2020年1月9日

若い神学生が、その大切な礼拝の司式を担当していましたが、前奏や祈り、賛美とプログラムが進んだとき、「招詞を忘れていました」と断り、選んだ招詞を落ち着いて読み始めました。私は驚きました。見上げたものだと、失礼ながら、感嘆するのでした。「失礼致しました」と詫びは入れていました。が、そこで慌てず騒がず、いわば何事もなかったかのようにスムーズに、礼拝のプログラムを補い、礼拝の流れを変えることなく、厳粛な営みの中にこのミスを埋め込んだのです。これはなかなかベテランでもできることではありません。私はたくさんの事例を見て、また経験しています。こうしたミスのとき、大人はしばしば、笑うのです。照れ笑いをするのてす。あるいは失笑するようにして、いわば「笑って許して」のサインを送るのです。つまり、言い訳から始めるのです。ところがこの神学生は、そのような溝へ水を一滴も漏らさず、穴を冷静に塞ぐことをしていたのです。これは立派なことでした。もちろん、大切な礼拝の司会で大きなミスをして、気が動転していたために笑うどころではなかった、と受け取ることも可能な状況でした。が、その後の落ち着き払った司式の態度や表情その他から、そんなふうではまったくなかったということはよく分かりました。礼拝というものに対する、見事な姿勢を貫いたのは、本当に見事でした。
 
礼拝の終わりの報告のとき、ある人が発言していました。今日は自分がぼうっとしてして、プログラム作成についてミスがあった、というように言って、会場の笑いをとっていました。招詞のミスを庇ったというような雰囲気ではなかったのですが、これが大人の「笑って許して」というものだということは明確でした。礼拝という場において、非常に対照的なものをここに見ました。
 
この礼拝では、時代が大きく変化する中、教会がこれから変わる必要があることに触れるメッセージがありました。この神学生は、決してガチカチの堅物ではありません。むしろ今風の若者であると言ってよく、楽しい人です。しかし、礼拝については筋の通った態度をとりました。それでいてなお、新しい教会像を求めていることも確かです。ほんとうに教会は、今までと同じことをしていればよいという時代ではなくなりました。
 
但し、「キリスト教会」と一括に呼ぶような無謀なことは慎むべきです。「日本人は」と一つに言われてうれしい気がしないのと同様です。ですからここで挙げることは、すべての教会について言及しているつもりではないことをご了承ください。また、特定の教会だけのことを言っているのでもないことをお考えください。今大きく変化している時代の中にいる教会というものについて、またその教会の中にいる当事者として、自分に何ができるか、どんな声を挙げ、あるいはどんな声に賛同していくのがよいのか、考えてみてほしいと思っているのです。
 
たとえば教育界もこの2020年を中心として、大きく変わっています。かつてとは全然違う教育風景になっていきます。ビジネスの場でも大きく変わっている昨今については言うまでもないほどで、また、労働観のみならず、企業観も変化しており、イノベーションなしには生き残ることすら不可能になっています。旧態依然と同じことをしていれば企業が発展するなどということはありえません。ひとつ出遅れると競争に負けて消え去るというのが、社会常識となっています。この中で、キリスト教会がこの変化に対応しておらず、また、変わらないのがよい、と思うような「長老」が幅を利かせているのが、多くの教会の有様であるとしたら、教会はこのままでは成立しない、消滅するしかない、という危機感を訴えるような内容でした。
 
教会が大きく変わらなければならない。それは、これまでのどこそこを改善しましょう、という程度のものではなくなってしまっています。当たり前のようになっていて、そんなものだとしか誰も言わなくなった、時間がやたら長くかかる会議。それを短くするにはどうすればよいかというイノベーションには全く興味がないような態度。以前人数が多かった時代にできたなんとか委員会という組織がたくさん居並ぶ光景。その委員会とまた別の奉仕が重なる人がいると、毎週教会で朝から夕方まで会議やら練習やらに明け暮れる教会生活。さらに家に持ち帰って名簿づくりや案内文書づくりに追われる。それではいけないという声すら起こりませんし、起こさせない雰囲気が日本社会にはあります。教会もまた、この世の風がそのまま吹く場となっていることは否めません。むしろ危機感が薄かったり、なんとかなると考えるのが信仰だなどという声が飛び交うほどです。互いに責め合うことは聖書が戒めていますから、許し合わないといけないことになり、結局すべてがなあなあになっていきます。こうして、あらゆる大問題が「笑って許して」で終わってしまいかねない状況にすらなっていとも言えます。
 
