ウザい記事を書くわけ

2020年1月7日

同じSNSでも、たとえばFacebookはtwitterと異なり、文字数の制限がありませんから、まとまった考えをレポートするのに優れています。また、わざわざ訪ねてもらわなくても、関係を結んだ方々のところへはとりあえず届けられますので、偶然にでも目に触れる機会があると考えられます。もちろん、多くの方は、長いまとまった文章を読む忍耐がありませんので、まるで聖霊に捕らえられるかのように、気持ちがそこへ向かわないと、「もっと見る」をクリックはしてくれません。私はある思いをもって一定のまとまりのある内容を表明しようと考えているので、個人的な趣味を喜んだり、自分を知ってほしいと思ったりしているのではありません。長きにわたりウェブサイトで何らかの情報を伝えてきている経験の中で、偶々SNSを用いているだけです。
 
当然教会関係者のつながりが多く、直接知る方もいますが、どこの馬の骨か分からないような者の友だち申請を受け容れてくださり、寛大につながってくださる方々もいます。そこへこちらの考えが流れていくようにしているので、こちらは有り難いのですが、逆にそうした方々の声もこちらのタイムラインに流れ入るのも事実です。訳あって反応のボタンをあまり押しませんが、多くのものには目を通しています。
 
そんな中、教会や聖書のことを広めたいという願いと共に、Facebookの記事を書いている方がいます。特に若い方々に届けとばかりに励んでいるのが分かります。SNSの道具としてFacebookは、必ずしもそのようにして福音を伝えるという目的に沿うものではないのですが、こうして労していることは、またよい道を見出すものではないかと期待できます。他に、自分の行った場所を紹介してくれたり、食べたものを報告したりする方もいます。芸能ネタにコメントするのが楽しい人、声高に政治批判を続ける人もいます。ほかにまた和む記事もありますし、礼拝の案内というのも、案外うれしいものです。各教会で何が語られているかを垣間見ることができるからです。それは、各地で神の言葉がどのように告げられているか、神がどう働いているかのひとつの指標になりえます。
 
私のものは最もウザがられるタイプのものでしょう。面白いことやほのぼのとした記事を提供している訳ではありません。辛辣であり、教会を批判しているかのようにも見えるものがあり、読んでも不快になる人がいることでしょう。そんなだから、そんなものを読むために時間を割きたくない、との心理で、無視したり、ブロックしたりするということもあるでしょう。私の文章よりは遙かに少ないのに、「長文失礼します」と但し書きをする方がいて、私はくすっと笑うのですが、逆に言えば、私の場合は失礼を通り越えて、愚かな振る舞いを厚かましくしているだけということにもなるでしょう。けれども私は失礼だとは少しも思っていません。これが余計に悪いのでしょうが、他人様のタイムラインに流れ入る記事の大きさは、「もっと見る」のために限られているわけで、特別に迷惑をかけることはないのです。ですから、示された方、選ばれた方が見てくださり、何かしら違う視点を与えられたらいいが、と願いつつ綴っています。聖書からのメッセージ、そして聖書をお読みになる方に何かしら異なる視点が提供できれば、との思いです。なるべく、どなたもが言わないようなことを言おうと努めています。そうでないと場所をとる意味がありませんから。
 
こういうのを「預言者気取り」と呼ぶ場合があります。まさにそういうことだろうと思います。黙殺されてよいのです。旧約聖書の預言者たちは、その時代の人々からは基本的に黙殺されました。誰も相手にしませんでした。書かれたものは燃やされ、その発言の故に命を狙われました。殺された預言者もいました。それを弁護してくれたのはイエスでした。人にへつらい、またたくさんの共感を受けることを喜びとする仲良し倶楽部を求めている訳ではありません。そもそも、教会が聖書を告げるというのは、そういうことではないはずです。福音を告げるというのはどういうことか、それを自分なりにやってみている気持ちです。それが「預言者気取り」であるのなら、大いにそれに甘んじたいと思います。しかしまた、預言者どころか、ただの個人的な妄想であり、自分を何者かと考えている膨らんだ者だと見られているのなら、それも弁えましょう。そうかもしれません。人間は自分のしていることが分からない、と日ごろほざいているのですから、それが己れのことだよと言われれば、それまでです。
 
私は聖書を文献として研究することを自分の求める業だとは考えませんでした。文献として聖書は実に頼りないものです。もちろんそれだけ人々の関心を集めたものであり、膨大な量の写本があるなどという理由はありますが、古代ギリシアの哲学文献のほうがまだずいぶんとまとまっていると言えます。聖書は神の言葉であるとしても、テクストが多岐にわたる以上、そのオリジナルを探すなどというロマンはステキですが、あまり関心がありません。むしろ改訂版のほうが有意義なのではないかと思うくらいです。それよりは、どんな形であれ、聖書を通じて語りかける神の言葉に、人がどうレスポンスしたか、それが大切なことであって、いまここで生きているその人が、神の言葉を受け、応答するという経緯の中に、いのちの働きが可能になるという次元のほうに関心があります。預言者は、文献調査をしようとしたのではありませんでした。人々に、語りかけたのです。人々を、生かすためです。
 
主イエスの言葉は、その癒しのしるしがなければ、教えとして人々が喜んで受け容れたかどうか分かりません。驚きはしました。エリートたちをやりこめる様子を大衆は喜んだかもしれません。虐げる権力への抵抗として期待したかもしれません。社会的に恵まれなかった人たちのところに足を踏み入れてくれるラビとして、親しみをもって臨んだ人々もいたでしょう。十字架と復活という出来事がなければ、何かしら教えを垂れたという程度で過ぎ去ったムーブメントであったかもしれません。しかし、それらの言葉は生き働いたのです。弟子たちの働きを通してでもなお、神の霊は作用し、イエスの名によって人々が変えられていったのです。あのローマ帝国が変えられたのですから。癒しの業の故であったにしても、基本的に、その言葉が伝えられ、生きたのでした。人々を生かしたのでした。
 
ウザい文章の中で、聖書はどんな人をも生かすことができるということだけは確信して伝えます。それが、すべての人を救うという意味だと考えています。ただ、現実に生かされる出来事となるかどうか、それは何とも言えないのです。自分は光の中にいると口では言いながら、実は闇の中にいるではないか、とヨハネ文書は指摘します。そういう場合も大いにあるのです。この両面に役立つことを、上から受けた証しとして、日々与えられるものを分かち合えたらと願っています。主の言葉に生かされることに意義を見出す方、どうぞこれからもお楽しみください。いまこれをお読みの方に祝福がありますように。



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