【メッセージ】この舟にいま迎えるということ

2020年1月19日

(ヨハネ6:16-21)

そこで、彼らはイエスを舟に迎え入れようとした。すると間もなく、舟は目指す地に着いた。(ヨハネ6:21)
 
福音書は四つあり、それぞれの記者の入手した史料や関心などにより、採用された記事も様々ですが、マタイ・マルコ・ルカの三つは、比較的強い関係性が見られ、同じ出来事を描くことが多いため、「共観福音書」と呼ばれます。ヨハネは、それに比べると一風変わっています。内容も、描き方もずいぶん違うものという印象を与えます。けれども、何千人という人に少ない食材を配り尽くしたという奇蹟物語は、珍しくこれら四つすべてに記録されています。他の三つと異なる視点を意識しているヨハネにしても、この事件には何か意味があったと感じられたのかもしれません。ヨハネによる福音書では、その記事の直後に、この水の上を歩いたというイエスの出来事が書かれているのですが、マルコとマタイも同様の並べ方をしていますから、福音書の関係を考えるときにも、また福音書の伝えたいことを考えるときにも、これらの記事は重要な意味をもつものと思われます。
 
今日はヨハネのテキストに沿ってこの水の上を歩く記事に出会うことになります。まずざっくり捕らえることにしましょう。ここはガリラヤ湖。イエスが最初拠点としていた、故郷近くのカファルナウムの前に広がる湖です。その風景は、恐らく博多湾を見渡したくらいの規模であると想像すればよいかと思います。弟子たちはイエスを乗せずに舟を出して帰ろうとします。すると湖が風で荒れます。姪浜から出て、能古の島の奥あたりまでくらいの距離を進んだところで、弟子たちはイエスが湖の上を歩いて近づいてくるのを見て恐れます。イエスを舟に迎え入れたところ、間もなく目指す地に着いた。こういう記事です。
 
一般にまず話題に上るのは、水の上を歩いたというのはどういうことか、ということです。そんなことを信じているのは非科学的だ、とけなす人もいます。信じる人は案外素直に信じるタイプが多いのですが、中には、これは何らかの意味を伝えるための描写だ、と説明をしようとする人もいます。そもそもイエスの出来事は、私たちが通常イメージするような意味で、どこまで事実であったのか、を研究する人もいますので、その時には、この記事に意図があるのだ、と考える訳です。けれども今日は、その問題を検討するつもりはありません。それぞれがそれぞれの仕方で読めばよいのではないか、とも思うのと、それを謎解きゲームの肴にすることなく、私たちが正面からこの神からの問いかけを受け止めてみたいと思うからです。そして、さしあたりこの奇蹟の解釈から目を逸らして、もっと読みやすく読んでみようかと考えます。
 
そこで、私たちがこの弟子たちであるというふうに自分の身を置いて読んでみると、最後のところにすぐ目が留まります。「舟は目指す地に着いた」、そうだ、とここに慰められます。私たちはイエスがいてくれたら、私たちの目指すところに連れて行ってもらえるのだ、もっと希望をもとう、望みがあるときに、イエスが共にいてくれることを願うことが大切だ、という具合です。それも、うれしい読み方だと思います。勇気がもらえます。受験勉強をしているひと、大丈夫です。仕事の目標があるひと、励まされます。プロポーズを決意しているひと、さあイエスを迎えて、告白しましょう。それも、必要な信仰なのだろうと思います。そして礼拝説教も、しばしばそのように語られます。悪いことではないと思います。
 
下手をすると、現世利益のように見えるかもしれません。御利益信仰という言葉は、クリスチャンにとって敵対すべき考え方であるはずなのですが、やはり神頼みという心はあるもので、自分の力ではできないと覚悟を決めたとき、なんとかそれを実現してほしいために神に祈るというのは、あるものです。もちろん、それをよくないことだと言うつもりはありません。
 
