【メッセージ】山頂から見えるもの

2020年1月26日

(ヨハネ6:34-51)

「これはヨセフの息子のイエスではないか。我々はその父も母も知っている。どうして今、『わたしは天から降って来た』などと言うのか。」(ヨハネ6:42)
 
この方が王になったら、食べ物に困らないぞ。五千人にパンを分け与えたことで、人々はイエスを追いかけます。イエスの拠点カファルナウムまで押し寄せると、パンを食べて喜んだからもっとそれが欲しくてやってきただけだ、とイエスは指摘します。そして「信じること」をしきりに強調します。そこに永遠の命が与えられるのだから、と。これはヨハネの福音書が最初からずっと主張してきたことでした。
 
では、そのパンをいつもください、と群衆は求めます。いつも……そう、やはり食事のことしか頭にはないのです。即物的な恵みを私たちも神に求めますが、それが悪いとは言わないまでも、イエスが求めよという本質的なところを見る目をもたないと、ちぐはぐな応答になってしまいます。
 
イエスははっきりと呈示します。「わたしが命のパンである」(6:35)と。このとき「パン」と言っているのは、必ずしもただのパンではないと思われます。日本でも「ごはん」という語、あるいは「飯」でもいいのですが、これは米の食事を表すと共に、「ごはんたべた?」というように、食事一般を示す言葉でもあります。でも教会では、実質「パン」を手にして、そこにイエス・キリストを覚えることをしています。それはそれでよいと思います。但し、ここでイエスは続いて「わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない」と言っています。喉が「渇かない」とも言っているので、イエスはやはり飲食を含んで、「命のパン」と口にしているものと理解してみたいと思います。
 
さて、この聖書の箇所ですが、なんだか話がもたもたとしているような印象をもちませんか。自分が命のパンだと言った後、群衆へ向けていろいろ述べた後、また同じようなことばかり言いながら、しばらく立って再び「わたしは命のパンである」(6:48)と告げるのです。くどいというか、話の展開が見られません。これは、説明文で最初と最後にまとめを設ける、「双括式」の形式をとっているということなのでしょうか。
 
ユダヤの文学には、しばしば囲い込む形が取られます。ABCDCBAのような形です。二つのAは必ずしも同じ語でなくても構いません。たとえば最初のAが「入ってきた」というのに対して、最後のAが「出て行った」でもよいのです。何かしらの対応関係が見られるということです。マルコの福音書には、かなり長い場面であっても、きれいにこのように説明できるものがいくつかあります。イスラエルの灯を置くメノラー(燭台)のような構造だ、とも言われます。こじつけるようにそうなっている、などと言ってしまう必要はないのですが、このまとまりの両側から、山に登るような気持ちになって眺めてみましょう。但し、このヨハネの福音書の箇所も、どこからどこまでをひとまとまりとするかによって考えは変わってきます。いま気になった「命のパンである」という繰り返しがいくらか離れていることから、この両端から、次第に内側に迫って確認していくことにしましょう。
 
かの群衆は「わたしを見ているのに、信じない」(6:36)と前半でイエスは厳しい言葉を突きつけました。後半では、「神のもとから来た者だけが父を見た」(6:46)と言い、「信じる者は永遠の命を得ている」(6:47)と言いました。
 
「父がわたしにお与えになる人は皆、わたしのところに来る」(6:37)と前半でイエスは言っていましたが、後半では、「父から聞いて学んだ者は皆、わたしのもとに来る」(6:45)と言っています。その内側では、そのように父がイエスに与えた人を「終わりの日に復活させる」(6:39)というのが父の御心であるとしていましたが、後半でも、父が引き寄せてイエスのもとへ来た人を「終わりの日に復活させる」(6:44)と言っています。
 
その父の御心とは「子を見て信じる者が永遠の命を得ること」(6:40)だと言いました。先にも挙げたように、後半では「信じる者は永遠の命を得ている」(6:47)と言っておりますので、永遠の命はやはり大きなテーマであったと言えるでしょう。同じ御心が、父がイエスに与えた人を「一人も失わないで、終わりの日に復活させることである」(6:39)と宣言した言葉を聞くと、どうしても私たちは思い起こします。小聖書とも呼ばれる、聖書のエッセンスを伝える聖書の言葉です。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」(3:16)を受け継いで、「一人も失わないで」というフレーズがあることは確実だと思われます。信じるということは、間違いなく滅びないこと、永遠の命を得ることであると強調しているのです。
 
