【メッセージ】礼拝とは何か

2020年1月12日

(ヨハネ4:16-30)

しかし、まことの礼拝をする者たちが、霊と真理をもって父を礼拝する時が来る。今がその時である。(ヨハネ4:23)
 
あなたは教会に、何をしに来ましたか。
 
ちょっと立ち寄ってみただけの人もいるでしょう。入りやすそうだと思ってもらえたら何よりです。いいですよ、見学、見物、どうぞどうぞ。
 
学校のレポートのために、先輩がいいぞって言われて来た方、ありがとう。世の中の教会がみんなこんなふうではないのですが、きっとこれからの時代の教会のスタイルに近いと思うんですよ。楽しんでいってください。
 
さて、毎週日曜日にここへ足繁く通う皆さん。メンバーとして登録されていようといまいと、ここへ来るのがわりと普通になっているという方々、どうしてここに来るのですか? 顔なじみがいるから。話を聞いてもらえるから。何か手伝いができて、やりがいがあるから。気の合う仲間がいて、安心できるというのもあるかもしれません。世間の意地悪な風の中で悩んでいる日々、傷んだ心が癒されるようで居心地がいい、なんてのもあるでしょうか。
 
きっと、どこかに「信頼できる」という気持ちがあるんじゃないかな、と私は思います。教会は、そういうところでありたいと願うし、また自分もその信頼に応える者となりたいと希望します。
 
礼拝説教中、寝る人もいます。「舟を漕ぐ」という喩えは伝わりますか。こっくんこっくん、ボートを漕ぐような動きをするわけです。前から見ていると、なんでも分かります。だから教室でひとりくらい変なことをしていても先生は気づかないだろう、などと考えてはいけません。変なことをしていると、ひとりやたら目立つのです。ともかく、そうやってゆっくり休めた人は、説教が終わると睡眠が足りてしゃきっと背筋が伸び、そこから活発になる人がいるかもしれませんね。ある牧師は、それでもいい、と寛容でした。平日の激務をこなして教会に来ている、そのことに意味があるのだ、と。
 
優等生になると「礼拝」という昔の言葉を使って、教会に来る意義を説明します。私は最初教会に勇気を出して入るとき、そこでの「礼拝」というものが、神の前に土下座でもしているのかと想像していました。イスラム教のイメージでしょうか。知らないというのは、知ってから思い返すと笑い話になりそうなことばかりです。
 
そもそもこの「礼拝」という語は、仏教の言葉を借りて日本のキリスト教が使わせてもらっているので、そちらにリスペクトは払わなければなりません。仏教は「らいはい」と読みます。「合掌礼拝」とひと組で捉え、右手が清さと知恵の仏、左手が現世(げんぜ)の衆生(しゅじょう)を表し、これを合わせることで仏との一体化や帰依(きえ)を示します。そして礼拝(らいはい)はまさにリスペクトです。
 
こうして考えてみると、キリスト教の「礼拝」も、あながちこの精神と遠いものではないようなふうにも見えます。一般の礼拝のプログラムは、神からの声と人からの応答とが交互に繰り返されていく流れになっています。本来超越していて人と交わるということがありえないとされる神なる存在と、人との間をつなぐ橋が、イエス・キリストである、とするのがキリスト教の基本であって、礼拝はこのイエス・キリストを中心として、神と人との豊かな交わりを経験する場となります。封建制度の「御恩と奉公」ではありませんが、神からの恵みと私たちの側が礼拝行為をし仕えるという中に、神との関係・絆がつくられるという捉え方もあろうかと思います。
 
この礼拝こそ、私たちをほんとうの意味で「生かす」ものだ。私はこれをお話ししたいと考えています。今日のヨハネの福音書の有名な場面は、ひとりの女を通じてこの「礼拝」についての熱い議論が交わされます。
 
そもそも女がひとり、水汲みに来たというところから怪しいものです。ほかの女性はいないのでしょうか。「井戸端会議」という言葉があります。女性に対する偏見に思われてもいけないのですが、お喋りの好きな女性は多いでしょう。古代、女性が男性に仕え家事や子育てに明け暮れるという様子を想像すると、お喋り好きな同じ女性たちと会って話をするというのは一日の中の楽しみ、あるいは生きがいであったかもしれません。しかしここで現れたひとりの女は、真っ昼間に井戸に水汲みにきました。重い水を抱えて帰るには、この暑さは難儀だったことでしょう。だから普通の人は、朝か夕か分かりませんが、まだ活動しやすい気候の時に水運びをするものでした。こういう生活は、いまもなされている世界の地域があります。とくに子どもたちがこの役割を担わされている様子が伝えられます。学校ではなく、水汲みだけの子どもたち。私たちの学習や受験にもしんどさがありますが、教育は重要です。マララ・ユスフザイさんがどんなに教育の大切さを命懸けで訴えているか、聞く耳を持ちたいと思います。
 