ではどうすればいいのか。これまで常識と自分たちが考えていたことを、改善するという発想を一度捨てなければ、どうにもならないと考えます。例えは当事者に不愉快に聞こえるために適切でないことをお断りした上で言いますが、ごみ屋敷と呼ばれる家をなんとかするには、一度全部中のものを外に出してしまわなければならないでしょう。池をきれいにしたいと思ったら、池の水を全部抜く必要があるわけです。教会組織に危機があると本当に考えるならば、一度すべての前提を消して真っ白にして、本当に必要なことは何か、絶対に譲れないものは何か、というところから始めて、一から石を置いていくという営みが必要なのではないでしょうか。
 
そうすると、教会の伝統がある、という反論がくるだろうと思います。先の牧師の信仰を継承する、などとも。そうです。そうした教会のアイデンティティを否定するつもりは全くないのです。しかし、たとえば前の牧師が『讃美歌』を愛したからもう教団讃美歌から離れられないとか、オルガン以外の奏楽は悪魔の道具だと言っていたからそれに従うとか、それが果たして「信仰」でしょうか。それを洗い直すのです。ただ受け継いできたから、意味は分からないがそのまま変えないのがよい、というのが賢いやり方だとは到底思えません。その前の牧師が大切にしていた「信仰」はオルガンなのですか。『讃美歌』なのですか。そうじゃないでしょう。主日礼拝を守る信仰だとか、家族を愛し仕えるだとか、もっと大切にしていた「信仰」が見つかるかもしれません。更地にするというのは、一度先入観をすべて捨て去って、現象的なことを括弧に入れて、一から意味を問い、何が本質なのかを考えようという試みなのです。だから、いま教会にあるものを見渡してみましょう。
 
その委員会、必要ですか。その会議、短くする方法を社会から学びませんか。できるわけがない、と初めから決めつけますか。努力しようとしないのですか。それがよいと思われることであるならば。どうしても「兄弟姉妹」と呼ばなければなりませんか。新来会者の名前や住所を、尋ねなければなりませんか。新来会者を皆の前で立たせて、紹介することは信仰のために必要ですか。その人がどのように感じるか、考えてのことですか。男性牧師の配偶者は、無償で教会全般のお世話をするのが当然だという偏見が、もしかするとどこかにありませんか。伴奏は、オルガンでなければ礼拝になりませんか。その賛美歌の歌詞、古語になっていませんか。それで教会に来た人がしみじみ神を思えますか。そもそもあなたはその歌詞の意味を分かって歌っていますか。礼拝のプログラムに独自に入れたその企画、目的に沿っていますか。子どものための時間のようなものを表向きこしらえているものの、子どもは誰一人聞いておらず、演ずる大人が楽しむための時間になっていることに気づいていますか。もしそれでも、それが「必要だ」という意味がはっきりして、それをやろうとするならば、それでよいのです。それが教会の「信仰」となるでしょう。改めてそれを見直す、あるいは知ることだって可能です。それのよい機会となるはずです。
 
もう例示はやめます。きっとそれぞれの教会教会で、無駄や、愛に基づかないことが見えてくると思います。教会に若い人が来ない理由に気がつくかもしれません。一度来た人が二度と来ないのはなぜか分かるかもしれません。そのためには、一度更地にして、新しい建物を建てる覚悟が必要です。部屋を空にして、新しい生活に必要なものだけを部屋に置くようにするのです。改革や改善という生ぬるい姿勢では、結局また元のものがいい、というだけにしかならないことは、思い返せば、誰もが何かしら思い当たることがあるのではないでしょうか。そんなことは無理だ、の声で、改善の声は必ず潰されます。誰が責任を取るのか、と保守派が必ず釘を差します。それでは傾いた会社はそのまま倒れるでしょう。教会も、いま懸念されていることが、構えているよりも早く訪れることでしょう。もう一度更地から、基礎を据え、柱を建て、壁をつくり、家財道具を、什器を、揃えましょう。そのためにまた、どんな建物にするか、部屋割にするか、必要な資材は何か、腰を据えて考えましょう。もちろん、これは教会堂を壊せ、という意味ではありません。教会組織なるものについて、すべてを洗い直すのです。そのとき初めて見えてくる景色があることでしょう。希望と出会うことができるでしょう。今までと同じであれば無難だ、というところには、その出会いのチャンスがあるようには思えないのです。聖書はどう言っていると思いますか。聖書に聞きながら、この問題をどうぞ祈り考えてみてください。教会が、生きるために。



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