【メッセージ】特別な関係

2020年2月2日

(ヨハネ7:32-44)

「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる。」(ヨハネ7:37-38)
 
教会に、電車や地下鉄で来たとします。家を出ます。マンションなので、エレベータを出ると、誰か名前も知らないけど、マンションの住人がいました。「おはようございます」との挨拶が交わされます。そうだ、ご近所さんと、挨拶、していますか。恥ずかしいか、挨拶する必要がないと思うか、その辺りの感情やポリシーはさておき、挨拶はしてくださいね。挨拶は、平和のサインです。自分はあなたに危害を与えない、ということを互いに示し合う機会ですから、平和を乱さないようにしましょうね。とくに住人であるならば、日常またいつでも顔を合わせる可能性が高いわけです。あいつは変な奴だという印象をもたれるのは、よろしくありません。
 
さて、駅までの道で、何人かの人とすれ違います。こちらは知らない人ですし、いちいち挨拶していると、ちょっとおかしいですね。この場合は、平和のサインを示さなくても、一応、互いに相手は何も襲ってこない、という信頼関係の中で社会生活をしているわけです。住人と違って、互いに一度きりのすれ違いであるので、その場さえ乗り切ればそうそう気になる相手ではありません。
 
駅の改札には、昔は駅員さんがいて、買った切符を差し出すと、決まった形の型が抜ける、ハサミを入れていたものです。いまは自動販売機のような応対をされますね。でもその横のほうの駅員室から、「ありがとうございます」のような声を駅員がかけることはあります。それに応答するのもなんだか変ですが、私は頭くらいは下げます。見慣れた駅員さんなんですが、にこやかに互いに一瞬を刻むと、それなりに気持ちがいいものです。
 
電車の中には、人がどのくらいいたでしょう。東京あたりと違うので、よほどのラッシュアワーでない限り、体が宙に浮くほどぎゅうぎゅうに押されるということもないでしょう。別段誰にも関心をもつこともなく、ひたすらスマホを覗いてせわしなく指を動かしている人ばかりで、ここで誰かが死んだとしても、世界はなんの変化もなく、スマホばかり皆見ているんじゃないかとすら思えるほどです。時に、お喋りの声がうるさいなと思ったり、将来これは難聴間違いなしと賭けてもいいくらいに音漏れのするイヤホンの人に迷惑だと呟いてみたりしながらも、その人の名前も知るはずがなく、どちらかが途中で降りればその人との関係ももうこの世では二度とないだろうと思える、そんな間柄で通りすぎてしまうことでしょう。中には、毎日同じ時刻に電車に乗れば、度々見かける人という存在に気づくこともあります。恋心を懐く云々の話ではなく、ただ、ああまたあの人いるんだな、と思うだけの存在。しかし、それ以上の意味を自分にとってその人がもつわけではないということです。その人が破産しようが、病気になろうが、自分は痛くも痒くも感じない、そんな関係の中にある人たちがいるのです。
 
駅を降りて教会へ歩き始めます。コンビニがありました。そうだ、愛用のガムが切れていたんだ。買っとかなきゃ。レジに持っていくと、店員とそれなりの応対をします。いくらいくらです。レジ袋はどうしますか。ありがとうございました。そんなマニュアル的な言葉を聞きながら、自分はひたすら無言でおつりだけもらって、自動ドアが開いてコンビニを出る。
 
小説のように描写を詳しくしてみましたが、この調子で実況中継をすると、それだけでこの時間が終わってしまいそうです。電車という密室の中で一定の時間だけ一緒にいるあの乗客の数々を除けば、他の人たちは、それなりに会話をしたり、言葉をかけられたりしていて、なんらかのコミュニケーション関係にはありました。しかし、互いに名前も知らないような、無関係な相手ではありました。駅員やコンビニの店員は、名札が付いていたかもしれませんが、殆ど気にはしませんでした。
 
教会に来れば、何度も来ている人であれば、何人か名前の知った人がいます。少なくとも顔は知っているというレベルでしょう。仲の良い人もいるかもしれないし、ちょっと苦手な人がいるかもしれません。初めてこの教会に来たのであれば、一緒に来た友だちといろいろお話しして始まるのを待っていたかもしれません。その友だちは、あなたのことをよく理解してくれていて、心も通じ合う、一番頼れる相手です。教会にいる人でも、あの人が牧師だと――いや、ぱっと見では誰が牧師であるのか、初めての方には謎であっただろうと思いますが――分かれば、ちょっと信頼していいかな、といった感想は持つでしょう(?)。教会のほかの人たちも、まぁ優しそうに見えるね、なんてその友だちと話したかもしれませんね。
 