しかし、私たちの望むことというのが、私たちの目指す地であるかどうかは、実は分かりません。そんなことを胸にくすぶらせながら、テキストを味わってみようかと思います。
 
この直前の給食イベントは、五千人かそれ以上の人々に、五つのパンと二匹の魚を分け与えたというイエスの奇蹟でした。人々は満腹したといいます。まるで、教えを聞いて心が満たされたかのような雰囲気ですが、ヨハネをはじめ福音書記者たちは、食べたことをはっきり書いています。さらに、残ったパン屑を集める作業までしています。プロ野球のロッテファンは、適地でもスタンドの清掃をすることで有名ですが、サッカーのワールドカップでも、日本人応援団がスタジアムの清掃をしていたことで世界中で話題になっていました。12の籠いっぱいに屑が集まったというのは、意義深いものがあるのですが、このことにも今日は突っ込みません。ただ、この作業をしたのは基本的に弟子たちだっただろうということだけを指摘します。そうです、分け与え、後始末をする。大変な作業です。ずいぶん疲れたのだと思います。もうふらふらな弟子たちが、早く本拠地カファルナウムに戻りたいと思ったのも尤もなことでしょう。夕方から舟を出すのも危険かもしれませんが、弟子たちの中には漁師がたくさんいましたので、たぶんそれは大丈夫だったと思われます。但し、イエスを乗せることなく舟を出したというのは、少しばかり不思議です。
 
この弟子たちの姿に、私は自分を見るような思いがしました。ここには「イエスはまだ彼らのところには来ておられなかった」と書いてあります。「まだ」なのです。クリスチャンは、イエスが再び地上に来るということを信じています。再臨といいます。世の終わりの出来事です。イエスは一度来て、十字架の死と復活とを経て、また見えなくなりました。しかしいつか世の終わりが来たときに、必ず再び見える形で現れることを聖書は知らせています。その意味からして、イエスはまだ来ていない、と聞こえるのです。しかしまた、この場面でイエスはその場にいたはずですから、この表現は奇妙です。私たちはまだ、イエスを心に迎えてはいないのかもしれません。信じているよ、と言いながらも、完全に身を委ねているとは言えないとすると、イエスはまだ私のところに来ていないことになります。私はイエスをすっかり信頼して迎え入れていなかったならば、イエスはまだ来ていないのです。
 
この状態で、弟子たちは舟を出してしまいました。いったい、イエスを置いてどうして本拠地に帰るだなどと言えるのでしょう。いったい、イエスを乗せないで舟を漕ぎ出ていくとき、弟子のうちの誰かが、イエスがいないと気づかなかったのでしょうか。特にこの時刻、すでに日が暮れて真っ暗であったかもしれません。イエスなしでは闇である、そのような理解もできるほどです。しかしイエスなしで出た舟は、強い風に苛まれます。イエスを乗せて出た舟が嵐に遭い、イエスが波や風を叱りつけると穏やかになった、というエピソードが、別の場面にあります。イエスがいないとダメなのだ、と誰かが口を挟みはしなかったのでしょうか。
 
