を揺すぶったのです。
 
それは、アクティブ・ラーニングが「社会のあり方にまで影響を及ぼす」という紹介のされ方があったところからです。それは個々人の能力開発だけでなく、次世代の市民形成にも連動していることになります。この視点を与えた後、本文はそもそも授業風景の歴史がどうだったか辿ります。今のおとなが馴染んだ、一斉授業式の座学(生徒がじっと座って先生の話を聞くことを以て授業とすること)がいかにも当たり前であるかのように捉えているかと思いますが、これは19世紀のアメリカから伝わったものであるらしいとのこと。明治期に西洋の様々な制度を学び取り入れたその時の授業風景がこれでいるとのことなのです。いまもアジア諸国ではこの傾向が強く残っているのですが、欧米ではそのような形式での授業はまずないとのことで、日本はいわば制度を輸入した時の姿をお手本として、そのままずっと継承してきたというのが実情のようです。
 
私はここで目が覚めました。教会の礼拝形式と同じじゃないか、と。明治期に入ってきたプロテスタント教会の当時の礼拝形式が、いまもなお多くの教会で律儀にそのまま踏襲され、伝統的形式となっています。その点多くの教会が驚くほど保守的で、プロテスタント教会がまるでカトリックのように、伝統を大切にしている様子が見て取れます。もう礼拝とくればそれしか考えられないような擦り込みがなされていると思うのですが、それはプロテスタントが伝わった当時の欧米の形式なのであって、いまその礼拝を欧米の人が知ると、ひどくクラシカルなものに感じることになるでしょう。これは宣教と教育のために日本に来ていたある方がはっきりと言ったことでもありますが、まさにそうだろうと思います。
 
そこで、形式張らずに、自由な雰囲気の礼拝も、少しずつ試されてはいます。現在のアメリカでの礼拝の様子のことが知られてくると、とくに若い人のために、それが取り入れられている、という背景があるのだろうと思います。しかし、私はさらにそれをもう一歩進めることができるのではないかと考えました。そうです。アクティブ・サービスです。能動的に、積極的に学んでいく、というのがアクティブ・ラーニングでしたが、サービスなる礼拝も、もっとアクティブにできる可能性がないか、と思ったのです。
 
すでに、説教を聞いてその分かち合いを教会学校という名の下に礼拝の中でするような教会があります。私もその経験があります。礼拝中ではなくても、礼拝後に集まってその日の礼拝メッセージの内容について語り合う場を設けているところも少なくないようです。これはなかなかアクティブです。それはそれでよいのですが、さらに説教(この響きがよろしくないことはともかくとして)そのものが、この分かち合いをさせるように指示したり、会衆の声を集めながら展開する場であってもそれはよいのではないか、という気がしてきたのです。
 
礼拝説教のときに、退屈なので眠くなる、他のことを考える、舟を漕ぐ……そんな経験はありませんか。礼拝が終わったらあの人と楽しく話をしようとか、ランチをこしらえるのを頑張るぞとか、教会という場で自分が活動して信頼できる仲間とわいわいやるのを楽しみにしているのはよいけれど、説教はその前提として仕方なくお付き合いしなければならないこと、極端に言えば修行の一部である、というような感覚の人は、私はきっといると思います。そこまではいかなくても、まあ聞いて損はない「いい話」として聞く程度で、「心が洗われました」という感想を毎回もつだけで終わる、というふうではありませんでしょうか。
 
礼拝メッセージを聞いて、牧師に質問をしたことがあるでしょうか。せめて、あの箇所がこのようによかった、という感想を牧師に告げたことはどうでしょうか。私は、多くの牧師がそれを本当は期待していると思っています。「いいお話でした」とだけ言ってにこにことしている信徒を、決して好ましくは捉えていない、と。できるだけ具体的に、説教のここがどうだった、あれはこんな意味なのか、自分はこのような意味に受け止めたがどうか、そんな意見をぶつけることが失礼であるかのように考えている人がいたら、違うと思います。もちろん、難癖をつけてくるというのは論外です。しかし、適切な批判は牧師を生かし、高めます。語ったほうでも気づかなかったことが、聞く側で受け止められていた、聞く者に変化を与えていた、という意外なことを知るのは、もう神を崇めるよりほかなく、神の出来事が自分の語りを通じて実現したことはハレルヤだ、と考えるのではありますまいか。
 
