教会奉仕について

2020年1月3日

教会のために喜んで奉仕をし、尽くしている人には、やはり頭が下がります。もちろん、かつて自分もそんなふうに見られていたかもしれない、ということも分かります。そのとき、何も利用されているなどというふうには思いませんでしたが、もしかしたらいま自分は誰かを利用しようとしているのだろうか、と自問することはあります。たぶんそうではないはずなのですが、自分はそんなに善性に満ちているわけではない、という戒めを自らに課しているようにはしています。いや、やはりそうかもしれない。ともかく、いまは何一つ教会のために貢献などしていないわけで、偉そうなことを言ったり威張ったりする要素は少しもありません。
 
教会という一つの共同体で、やりがいのある働きができる人というのがいることはいいことです。ほかの社会では認められない、あるいは居場所がない、そういう人が、教会に来たらひとりの人として認められることが、そういうやりがいにつながる、ということもあるだろうと思います。職場でもそうですが、町内会などでも、いやな思いをする人間関係の中に置かれていると、そういうのに比べれば、教会は居心地もいいことが多いのではないかと思います。
 
しかし、教会が組織となっていくとき、それが責任を負うものとなると、だんだんと負担を強いられるものとなっていく場合があります。クリスマスだからとなんやかんやとする仕事を頼まれて増えていく。だいたい世の仕事で歳末のせわしさと多忙の増すところが多い中、教会も一年で一番忙しい時季を迎えるわけで、それで役割を与えられたり仕事を頼まれたりすることになるわけです。そうした煩わしいことから解放されている人はいいのですが、仕事で目の回るほどに忙しい人が、クリスマスのために、と教会で頼まれるのを断ると、いかにも不信仰であるかのように思われるかと案じて、引き受けてしまう、という笑えないことが、実際たくさんあるのではないかと私は想像します。それこそそんなことを口にすると不信仰だということになりそうで、たぶん殆ど口には出さないだろうと思いますし、ちょっと笑い話のように言うことはあっても、実のところ帰宅して疲労困憊の中徹夜で準備をする、などということもあるのではないでしょうか。
 
教会により負担を強いられることで、それを「試練」と理解し、神は試練から逃れる道を与えてくださる、などといった、本末転倒なことが起こっていても、信仰暦が長くなると、それが当たり前のように思えてくるわけで、こうなると、世間のワーカホーリックな思考回路と全く同じようなことが起こっていることになります。つまりは、病的な状況です。比較するのは失礼かと思いますが、ひとに残酷なことをするのを最初は戸惑っていたとしても、そのうち慣れてしまう(というより閉鎖的な空間で権威者の言いなりになる)という怖い心理が人間にはあることが確認されており(ミルグラム実験)、よくよく考えてみれば奇妙な事態も、それが日常となれば何の疑問も抱かないということになってしまいます。だから、「教会の常識は世の非常識」と言われるのです。
 
時には、これは好意であり信仰から言うのだなどというふうに自分に言い聞かせつつ、辛い目に遭った人に「恵みですねぇ」などと話したり、「神はすべてを益にしますよ」と笑って言ったりするような、信じられないようなことさえ起こります。自分もそんなことをしていたかもしれません。それはもう、自身では気づかないことです。おかしいと気づいていたら、するはずのないことだからです。
 
小さな教会のために、ささやかな支えになってきたことは、私の中で決して悪い歴史ではないと信じています。しかし、それは小さかったからこそ、家族的な規模の中でできたことなのかもしれません。組織の中では、ひとは簡単に歯車になります。また、ひとを歯車として扱うようになります。古代の教会も、そのあたりの葛藤で悩んだことでしょう。ただ、そのころには、世間は敵であり、それと対立するという形で、教会内部の結束ができたことでしょう。あるいは、異なる教えの勢力に対して踏ん張ることで、やる気が出たこともあったでしょう。その後、キリスト教思想が社会を変革してきた側面もあり、世間も人権意識を原則としていて迫害をすることがこの辺りでは基本的にないので、世間が敵になるという構図が成立しにくくなっています。また、エキュメニカル運動から一定の仲間意識が広がり、また異端と烙印を押した勢力との対立が顕著な様子もさし当たりありません。キリスト教会の世界が、限りなく世間との境界線を曖昧にしてきているのです。地域をよくする運動のひとつの組織として教会が参加し、またお寺や神社などと「宗教」組が手をつないで災害に遭った人を助けたり、悩みを抱える市民の相談にのったりします。こうして教会が信仰とは別の次元で、ますますただの組織と化している場合があるような気がしてなりません。いえ、もちろんそれに意味がないとは思いませんし、むしろそれこそがこれからの教会の在り方だ、という考えも理解しています。それでも私は、結局アウトローなのだろうと思います。運転免許もどうしても必要を覚えるまで長い間見向きもしませんでしたが、教員免許というものもいまだに持ち合わせません。歯車のようになることは、もういいかな、と勝手に考えています。その組織からすれば、迷惑な存在であることになるのでしょう。そんなままで愚痴のように聞こえかねない、(西欧語の意味におけるつもりですが)「批判」的な視点をこのように吐きまくるとなると、ますます。



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