それではようやく聖書の中の世界に目を向けてみましょう。イエスというこの人物が出てきます。不思議な業を見せ、また聖書に関して立派な演説をしていました。イスラエルの国は、このころローマ帝国に組み入れられて、自由がありませんでした。しかしイスラエルは、古い歴史をもっていて、千年ほど前は、小さいけれども周辺諸国より強く、金銀財宝もたくさんありました。しかしその後、大帝国に攻められて滅ぼされてしまいました。しかしイスラエルの中には神からのメッセージを聞く預言者という人たちが幾人も現れて、いつかイスラエルを復興することになる、と告げました。その時の王はメシアといいます。新約聖書を書いたギリシア語でいうとキリストです。そこで、このイエスこそが、皆が待ち焦がれていたキリストではないか、という噂が飛び交っていました。人々は、本当にこのイエスがキリストであるのかどうか、じらされるような思いもありました。但し、イエスの話すことがなんだか難しくなってきて、ただの妄想をしているんじゃないか、というふうにすら思われるようになってきて、不穏な空気が流れていました。
 
大勢の人々は、期待半分疑惑半分というところだったでしょうか。しかし、時の権力者サイドからすると、イエスが胡散臭くてたまりません。こんな奴がいるから人々は惑わされている、闇に葬ってしまいたいと思うようになりました。祭司長たちというのは、イスラエルの宗教の祭り担当者であり、ファリサイ派というのは、道徳の先生たちみたいなものです。自分たちは立派な人間だ、という姿勢から、弱い立場の人々を軽蔑して見下していましたから、実はイエスはこうした人々に虐げられる弱い人たちや外国人などを救い集めようともしていました。この祭司長やファリサイ派という人たちは、イエスを捕まえてしまおうと画策します。役人が来て、イエスを捕まえようとしましたら、イエスは奇妙なことを言いました。
 
「今しばらく、わたしはあなたたちと共にいる。それから、自分をお遣わしになった方のもとへ帰る。あなたたちは、わたしを捜しても、見つけることがない。わたしのいる所に、あなたたちは来ることができない。」(ヨハネ7:33-34)
 
これを聞いたユダヤ人、つまりイスラエルの中でもいまエルサレムを中心とした地域に住んでいた人々は、この言葉の意味が分からない様子だったということが記録されています。ユダヤ人というのは、この福音書ではたいていよくない意味で使われています。イエスを理解しない、つまりイエスを信じない者たちです。この後イエスは大声で不思議なことを言い、ますます人々は、イエスがキリストであるのかどうか、いろいろな意見をもつようになったと福音書は記しています。
 
人々が引っかかったイエスの発言は、次の部分でした。この部分が二度繰り返されることによって、全体としてここが非常に強調されています。
 
『あなたたちは、わたしを捜しても、見つけることがない。わたしのいる所に、あなたたちは来ることができない』と彼は言ったが、その言葉はどういう意味なのか。(ヨハネ7:36)
 
きっと、神学的には深い意味があるのでしょう。父なる神にイエスが遣わされた神のひとり子なのですが、イエスはこの地上に現れ、やがてまた神の許に帰る。だから、そのときになってユダヤ人たちがイエスを捕まえようとして探しに来ても、イエスを見つけることができない。イエスのいる神の許にあなたがたは来ることができないのだ。
 
なんと怖い宣言であるのでしょう。イエスを殺そうと狙ったり、こいつはメシアなんかじゃないぜと言い張るような者は、神の国に入れない、と言っているようなものです。イエスを信じないのはもちろん、イエスに敵対する者たちは、神の敵でもあるということになるわけです。
 
「捜す」も「見つける」もはっきりと動詞の未来形が使われるので、それは確かにやがてイエスの十字架や復活、とくにその復活のイエスを捜しても、という意味にとってよいだろうし、少なくとも、いま目の前にいるイエスを見つけられない、などと言っているわけではありません。それに、いま目の前にいるイエスを見つけられない、というのはあまりに奇妙なことです。けれども、この言葉が、時を経てわたしたちに向けて語られたとしたら、奇妙だなどと言っている場合ではなくなります。2000年ほど後の日本という国の福岡でこの聖書の箇所を開いて神を礼拝している者たちよ、君たちはイエスを探すだろう。「そして」見つけはしないだろう。新共同訳でそのまま引けば「あなたたちは、わたしを捜しても、見つけることがない」というのです。
 
ふだんから教会に来ている人は、イエスのことが好きだろうと思います。祈るときに、イエスさまの名前を通して祈るという約束さえあります。神と呼ぶとあまりに偉大で遠い存在のようにも見えますから、イメージしやすいイエスの姿を思い浮かべ、イエスに心を向けることで、神にちゃんとその願いや思いが届く、という背景があります。さあ、祈ろう。イエスに祈れば神に祈ることと同じだ。さあ、イエスさま――とイエスの姿を探すのですが、どういうわけかイエスを見つけることがありません。イエスって、誰だった。どんな方だったか。イエスとは誰。
 