まるで人目を避けるかのようにして、昼の日中に必要な水を求めてやってくる女。旅の途中でひとよこいしていたイエスは、もしかすると女との出会いを待ち受けていたかのようにして、そこに座っています。道具がないので水が飲めません。それで水を汲んでくれないかと女に頼むのです。これもまた驚きです。イエスは風貌からしてもユダヤ教の教師、ラビと呼ばれる尊敬すべき姿をしていたと思われます。だからユダヤ人です。それが女と話している。女がきやすくラビと話せる雰囲気がなかったと思われる時代、しかも一対一で話をするのは異常な光景だと言わざるをえません。
 
それからこの場所。サマリアという範囲の地です。このサマリアについて述べ始めると、それだけでずいぶん長い説明になってしまいますので、ざっくりいくと、本来イスラエルの信仰の中心地でもあった場所が、外国の大帝国に潰され、外国人が移植され、イスラエルの純粋さが損なわれてしまいました。信仰的にも違うものだと見なされ、エルサレムを中心とするようになったユダヤ教からすると軽蔑すべき相手となってしまっていましたから、決して交流しようとは思わなかった、いわば「異端」です。ユダヤ教から見れば、異教よりもむしろけしからんと思うような相手です。但し、同じ神を仰ぐという、話をしようと思えばできるぎりぎりの領域にあったと思われます。私たちキリスト教の立場は現代で、イスラム教との対話が必要な世界に生きていると言えますが、そのためのひとつのヒントにもなるかもしれない出来事だとする意見を、誰かが公言してくれたら、とも思います。
 
さて、イエスはこの女に、いきなり難題をふっかけました。分かってて言ったのだと思いますが、「夫を連れてこい」というのです。これは女には触れてほしくない話題でした。せいぜい「夫はいません」と答えるのが精一杯です。イエスは女に、五人の夫がいたがいま一緒に暮らしている男は夫ではない、と指摘します。詳しい状況はこれ以上は分かりませんが、この表現が図星であったわけで、当時このような立場だと、世間に顔向けができない、つまり人と交わることができないところに追い込まれていたというふうに理解するしかありません。それで人目を避けて水を汲みに来ていたのです。
 
イエスは女の素性を見抜いていましたが、しかし同時に、女が何を考えているか、どういう話をしていくかについても策がありました。女は、イエスを「預言者」だと認め、なんと神学的な質問をするのです。これは質問形式ではありませんが、内容は質問そのものです。「わたしどもの先祖はこの山で礼拝しましたが、あなたがたは、礼拝すべき場所はエルサレムにあると言っています」(ヨハネ4:20) それは、どちらが本当の「礼拝」の場なのでしょう、という疑問を、イエスにぶつけたのです。
 
これも私には奇妙なことのように思えます。サマリアの習慣がどうであったかは知りませんが、エルサレム神殿の奥のほうへは女は立ち入ることができず、女はここまでだという制限が設けられていたはずです。確かに女が礼拝して悪いということはないのですが、女は人としてもカウントされないような有様で、聖書でも男の数ばかりが報告されていますし、知恵文学と称される旧約聖書やその続編の中でも、女はむしろ男が神との関係をもつものを妨げるものだというような、いま声を大にしてはとても言えないようなことが平然と記録されています。ユダヤ教の教師に、ユダヤ教から差別されたサマリアの、女性であり、しかもふしだらで世間に顔向けできないような立場のこの女が、「礼拝」について尋ねるというのは、あまりにも不思議な場面です。
 
イエスは、本当の神を「礼拝」する時がくる。いま自分が来たからその時が実はやってきている、というようなことを言います。そしてサマリアの礼拝はまだどこか不十分なところがあるが、ユダヤのほうでは、つまり究極的にはイエス自身が来たから本当の「礼拝」がここから始まることになる、ということを含ませて言っているのだと考えられます。それをイエスは「まことの礼拝」と呼びました。まことの礼拝とは何かというと「霊と真理をもって父(なる神)を礼拝する」ことです。それは、神は霊であるからだ、というようなことも付け加えますが、なんとも難しい議論です。このサマリアの訳ありの女を相手に語るような内容ではない、と常識的には思われます。そして、女がメシアの存在を信じていることを明らかにしますと、イエスは、それが「このわたし」だと告げます。これもまたすごい告白です。イエスは弟子たちにもまともにそんなことを言っていないのに、このサマリアの訳ありの女にカミングアウトしたのです。憧れていたスターが「モニタリング」で目の前に現れて素人を驚かすというような番組がありますが、それどころの騒ぎじゃないでしょう。いわば神が目の前に現れたようなものなのです。びっくりしないわけがありません。が、ヨハネの描き方は非常に冷静です。但し、興奮の様子は伝えています。この後この女は、水を汲みに来たことも忘れて水瓶を置き去りにしたまま、そして自分がどんな境遇で人々にどんなふうにあしらわれているかもすっかり飛んで、人々に、メシアかもしれない、と触れ回りにかかるのです。これが多分、腰を抜かすほどびっくりしたことの、ヨハネなりの表現なのでしょう。
 
確かに、女が「礼拝」の神学的な意味を理解したようには描かれていないと思います。しかし、女自ら、人目には関係がないような「礼拝」の話題を持ちかけたところ、イエスがいわば真摯に、誠実に応えてくれた様子がここにはレポートされています。この記事を通じて、私たちは最初の問い、「あなたは教会に、何をしに来ましたか」に戻りたいと思います。
 
