当然=普通 から距離を置く試み

2020年1月5日

いままでと同じことをしていてよいわけではない。けれども、変わらないものがある。ニーバーの祈りという有名な祈りがあり、特にその一部、「変えられないものと変えるべきものを区別する賢さを与えて下さい」が話題に出されます。これが分かれば確かに苦労はないのです。私たちは、変えてはならないものを平気で変えるくせに、変えなければならないことはいつまでも旧態依然のままで平気でいるのです。この祈りはその前提として、「変えることのできないものを受け容れること」と「変えるべきものを変える勇気」を求めていました。
 
時代は変わっています。科学技術は、前世紀に兵器としての発展が懸念され、人類滅亡の危機が問題となりました。確かに、ひとつ間違えばそうなる可能性が、科学技術によって、できあがっていたのです。その危機感は消失してはいないのですが、現在はまた、「思考」というレベルに人間以外のもの、具体的に言えばAIと生命倫理の技術によって、「人間」とは何であるのかの定義が問われている一面があります。これがまた、兵器とは別の意味において、あるいは兵器そのものにおいてでもなお、人類滅亡の可能性につながっているわけで、人類の歴史は大きな転換点にきているのではないかと叫ばれています。
 
人類の知的文化にも当然その影響は及ぶわけで、宗教や信仰の世界にも及んでいます。中には科学の発展により宗教なるものは絶滅すると考えた人もかつてはいましたが、その逆に科学なるものが宗教の領域に比べれば限定された一定の約束のもとに定義づけられたものでしかないというのが一般的な理解となっているように見受けられ、必ずしも科学万能の思想に塗りつぶされているのではない、というのはひとつ安心できるところです。宗教や哲学を軽んじる国は私たちの身近なところにありますが、それはまさに宗教や哲学の領域から批判されるべきものとなっていることを知らず、ただ権力によって自分の無知な思い込みを実現させようとすることにほかならないことは、一世紀前あたりの歴史から辿れば明白です。
 
しかし、現実の宗教組織を見ると、これがまた危機的な状況にあるのは事実です。日本の仏教寺院もそうですが、キリスト教会も成立が危ぶまれています。神社は文化のような顔をしていますから、いままでのように宗教であることを気づかせないでいることに成功していれば、今のまま行事文化の担い手として当面存続できるでしょう。仏教も文化的側面での在り方を模索するならば、それなりに生き残ることは可能でしょうが、従来の寺院数は保てないものと思われます。寺に属さない埋葬の仕方が広がっている状況があるからです。さて、キリスト教会はどうでしょう。これも、一般社会以上に高齢化が進んでいます。若い世代が、教会に魅力を覚えないでいるからです。それは、宣伝が下手だなどということでもなく、まして単純に悪魔のせいだなどと叫んで解決できる問題ではなく、教会の側も、魅力を伝えることに成功していない故でもあります。だのに、教派同士の教義的対立に熱中して、その魅力を減じていることに対して蔑ろにしていたかもしれなかったせいもあり、また子どもたちを育むということにおいてもうまくいっていません。やたら教育方面ではミッション系と呼ばれる学校がたくさんあるのは事実ですが、それが何らかの形で心に痕跡を遺すことに役立っていないわけではないものの、宣教には役立っているとは言い難い状況があります。
 
これを、「宣教の失敗」として認めて議論する動きも、ないわけではありませんでした。しかし、大抵の場合、少子化だとか受験競争だとかを理由にして教会学校を閉じる方向にどんどん進み、レジャーの多角化が日曜日の礼拝を阻んだのだ、などと溜息をつく有様です。そして、量ではなく質だ、などと詭弁を用いて、実のところ益々質を落としているというような、笑えない事態を助長しているのかもしれず、しかもそのことに気づいておらず、気づこうともしないという実態があるとするならば、悲劇を通り越えて喜劇にすらなりかねません。
 
新しい時代には新しい革袋を。教会を新しい時代のあり方に変えましょう。そんなメッセージを発することもしばしばありましたが、そう宣言した礼拝の終わりがけに、相変わらず新来会者を名を挙げて紹介するなどしているとなると、要するにちっとも教会を変えようという意識が見られない、ブラックジョークのような状況が通例なのです。変えるとはどういうことか。本当に変える気があるのか。問われているのに、その問われている事態が理解されていない様子に、往年のギャグならば「だめだこりゃ」と言いたくなるのも無理もありません。
 
本気で教会を変える必要を感じているのか。変えることには、失敗を恐れる気持ちを捨てなければなりません。また、失敗を許す土壌がないといけません。失敗すると責任を問うなどという縛り付けがあると、思い切ったことはできません。思い切ったことをするには失敗はつきものです。一流の野球選手でも、10度のうち7度は打撃に失敗しているのです。教会が本気で変わらなければならないと思うなら、失敗を許して大いに試して大胆なこともして、また、充分リサーチして、これまでの何がいけないのか、多角的な視座から指摘しなければなりません。八木谷涼子さんがせっかく提言してくれていることくらい、向き合って検討しましょうよ。少々過激な発現をしている新聞の指摘も、さもありなんと一度受け止めて考えてみましょうよ。
 
とりあえずいままでと同じことをしましょう、というようなやり方では、企業は生き残れないということを知っているビジネスパーソンは、今こそ、イノベーションの大切さを教会で真剣に検討するべきことを訴えるとよいのです。それこそドラッカーは、非営利組織の場合の具体的な組織改革も提言しているのです。クリスマスの祝い方を一変させるくらいのことをしてもよいのではないでしょうか。教会員同士が足を引っ張り合って、あれはいけないこれはクリスチャンらしくないなどと陰口をたたいて出る杭を打つようなことをやめたいし、自分がそのようなことをしているという眼差しくらいはもつようにしようではありませんか。キリスト者は、自分の罪を知るという、どこかメタ認識めいたことすらできたはずの人ではないでしょうか。自分が何をしているか分からないだけの魂ではないはずの者たちではありませんか。
 
手話で「当然」は「普通」と同じ動きで賄えます。私たちが当然ではないか、当たり前だとしてしていることこそ、普通であり、それと違うことは考えられない、そんな状況のただ中にいて、私たちは安心しています。「普通」の動きから「違う」へつなぐとき、手話は「奇蹟」を意味します。神の奇蹟は、超自然現象と同一視すべきではないことを知ります。私たちがあまりにも当然だとし、それこそ普通だとしか考えられないようなものと違うものの見方をすること、そこにすでに奇蹟が成り立っていることを教えられます。これは教会では当たり前だ、と思っていることをもう一度最初から洗い直して、一般社会から見て非常識めいたもの、若い人たちの心を教会から遠ざけているようなものに、気づくことから始めたいと思うのです。それをしようとする気がなく、またそうしようという声を押し殺すことばかりしておいて、新しい時代を教会が迎えるなどと嘯く、欺瞞に満ちた正義論を自分のために主張するのは、もうやめにしましょう。
 
私は、この考え方を誰にも押しつけません。ただ、これに理解を示してくれる器へと逃げていくだけの者です。理解したくない人を説得するつもりはないので、ご安心ください。



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