あなたにとり、イエスはどのような方ですか。教会にふだん来ているような人の場合、時々見かけるマンションの住人のようであるかもしれません。確かに挨拶もする。にこにこ接するかもしれません。しかし、その方の名前も知らなかったりするし、知っていたとしても、その人の生活について何かを知っているというわけでもないような、そんな程度の知り合いである、というように想像するとぴったり来ることがあるでしょうか。
 
駅員さんやコンビニの店員さんのように、決まりきったパターンの言葉を交わす相手であるのではないか、と感じた人はいないでしょうか。それなりに対話をしているようではあるのです。それなりに祈っているのだとしても、いつも決まりきった言葉でただ祈っているみたいなもので、一定の応答をしているかのようで、実はただ事務的にしているに過ぎない、というようなイメージです。
 
イエス・キリストについて殆ど何も知らないというような方のことをいま悪く言うつもりはないのですが、イエスというのはどこの誰で、何も知らずにすれ違っているような通行人程度の存在でしかない、というケースもあろうかと思います。キリスト教の学校に行っているからとりあえず何度か話は聞くわ、という程度のお付き合いならば、もしかすると定時にたまたま同じ電車に乗っているのを見かけるその人のようなものであるかもしれません。しかしいずれにしても、その人と自分とは関係がない、という言葉で一括りされてよいような間柄だということになります。イエスと自分との関係など、とくにない、と思う場合です。
 
「わたしのいる所に、あなたたちは来ることができない」というイエスの言葉にも、ユダヤ人たちは注目していました。これは未来系ではありません。未来に限らず、いつでも成立するような事柄のように書かれてあります。ならば当然いまの私たちの時代にも当てはまることになります。イエスのいるところに来ることはできない。街ですれ違うだけの人の家に行くことはないでしょう。同じマンションの人であれば、その可能性は他よりも大きくなるとは思われますが、それができるためには、その人と仲良くならなければなりません。その人としっかり向き合って話をし、信頼関係を結び、機会を得てその方の家を訪ねるというふうでなければならないでしょう。イエスのいる所に行くためには、イエスの名前を知り、住まいを知り、交わりを得て、信頼関係を築き、約束をして訪ねることになるでしょう。これを今日、「イエスど出会う」という呼び方をしてみることにします。すれ違う人とは「出会う」などとは言いません。駅員さんや店員さんと「出会う」とも言いません。もちろん電車の乗客と「出会う」こともないでしょう。「出会う」というためには、個人的に知り合うことが求められます。出会って友だちになるというところまで含めると、信頼し合える間柄になる必要があります。そしてもちろん、「出会う」ことができていたら、探しても見つからないという心配はおそらくなくなるでしょう。連絡が取り合えますし、都合を尋ね合うこともできるでしょうから。そういう関係に、なれるでしょうから。
 
クリスチャンとは、イエスとの特別な関係の中にある人のことをいいます。どのように特別か、それを互いにシェアするために、クリスチャンは毎週教会に集まります。あるいは、教会からのメッセージを共に聴きます。クリスチャンにとり、イエスは無名の通行人ではありません。顔なじみの駅員とも違うし、それなりにお決まりの会話だけする店員とも違います。毎日顔を見るなあと思う程度の電車の乗客でもありません。イエスを知っています。知るというのは、知識があるという意味ではなくて、まさに「出会う」ことがあったという関係の中にあるという意味です。私たちも「知り合い」というとき、それに近い意味で使っているだろうと思います。そして、イエスと特別な信頼関係を共に結んでいます。イエスが自分を救った、という自覚や、イエスが自分といつも共にいる、という安心感など、その具体的な出来事や温度差は、人様々かもしれませんが、とにかくイエスと「出会う」体験をして、イエスとは他人でなくなったのであり、信じ合う関係を結んだということになります。
 
そうではなかったのが、この福音書がユダヤ人と呼んでいた人々です。イエスと特別な関係を結んだならば、見つけることがない、などとはもう言われません。神は「あなたと共にいる」と聖書の随所で告げている方です。そのイエスのところに、来ることも、もちろんできるに違いありません。この魅力的なイエスと、深い関係を結んでいなかったのではないか、最近心が違う方を向いていた、と思うクリスチャンがいたかもしれません。これまでイエスの名前くらいは知っていたけどよく知らないと思った人がいたかもしれません。通行人程度の間柄だとしか思えなかったという人がいたかもしれません。この会堂には、いろいろなタイプの人がいたことだろうと思います。聖書はちょっとドキリとする形で、このユダヤ人が強調していたように、見つけることがなく来ることができないというようなことがないかどうか、テストしていたように、受け止めてみました。問われたならば、それに対して私たちはそれぞれが、自分の問題として、応えようではありませんか。
 
そのとき、イエスは立ち上がり、大声でこう言ってくださるはずです。
 
「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる。」(ヨハネ7:37-38)



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