あなたは教会に、何をしに来ましたか。「礼拝」をしに来た、というのは優等生の答えだと言いました。でもそれは、本当にそうなのだと思います。そうあるべきだ、ではなく、そうなのです。自分ではそれほど神の前に厳粛に、健気に、祈りを垂れて心静められ、というような心境ではないかもしれません。早く終わって買い物に行きたいと思っているかもしれないし、もしかすると恋しいあの人がこの場にいるので来てるんだ、という動機が根底にあるかもしれません。けれども、礼拝のプログラムが、神からの呼びかけの声、それに対する私たちの側の応答、これらが交互に重なっていくものだとするとき、きっと神はまず、あなたに呼びかけています。聞き逃したかもしれない、聞こえなかったかもしれない、もしかすると聞きたくもなかったかもしれない、けれども確かにまず神のほうが声をかけている。あなたに呼びかけている。最初に神があなたを呼んでいる。私が教会にまず来たのだ、と私たちは思う。けれどもそうじゃない。神が呼んだから、私たちは呼ばれてここに来たのだ。神がまず呼びかけて私たちにここに来る力を与えた。息吹を注いだ。命を与えた。たとえ、ただの気休めに来たにしても、友だちの顔を見に来ただけでも、さらに偶然だと自分が思うようにしてここに立ち寄ったにしても、あなたは今日、来るべくしてここへ来た。神が呼びかけ、導いていたに違いないのです。神は霊だから、そのシステムはなかなか明らかにしてくれませんが、きっとそうです。
 
あのサマリアの女は実に奇妙な設定でした。ユダヤの救いから無縁のようだった異教的なサマリアの地で、しかも当時の社会で底辺にあった女であり、世間に顔向けできないような女が、なんと高尚な「礼拝」についての議論をイエスと交わすのです。でも、この女ほどの奇妙さを伴って、あなたはここに吸い寄せられてきたと私は思います。いったい当時の誰が、二千年後の、地球の反対側にもなりそうな遠い国、文化が全く違うこんな東の果ての国で、聖書の言葉がこうして開かれて語られて、信じられていくなどと想像したでしょう。サマリアどころの話ではないのです。そして、これは皆さんとは申さないことにしますが、私のような、あの女どころの騒ぎではないほどの悪辣で汚い、恥ずかしい人間が「礼拝」について偉そうに話すなどしているのです。福音書に描かれた不思議な設定どころのものではない、この奇蹟のような、ありえないような福音の語りがここにあるのです。この奇蹟にあなたは遭遇している。あなたも神の奇蹟の中にいま置かれているではありませんか。神が呼びかけ、導いてきたことを否む理由はないと思うのです。
 
神の呼びかけは、力強いものでもあるでしょう。でも、繊細でもあるでしょう。地震の揺れにも火の激しさにも主を見出すことができなかった預言者エリヤという人がいました。しかしかすかに細い声の中に、主を知ったというのです。主なる神は、十字架という究極の犠牲を払うことまで追い詰められたようにして、あなたに気づいてほしいと健気に呼びかけています。十字架の上でイエスが苦しみの極みの中で発した言葉が、福音書には記録されています。その声が、私たちに呼びかけられているのです。
 
この秘密が「わかった」と思えたとき、それがきっと、それに適切にレスポンスできた時ではないかと考えます。その応答は、どうすればよいでしょうか。私たちも、霊で、というのが分かりにくければ、真心で、応えるのです。ここでは自分を飾る必要はありません。強がらなくてもよいのです。苦しいなら苦しいと言えばよいのです。泣いてもいいのです。それでも教会の中で泣いたら人目につく、と思う人は、神の前で泣いたらいいのです。礼拝の中で、神に向けて、泣いたらいい。誰にも見せられない、自分の奥底に隠しているものも全部差し出して、神に泣きついたらいい。自分の一番弱いところを神に見せる、それは勇気がいるかもしれませんが、本来神はそういうところをすべてご存じなのです。だからこれは、何も知らない神に打ち明けるのではなく、もうすでにご存じの神の前に自分を開くことになります。つまり、自分が変わるのです。心を閉ざしていたがために、ほんとうの自分の叫びが表に出せなかったために、苦しんでいたあの自分を、自由に解き放つことができる場、それが「礼拝」です。「礼拝」は、神からまず投げかけられた声がそこにあり、それに気づくとにより、自分が応え、そして自分が解き放たれていく場となるでしょう。あの女が、自分の恥ずかしさや世間体を捨て払って、人々に、すばらしいひとに会いました、と知らせに走ったように、私たちはもっと自由になります。また、礼拝は個人で信仰しているだけの姿と違い、仲間と共に営むものです。独り善がりを避けることもできますし、共に礼拝することで、人同士の横のつながりも生まれます。聖書はこのつながりを形成するものを「愛」と呼ぶことがあります。
 
真心で、神の声に応える時、それは今、この礼拝もそうです。「今がその時である」(4:23)からです。



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