ところが、こういう時に限って、波立ち、荒れた湖となります。これは聖書を、象徴的に読む方法のひとつの意見なのですが、聖書で海ないし湖というのは、この世の姿、とくに世の中の厳しさを表すことがあるというのです。イエスのいない舟は、この世の厳しい力に苛まれます。そして進めなくなるのです。このときに、イエスが弟子たちの目に映ります。湖の上を歩いているというのです。この世のあらゆる力を超えているイエスの力を感じさせる出来事です。自然法則からは説明できない、などという点でこの場面を捉えるのではなくて、この場面の描写が何を言おうとしているか、を気にした説明です。しかしそうだとしても、弟子たちはそのイエスを見て怯えます。別の福音書には、幽霊を見たかと思ったと説明が加えられているのですが、ヨハネはそのような説明をしていません。ただ端的に、恐れたのです。科学で説明できないことについて、人はしばしば恐れます。普通なら、先ほど強風で波が荒れたとき、ここで恐れるはずですが、そこでは取りたてて恐れたなどとは記さず、水の上を歩くイエスを見たときに恐れているのも奇妙です。しかし古来、ひとは神と直接対面することを非常に恐れました。神を見た者は死ぬと言われていたであろうことが推測されます。弟子たちはこのとき、もしかするとイエスを神かと思ったのかもしれません。というのは、ここでイエスが答えた言葉には、イエスが神だという宣言があるように見受けられるからです。それは「恐れることはない」の前の「わたしだ」です。ここはエゴー・エイミーで、訳仕方によっては「私はある(I am)」なのですが、これはほかならぬヨハネによる福音書の中で、神の名を表す場面の表現そのものなのです。
 
ですから、恐れるな、などと言われても、弟子たちは恐れるしかないような場面となっているのですけれども、ヨハネの筆はここで弟子たちがどう感じたかについては一切触れていません。それを受けて、弟子たちがイエスを舟に迎え入れたというのですが、ここには未完了形が使われていて、ただ一度起こっただけというような空気ではなく、過去に何度も、あるいは習慣的に起こったかのような空気を伝える活用で描かれています。新共同訳ではこれを継続的に迎え入れながらという感覚で、また他の訳も多くはそのような感覚で、迎え入れながらやがて目的地に着いたというように理解しています。状況としては不思議ですが、それは妥当であろうかと思います。しかし、やはりどこか不自然に感じられないこともありません。迎え入れようとしながら目的地に着いたという出来事の過去を告げるというのですから。そこで、このイエスを迎え入れる動作は、幾度もなされたことのように立体的に受け止めてみようかと思いました。つまり、いま私たちもまた、イエスを迎え入れ続けているのだという考え方です。私たちの時代、いまここでイエスを私たちが弟子として迎え入れるのだというリアルさを感じたいのです。
 
イエスを乗せない弟子たちの船出は失敗しました。イエスを乗せない出発はやがて強風と荒波で進めなくなるのです。しかしイエスのほうから、そんな弟子たちに近づいていきます。あらゆる世の攻撃をも超えて、イエスが来ます。それは神を見るようなものだという意味で、弟子たちは恐れます。しかし共にいる神を恐れる必要はないことを告げたイエスを、弟子たちは迎え入れます。この行為を現在の私たちが引き継ぐことが可能なのです。私たちは特別なイエスの姿を知っています。私たちに永遠の命を与えるために十字架に死に、蘇ったイエスの姿です。このイエスを心に迎えた者は救われるという福音を携えている私たちですから、さあイエスを心に迎えましょう、といったメッセージを告げることも、可能であったのです。だからほどなく目的地に着いたのは、イエスを心に迎えたからだ、などと。その意味で最初に、そんなメッセージがあってもいい、と申しました。
 
けれども、ここで目的というものを、私たちが自分で決めた自分の目標であるかのように考えるのは、たぶんよろしくないのだ、と私は思うのです。「目指す地」というのは、ここでははっきりしています。弟子たちは、カファルナウムに行こうとしたのです。カファルナウムは、湖の反対側にあたるようですが、イエスがガリラヤで宣教するときの、拠点としたところです。カファルナウムの住まいから、各地へ伝道に出ていたようですから、弟子たちは、数千人のためのパンや魚の食事を配るためにくたくたになって、イエスの活動拠点に戻ろうとしたに過ぎません。弟子たちが自由に決めた目的の場所ではなくて、たんにイエスの本来のところに戻ろうとしているだけなのです。そこにイエスを乗せ忘れるというのが信じられないのですが、とにかく弟子たちは、自分たちが共にイエスと暮らす処へ行こうとしたのでした。帰る場所は、イエスのいるところ。イエスの本拠地。私たちが決めた目標のために、そこに行きたいがためにイエスを利用するようなことをするのは、この場面から学ぶことではありません。
 