さあ、迫ってきた対応の感覚が狭くなりました。だんだん山頂が見えてきました。ユダヤ人の群衆たちは、このイエスの怪しい言動に、「イエスのことでつぶやき始め」(6:41)たとしますが、後ろから遡ってきたところでは、「イエスは答えて言われた。つぶやき合うのはやめなさい」と命じています。そしていよいよ中心に一節だけが残ることとなりました。それは、ユダヤ人たちがつぶやいた内容です。
 
先ほどひとつのモデルとしてABCDCBAという形を考えました。構成は奇数ですので、ちょうど中央に位置する部分があります。この場合はDです。これは山で言えば山頂にあたります。ユダヤ人たちが「つぶやいた」内容の言葉がそこにあります。
 
「これはヨセフの息子のイエスではないか。我々はその父も母も知っている。どうして今、『わたしは天から降って来た』などと言うのか。」(6:42)
 
通例、このようにはさまれたまとまりにおいては、山頂たるべく中央部分に、その場面のクライマックスとも言える重要部分が置かれていることになっています。何らか、注目すべき主題なり主張なりがそこにある、と考えられています。ややオーバーに言えば、この場面のクライマックスがあるのではないか、と期待します。
 
ところが、がっかりです。山の両側の入口には「命のパン」という、謎めいた看板があり、この山の上はどんなふうだろうと期待して両側から登ってきたその果ての山頂には、イエスに敵対する、あるいは少なくともイエスに無理解な、ユダヤ人たちの言葉があっただけなのです。これは対応する言葉がないから、確かに中央に位置するところでしょう。イエスに対する、いわば罵声が、私たちの期待したてっぺんにはためく旗だったのです。  
「これはヨセフの息子のイエスではないか。我々はその父も母も知っている。どうして今、『わたしは天から降って来た』などと言うのか。」(6:42)
 
イエスは、「天から降って来た」(6:38,41,50,51)ような存在ですない。あの村のヨセフの息子に過ぎないではないか。何か神の遣いのような顔をして、偉そうなことを言っているが、しょせん誰とも違わない人間なのだ。命のパンをください、などとパンをくれることを期待してはみたが、なんだか神がかりのような言い方をして、復活だの父なる神の子だのと言っているが、おまえの父も母も知っているぞ。ただの人間じゃないか。空理空論を振りまいて、必要以上の権威をもとうと妄想などしないがいい。おまえはパンさえくれたらいいんだ。
 
この罵声を肉付けすると、こんなふうな文句になるのではないか、と想像してみました。実際、そうだったのではないかと思うのです。パンを期待してはるばる湖の向こうから、舟で先に行ってしまったイエスや弟子を追いかけて苦労して来たのに、パンをもう出すようなこともしないで、口先だけの「命のパン」などと行って、終わりの日の復活だの信じれば永遠の命があるだのと、ちっとも現実味のないことばかり言う。特に「天から降ってきた」などと言うのは、妄想の極致ではないか、と不満をぶちまけるのです。
 
クリスチャンであれば、これは暴言に聞こえるだろうと思います。イエスさまのことを何だと言うのか。あるいは、彼らを気の毒に思うかもしれません。イエスのことを理解できないのだ。永遠の命を戴けるチャンスだったのに、もったいないことを。それとも、これがメインでしょうか。自分たちは彼らと違って、イエスのことを信じているぞ。命のパンを戴いている。主の晩餐式にも出席しているし、命のパンを分かち合い、教会に毎週来ている。いや、意地悪そうな言い方に聞こえたらすみません。でも多かれ少なかれ、このような感情を懐いているのではないかと思うのです。違いますでしょうか。
 
そうです。説教のメッセージであっても、そのように語る人がいるかもしれません。皆さんは、このユダヤ人とは違います。イエスを信じる者として、永遠の命を受けましょう、みたいにうまくまとめて、会衆を安心させるのです。しかしいま私は、めいっぱい皆さんを不安にさせています。この聖書の箇所のトップには、イエスの悪口だけが並んでいたではないか、と。
 