もちろん、多くの信徒が礼拝後代わる代わる牧師のところに来てそれぞれがこのようなことを言い始めたら、礼拝後の時間がそれだけで全部潰れかねません。それで、礼拝のメッセージの中でこれが少しでもできたら、と思うわけです。
 
福音書をそのような目で見ると、気づかされることがあります。山上の説教のように語録を並べたものは別として、イエスが何かを教えたのは、しばしば弟子たちが質問をしたところから始まります。また、イエスが弟子たちに何か質問をして答えさせ、そこから教えが始まります。いわばアクティブ・ラーニングの要領で、イエスは弟子たちに問いかけながら、そして考えさせながら、教えを進めているのです。そしてパウロが預言と異言について説く箇所では、信徒が互いに説き明かしさえしていく様子が描かれています。そこに入ってきた外部の人が心を打たれるだろう、というようなことまで述べています。これは牧師が一方的に長々と話をして皆がじっと聞いている、という様子には思えません。すでにこうした形で聖書の言葉を理解し合おうとする試みがあったのです。
 
牧師のひとまとまりの説教を、何も否定するつもりはありません。教育だって、すべての授業がアクティブ・ラーニングになってしまっているわけではありません。ただ、それを一部分取り入れているというのが、この技法の効果的な使い方だということになります。パウロの説教を青年が聞きつつうとうとして窓から転落して死んだと思われた、といった記事も使徒言行録にはありました。成功したかどうかは別として、パウロは異邦人の広場で、あるいは捕らわれた状態で、まとまった説教もしています。座学もまた有効に働くことは明らかです。しかしその上で、アクティブに自ら参与する機会、自分も霊の動かすままに語り始めてよいような場とそこでの信仰と霊の交わりというものが、これからの時代の礼拝の中で、始められるのではないか、というふうに思えるのです。それは以前から感じていたことでしたが、このアクティブ・ラーニングという教育のための本の中で、触発されてこのように飛び出してきたということになります。
 
しかし、学校の授業はさらに変わります。数年後には、生徒各自にタブレット(パソコン)が配付されて、問題に対する生徒の解答が、教師のタブレットにデータとして一瞬にして集められ、統計的手法もとられて理解度が直ちに判明するようになります。教師は必要なところだけ解説をしたりアドバイスを施したりするのです。教会の会議でも、日時を決めて顔を合わせてから議題を提示し、どうしたもんでしょうねぇと思案してアイディアを出す、こんな旧態依然のことをしていては、時間がいくらあっても足りません。たとえばグループLINEを使うだけで、会議の時間は恐らく十分の一以下に短くなるだろうと思うのですが、手近なツールを使おうとする教会の話は聞いたことがありません。今回取り上げた礼拝メッセージでも、これはやや不謹慎な描写であるかもしれませんが、メッセージについての反応がタブレットなりスマホなりで即座に説教者に集められるとすると、面白いことにならないでしょうか。「さっきの意味何?」「聞き取れなかったよぉ」「それはこうこうこういうことなんだよ」などの会話が説教中にも飛び交い、瞬時にしてフィードバックされることから、その場で必要に応じて説教者が説明を加えるといったことも可能になるでしょう。「眠くなった」とか「もう少し短くしてよ」とかいう声も聞こえてくると、語る方は焦るでしょうか。でも「いいね!」が集まると、うんと励みになるかもしれませんね。


※『アクティブ・ラーニングとは何か』の結論として、「アクティブ・ラーニングと民主主義」という節が終わりにつくられ、「一人ひとりの市民が当事者意識をもち、自分事として教育と向き合うことがサポートにつながっていく」(p187)ということが、次世代の市民を形成し、学校と市民社会とをつないでいくポイントが挙げられています。これは、戦後まもなく文部省著という形で発行された『民主主義』が唱えていた新しい政治の理想に重なる観点だと思います。自分が当事者だという意識をもつ、それが民主主義なのだと力説していたからです。もちろん信仰においてこの意識が欠けているというのは、もはや信仰でも何でもないことになるので論外ですが、政治にしろ教育にしろ、当事者意識ということは、やはりあらゆる問題に関わる姿勢として、基本なのだということを痛感します。



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