ここで思い起こすことがあります。聖書でいう「舟」のことです。それは運命共同体、仲間たちが共同生活を送るところです。ノアは箱舟に乗り、一旦終わらせる世を乗り越えていきました。現代では「宇宙船地球号」などといい、限られた資源をもち漂う船として地球を捉えたのが、いまから半世紀余り前のこと。地球は閉じられた有限なエネルギーを有する世界として認識されねばなりません。地球環境を憂う思いはそれほど切迫したものであるはずなのに、いまの子どもたちが成長する世代のことすら考えなくなっているとして、世界で一番有名な高校生グレタ・トゥーンベリが叫び、それに世界中の若者が共感しているのが、リアルタイムな今です。彼女はまさに叫び、怒っていますが、その声に大人たちが真剣に応答していくことが求められています。地球は、その自然環境と持続可能な社会を考えるだけでも、いまや神不在の人間の気ままな船出を許されなくなっているのだろうと思います。
 
が、しかしです。これは私たちの時代に、他に何を想定して読むことが可能でしょうか。イエスを信じる者たちが共同で暮らすグループ、それは「教会」ではないでしょうか。そう、歴史の中で実は教会は、しばしば舟に喩えられているのです。教会は舟であり、イエスを信じる者たちはその舟に乗って航海している者たちである、という意識が伝統的にあたったのです。運命共同体でもありましょうし、やはりそこにノアの箱舟のイメージがあったのかもしれません。最後に、この眼差しでもう一度、この聖書に描かれた出来事を見渡してみようと思います。
 
教会が、イエスを乗せずに動き出すことが記されています。これはその後の歴史の中でも、悲しいことですがよくあることでした。そして今なお、それがあります。牧師という地位をもつ者が、実は自分の救いということがよく分からないままに、自分の関心だけで教会を左右してしまおうとするのに遭遇したことがありました。同様に、実は全く聖書というのを自己中心的に読み慢心した執事が教会をめちゃくちゃに破壊していくのを目の当たりにしたこともありました。どちらも、イエスを知らない者に教会の舵を任せた結果でした。「知らない」というのは、知識はあっても、出会っていない、という意味です。
 
イエスを乗せずに教会が、イエスなしで計画を立て、自分たちの思いは神の意に適っていると思い込んでいます。人の知恵や都合で動こうとするのです。そんなときが今日の場面です。必ず何らかの問題が起こります。そのとき、教会という舟の外にイエスがいます。目の眩んだ教会員たちの外から、イエスは近づいてきます。世の知恵にどっぷりと浸かりそれに翻弄される舟の外からです。もちろんイエスはそんなものに翻弄されません。このイエスを、いまの私たちもまた、迎え入れる動きをとるかどうかが問われています。迎え入れるならば、イエスが「帰ろう」と目指すイエスの拠点、本来のイエスの場所に、向かって教会は進み、必ず着くのです。
 
やがて再臨のイエスが、究極的な神の国の実現のために来ることでしょう。しかしまだそのような形でイエスが来ていないといういまこのときにも、霊という形であれどうであれ、私たちは教会という舟に乗って進んでいます。イエスを乗せ忘れないように。人の顔ばかり見て気にするのではなく、イエスは何を望んでいるのか天を見上げ、また聖書から聴くことを耐えず第一とする信頼の許で、この教会の舵取りを、船員の一人ひとりが委ねられています。牧師や役員などへの信頼も大切でしょうが、それはイエスに比して全き信頼ではありえません。一人ひとりがこの舟の中にいるのならば、イエスが同乗しているかどうか、いないならば舟の外にいないかどうかよく調べ、直ちに迎え入れるようにしなければなりません。それが船員としての私たちの責任です。任されている仕事のひとつなのです。



沈黙の声にもどります       トップページにもどります