さて。もし、これが山を構成しているとしたら、実は最後の山裾が、やや長く飛び出ていることに、お気づきの方もいらしただろうと思います。「わたしは命のパンである」(6:35,48)が両端と言ったのは、私の嘘でした。後半のこのフレーズには、まだ熱の入った三つの節が並んでいます。
 
あなたたちの先祖は荒れ野でマンナを食べたが、死んでしまった。しかし、これは、天から降って来たパンであり、これを食べる者は死なない。わたしは、天から降って来た生きたパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる。わたしが与えるパンとは、世を生かすためのわたしの肉のことである。」(6:49-51)
 
終わりの方に伸びているこれらは、恐らくここまでの手際よいまとめであるように見えます。イエスは山を登り、その登山道に対応した降り道をやってきて裾に戻った後、この肉体を支えるだけの現実のパンでは死は免れないけれども、天から降って来たパンとしてのイエスを食べる者は死なない。イエスを食べるならば永遠に生きる。このイエスの肉は、パンとして、この世を、信じる者を必ず生かすものである、そのような謎めいた言葉を響かせるのです。
 
そしてこの後、今度はこのイエスが自分の肉を食べろとか血を飲めとかいう言葉にユダヤ人が引っかかり、弟子たる者までもが去っていくという状況が説明されるようになります。イエスは信じない者たちが離れるのもやむなしと見ていたことも明らかにしますが、この訳の分からない言葉によって、いわば大炎上してしまうわけです。そして信じない者ばかりか、裏切るユダについてまで、ヨハネは言及するようになるのです。
 
パンを巡る事件がこのように続くところまでを一つの旅として描くならば、かの山頂にあった風景、つまりイエスはただの人間であって、天から降って来たような存在ではない、という非難は、このパン炎上の一コマの中で、確かに一つの中心的な部分を指していた、とも考えられます。ヨハネはここで、イエスの許を去る者たちを、まるで審査しているような書き方をしていることになります。その意味で、非常に強い意味がこめられていたと言えます。
 
この非難は、あの場面にいた無理解なユダヤ人のオリジナルでしょうか。彼らだけ、信じなくて滅びるような者たちの愚かな、誤った理解なのでしょうか。私たちは、それとは違う、良い弟子なのでしょうか。イエスから決して離れない弟子なのでしょうか。ここで「主よ、わたしたちはだれのところへ行きましょうか。あなたは永遠の命の言葉を持っておられます。あなたこそ神の聖者であると、わたしたちは信じ、また知っています。」(6:68-69)とペトロが優等生的な答えを言いましたが、私たちもまた、本当にそうなのでしょうか。このペトロですら、イエスのことを知らない、と重ねて否定したのです。それは四つの福音書がすべて証言していることです。優等生的な答えをしたペトロが、イエス逮捕の時に尻尾を巻いて逃げ、あげくイエスを知らない、と何度も言い張ったのです。
 
世の中には、イエスをただの人間であるとしか見ない人もいます。へたをすると、信仰者の中にも、いろいろな神学や研究を踏まえた上ででも、イエスはただの人間であり天から降って来たのではない、と結論づける人がいます。また、口では信じていますと言いながら、内心、疑っていたり、甚だしくは、逆にただの人間だというのが本音であったりする場合すらあります。それは現実に、あるはずです。
 
だからと言って、それは間違っている、などという神学をここで語るつもりは私にはありません。信仰を押しつけるような言動はとらないつもりです。だからこれは弱い説教かもしれません。ちっともメッセージ性のない語りであったかもしれません。しかし、神はこうですよ、信じなさい、と訴えるばかりがメッセージではないと考えます。神も、人を抑え込むような信仰強要をしているようには見えません。ただ問うのです。呼びかけるのです。まず、人に神と向き合うことを求め、それから問いかけるのです。優等生の答えを表面的に求めているのではありません。表向き、口先だけで言えというのではありません。あなたの全存在をかけた返答を求めているのです。あなたの命を懸けた告白を、神は求めているのです。
 
それでは、あなたは「わたしを何者だと言うのか。」(マタイ16:15)



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