街の書店

2020年2月2日

街の書店にとり今は未曾有の危機の時代であろうかと思います。事実私は、書店に行こうと思えば、車か電車を使わないと不可能になりました。また、書店に入ったとしても、目指す本は期待できません。雑誌はそこにありますが、コンビニでも多く賄えます。話題の本や文庫なら、多少手に入りますのと、一部の月刊誌などはまだ頼れるかもしれませんが、私の場合の需要は、大型書店でないと難しくなります。そういうわけで、申し訳ないのですが、益々街の書店に足を運ぶことがなくなりました。
 
京都にいるとき、存在感のある小さな書店というのがありました。偏った分野の集め方をしている書店ですが、そこの店主に相談すれば、その分野の本についてなら何でも答えてくれました。専門知識は半端なく、頼ることができました。古書店も同様で、古い本のにおいが染みついた店内に山と積まれた本の間から、的確なものを探し出してくれたものでした。
 
いま、書店員にそうした知識を求めることは難しくなっています。大きな書店には、検索機があり、その店内にいまあるかどうか、取り寄せ可能かどうか、そうしたことを効率よく調べることができるようになっています。確かにある種便利ですが、その本の値打ちというか、意義については、機会に訪ねても仕方がありません。こちらで予め調べておく必要があります。ネットで評判を調べると参考になることはありますが、一部具体的にこれはどうだと記してくれている評者はありがたいにしても、単に感情的に、あるいは自分が無知であるがゆえに、本をけなしているような声も少なからずあり、見ていても混乱する場合が多々あります。やはり一度自分の手で開いてみたいという思いもあるわけで、街へ出たときに書店を訪ねることには意味があると言えます。但し、新刊でなければその棚の前でネット検索をして、中古でぐっと安く手に入ることが分かると、そちらのコースを選択してしまいますから、書店からすれば私のような者はけしからん客だということになるでしょう。手に取るという程度でなく立ち読み、また座り読みされることで、本自体が傷んでしまうデメリットも考えると、書店経営は本当に大変な時を迎えているのだと同情します。さらに売れ筋のコミックスなどは万引きが絶えないとも言われ、本当にお気の毒です。いや、私は万引きはしないにしても、買わずに去っていくということでは、苦しめている張本人でもあるわけですが。
 
さらに、電子書籍の問題。最初にsonyのReaderが出たころには、電子書籍が猛威を揮うなどありえない、と小馬鹿にされていました。私はあたらしもの好きですから早速導入して便利さを味わっておりましたが、処理速度が遅いのと、最初は直接ダウンロードができずパソコン経由であったので、確かに一般の人たちは近づかなかったのではないかと思います。それが、kindleになると、これらの難点が一挙に解決され、画質もよくなり、何よりも価格がダウンしたので、拡がり方が増しました。さらにスマホが普及していくと、電子書籍が当たり前と言ってよいほどの感覚に移っていきます。コミックスは特にそうで、中には無料で読めるというような違法サイトも立ち上がり、書店ばかりでなく、作家にも打撃を与えました。違法ではないにせよ、定額契約で読み放題というシステムもあり、こうなると街の書店の強みの雑誌やコミックスも全滅の勢いを帯びてきます。
 
それでも、書店には何かの落ち着きや惹かれるものがある、それも真実。書店にいるとリラックスしてトイレに行きたくなるのは何故か、が話題になったこともありました。「青○ま○こ現象」(ちょっと伏せてみた)と聞いて分かる方は、けっこうベテランでしょうね。
 
イノベーションというか、書店も新たなスタイルを模索していると思われ、スタバとのコラボなどいま広まっていますし、コーヒーを飲みながら、買わずとも座り読みができるという、とんでもないルールも普通になりつつあります。イベントを企画して、リンクさせるというものや、雑貨とどちらが本筋なのだと思わせるくらいに本が並立している売り方も見られます。何にしても、変化させていかないと、つまり自ら変わっていかないと、やっていられないということなのでしょう。
 
福岡の中央、けやき通りにある「ブックスキューブリック」という13坪の書店、通りがかったことがあります。中には入りませんでしたが、入りたくなる雰囲気を醸し出している書店だと感じていましたら、後に記事になっていました。なかなかよいお話ですのでご紹介しておきますね。このように経営者の顔が見えてくるという記事は、うれしいものです。「ブックオカ」を始めたのもこの方なのですね。
 
私の言いたいことはお分かりでしょう。教会もこうした方々から学ぶ必要がきっとあるということです。



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