阪神淡路大震災25年

2020年1月17日

阪神淡路大震災は、私の関西での生活に幕を降ろすきっかけとなりました。いつか、福岡に還ることはおぼろげながらに感じてはいたものの、いつとは決めずにいた中で、震災は、何か時を大きく変えた出来事となったのだと思います。
 
直後にオウム真理教の地下鉄サリン事件が起こり、震災への関心が関東地方で一気に下がったことは残念でした。確かにこれも驚異的な事件ではありましたが、被災者のことが二の次になった印象は否めません。それは発生当時から実はそうだったのですが……。
 
大都市が崩壊するということが、怪獣映画やパニックSF映画などでなく、現実に起こるということ、また、そこには人間がいて、その日その時の生活をどうしていくかということが課題であること、日ごろ当たり前すぎて意識すらしていない物資や環境が、いかに貴重で手に入れがたいものであるかを認識すること、当事者はもちろんのこと、こうしたことが、はらはらしながら見守るしかない私たちのような傍観者的な者たちにとっても、切実に感じられるようになったものでした。
 
早いもので、もう四半世紀を数えることになります。思えば、太平洋戦争が終わってから四半世紀というと、1970年。大阪で万国博覧会が開かれた頃です。戦後の高度経済成長真っ盛りという様子で、石油ショックの直前でした。神戸やその周辺は、そのような立ち直りをしているとも言えるし、していないとも言えるような気がします。大好きだった神戸の街がずたずたにされるのを見て立ち尽くすしかなかったのですが、エルサレム神殿が破壊され国が荒らされるのを見ていたユダヤ人たちの心情も、震災の悲惨さを知るならば、いくらか想像の糸が届く可能性を持ちえるようにも思えました。この世の地獄とは単なる言葉だけの世界ではなかったということをです。
 
当時の新聞記録や写真集はとにかく手に入れました。それらは、記憶を刻んでくれますし、またそこに戻ることができます。バビロン捕囚においてユダヤ人が故郷を夢見たであろうように、忘れてはならないものは、確かに刻んでおかなければならないし、刻もうとし続けなければならないものです。「水に流せ」というようなことを、決してしてはならないのだ、と。
 
悔しいことに、他人の苦しみと自分の責任を「水に流せ」というように言葉を使うわけで、他人の苦しみをチャラにしろと迫ることを、平気でやるタイプの人々がいます。それではいけない、などという反論があると、祖先を悪く言う自虐的な見方はさもしい、などと声を荒げてきます。自分が見たことも聞いたこともないのに、そんな責任を負うような出来事は存在しなかった、と言い張る人々がいるわけです。その人たちが他人を「自虐的」と一蹴するのなら、逆にその人たちは「自己愛の病」に冒されていると言われなければならないだろうと思います。自己肯定感は人間には必要ですが、ひたすら自己愛しかもてないとなると、自分が傷つきたくないために他人を攻撃し続けるので非常に悪質です。
 
まだ傷ついている人がいる。癒えるはずのない傷を抱えて生きている。起きたことはもはやどうすることもできません。何か助けたいという気持ちを、優しい人たちはもつもので、「寄り添う」という便利な言葉を使って、その優しさを肯定して見せたい誘惑に襲われます。通りの真ん中で大きな声で祈ったり、寄附や献げものをしてますよと宣伝したりするような真似さえ愚かなことだと気づかなかった、そんな有様をイエスが指摘したのが、特別だったような書き方が福音書にしてありました。善意や善行が自分にあると思い込む限り、人間は自分のことが見えなくなります。「絆」という言葉は東日本大震災でとくに有名になりましたが、震災を外側から見ていたような人が使う言葉ではなかったはずです。それに「ほだし」は縛られて逃れられない意味ですから、果たして相応しい言葉であったのかどうか。でも当事者が、生きる希望を握り締めるためになら、何をどう使っても構わないでしょう。人が生きる言葉であるなら、大切にして戴きたい。
 
訳も分からず地震の故に放り出されたような子どもたちのために、レインボーハウスが作られました。あしなが募金もつながり、こうした団体については私はささやかながらつながりをもってきましたが、近年その街頭募金に出会うことがなくなり、何かまた考えようと思っています。あの震災のときにも、せめて誰かの子のための紙おむつ代にでもなれば、と送ったお金は、レプタとまではいかないまでも、頑張って送ったものでした。こうした災難に遭う方々はその後も各地に生まれてきましたから、なかなかそのすべてには関われません。せめて忘れないこと、と思いつつも、それが自己義認にならないようにと気をつけたいところです。なにもできない自分を責めるばかりです。それでまた、今年もただ痛い心だけを抱えながら、祈る一日を過ごします。いえ、その祈りはこの日だけでなく、一年中です。
 
 
※NHKが18日(土)から四週間連続で、土曜ドラマ「心の傷を癒すということ」を放送します。阪神淡路大震災を描きます。当時の被災者もエキストラで、被災者たちの役を演じるとのことです。言いたいことが言えない中で追い詰められていく心。これは、被災の心理(心的外傷)という認識が必要だという分野を拓いた、今は亡き精神科医の物語です。一部予告を見ただけで涙が止まりませんでした。私は京都だったので、本が降るくらいで済みましたが、あの揺れを体は忘れません。突き上げるあの衝撃は、震度5の京都ですら、この通りです。神戸では如何ばかりであったことか……。特にあの震災を直接知らないような方々、ぜひご覧戴きたいと願います。傷ついた心への対処ということで、もしかすると、災害に限らず、様々な人のケアにつながるものがあるかもしれません。c



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