紅白歌合戦

2020年1月1日

【以下、「が」の多い駄文となっています】

男女差をつけることへの疑問からか、もはや「合戦」ではなく、対戦勝負を強調しないようになってきている印象を受けました。パフォーマンスなのか歌なのか、よく分からない企画もありましたが、一年を振り返るに相応しい場として、近年見直しているところです。巷で何が求められているのか、ひとは何に感動しているのか、あるいはまた、若い人々がどんな言葉や歌に心を惹かれているのか……などというと偉そうですが、その歌や言葉に共感できるからその歌が好まれているわけであって、たんなる世相の歌だと眺めるばかりでなく、愛する人々が何を大切にし、どう世界を理解しようとしているのか、そんなことを知りたいという思いも増してきています。
 
そんな中、米津玄師さんの語る言葉を聞いて、心に深く染みいりました。長男と同じ歳ですが、多角的な活動をしており、三男がブレイク以前から注目していたという、才能豊かな人。その謙虚な姿勢、人々への感謝や生かされていることへの思い、とくに「許されて」ここにあるという言葉は、そこらのクリスチャン(失礼)からも聞かれないような、美しい言葉でした。自分が受けているものについての思いが、クリエイティヴな働きによって、誰かの心に届けとばかりに発現する、そうしたアーティスト活動になっていくのだとしたら、素晴らしいことだと思いました。そして彼がつくり嵐が歌った「カイト」の歌詞と曲の美しいこと。歌詞の中の「風」を「霊」として受け取る感性を養われている私たちクリスチャンは、そこから受ける、また違った感動があったかもしれません。よい歌でした。歌った嵐の皆さんも、ここから何かが届いたらいい、と言いましたが、押しつけがましくなく、届くことを望んでいるのは、その「風」が願っているのと同じだと感じました。
 
竹内まりやさん、よくぞ「いのちの歌」を選んでくださった。これはもう賛美歌として歌い上げたい歌だとも思っています。もうそのタイトルを聞いただけで涙、涙でした。以前の教会で、午後に皆で讃美集会と称して、それぞれ好きな歌を歌う機会をもちましょうというものがあったのですが、私たち夫婦は、よくその場で、賛美歌でない歌を(手話を用いて)歌いました。いわば賛美歌だったら、礼拝でたんまり歌っているわけです。しかし、いわゆる賛美歌でなくても、神を賛美するスピリットはありうるという観点で、世間で謡われて愛されている歌、人々が感動している歌を、よく選んで歌っていました。「花は咲く」とか「しあわせ運べるように」とか「上を向いて歩こう」とかを、手話を含めて歌いました。三男のデビューは、私との「ハッピー・クリスマス(戦争は終った)」でした。実現はしませんでしたが、「明日に架ける橋」などもやってみたかったなぁと思います。森祐理さんもこうした歌をよく歌っています。もちろん「しあわせ運べるように」は当然ですが、被災地各地に飛び、現地の人を歌で慰め、台湾へはその地震の地を含めもう何十度訪ねたか知れず、台湾やサンパウロから表彰を受けているそうです。歌は、確かに力をもっていると思えます。紅白歌合戦も、以前「歌の力」をテーマにしたことがありましたが、歌には力があります。竹内まりやさんの「いのちの歌」、かつての朝ドラの時から評判でしたが、ほんとうに切々と歌ってくださいました。そして、これもまた、届けば、という言葉を漏らしていましたが、なんとか届けたいという思い、きっと多くの人に届いたと思います。
 
RADWIMPSは映画「天気の子」のために再び紅白歌合戦に出場となったわけですが、「グラウンドエスケープ」が来たのはうれしく思いました。私はとにかくあれが好きです。以前NHKの特集番組で、フルバージョンが披露されてもう圧巻でしたが、今回はメドレーのために映画バージョン。しかし、ラストのコーラスの演出はなかなかのもので、この歌も私は賛美歌並に考えていて、クリスチャンが歌えばきっと賛美歌として成立すると信じています。大丸でこの冬開催の「天気の子展」に行ったところ、この映画の企画書から世界観などが書かれてあるのを知り、興味深く拝見しましたが、展示物の合間に新海誠監督の言葉がたくさん置かれており、そのひとつに、こんなのがあり、心に残りました。私たち大人は、スマホの充電が残り20%なんかになるとこれはいかんと充電するように思うが、充電率など気にせず、全部使い切ってしまう若い世代の生き方のようなものを描いてみたかった――というようなものです(正確ではありませんので引用はしないでください)。あの映画の2人(いや、大人たちも数人)めちゃくちゃな考えをして、無茶極まりない行動をとります。しかし何か共感できるものがある。男の子の家出の理由すら特定しないから、共感がきっとしやすくなっています。誰だって無茶をやっているものです。黒歴史もあります。しかしそれを隠してそんなことなどないような顔をしておほほと笑って大人づきあいをしているし、自分の子どもにはそんなことをするなと道徳家のように諭します。でもそれでは、自分もかつて若かったころに抱いていた思いや視界には、もう近づくことすらできなくなるのです。そんな大人が、教会で礼拝を「正しい」者のように過ごしていても、若い人は近寄るはずがないのです。
 
坂道グループが競い合い、また協力し合って演じてくれていましたが、欅坂はその中でも突っ張ったようなものの見方、社会や若い世代の中の悪辣なものと向き合い、誰も言わないようなことを叫ぼうとする、そういう企画ものであるということも踏まえて言いますが、やはり言いたくても言えない子たちの代弁をきっちりやっているはずです。乃木坂にしても、そうとうに゛きりぎりのところにいる孤独な子の背中を押すような歌を投げかけているような気がしてなりません。そうした歌を仕掛けているのが大人でもあることを鑑みても、それでも若い世代をキャッチしなければつくれない世界観がそこにあります。さらにまた、インディーズで活動する若い世代、そういうヒット商業とは関係なしに活動し支持を受けているバンドなどの中に、その叫びに無関心であるということは、もう大人だけの世界で仲良くやるしか生きる道のない、老人教会となることを決めてしまうことにもなりかねません。
 
愛するとは、相手を知ろうとすること。現教皇の名にも用いられたフランシスコの平和の祈りを、プロテスタント教会が用いようとしないのが残念です(実は常時この祈りを壁に掲げている教会もある)。「愛されるよりも愛することを求めさせてください」との祈りが終わり近くにあります。紅白歌合戦という俗的なショーの中に、私はそんな祈りを重ねつつ、人々の叫びを聞こうとするものでした。いや、自分も間違いなく、その中でもがいているわけですが。



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