落語と説教

2019年12月22日

NHKに「落語ディーパー!」という番組があります。漏らさず見るというほどのものではありませんが、始まりに出会いちょっと見てしまうと、どんどん引きこまれていく不思議な番組です。俳優の東出昌大さんは、大の落語ファン。いえ、落語ツウでしょうか、とにかく詳しい。噺家数人を囲む輪に入り、対等に落語を評するほど知識があります。毎回ひとつの落語を取り上げ、その内容はもちろんのこと、それを誰が演ずるのが良かったか、その良さはどこにあるのかなどを、徹底的に語り合います。そこには、時代認識も理解しないと分からないような話もありますし、人間心理の機微を知り感じる心も要求されます。また何よりもこの落語がひとつの文化であるという視点に立たないと、演目を語るわけにはゆきません。つまり落語は総合的な知的営みであるに違いないと思います。落語には詳しくありませんが、関心が少しはあるため、私はこの番組が楽しいのです。
 
先日見たのは「あたま山」(関西では「さくらんぼ」)。解説はここではしませんが、実に荒唐無稽な話芸の極致で、面白くてたまらないのですが、まさかそれを映像化したものがあるとは知りませんでした。見事な映像でしたが、それはどこかシュールで怖さのようなものが感じ取られるような性質のものになっていました。噺家たちは、映像を用いませんから、言葉として話す中で自由にそれを想像してもらうわけで、もっと明るさが際立つものとなるだろうと互いに肯いていました。
 
しかし、この「あたま山」、スタジオの若手噺家たちはしたことがない、できない、という人が殆ど。難しいのだそうです。何故難しいんですか。東出さんに問われて、それぞれ考え、答えるには、荒唐無稽すぎて、観客を引きいれることができるかどうかリスクを伴うのだそうで。噺だけで想像させるには、噺そのものの語る力量が問われるわけです。話芸の厳しさを覚えます。
 
私はそのとき、子どもたちに授業をしている自分の姿を思い浮かべました。授業というのは、ひとつの落語のようなものなのです。生徒をこちらの話に招き入れなければなりません。退屈させると、授業に参加してもらえなくなります。もちろん受験など目的がありますから、生徒のほうもたいていの場合は真剣です。まして時間と費用をかけてそこに座っていてくれるのですから、授業をよく見るのも当たり前かもしれませんが、寄席にしても木戸銭は払っているわけで、それに見合う芸を見せろと文句を言うこともあるはずです。授業も、つまらない授業をすると、金返せということにもなりかねません。尤も、黙って辞めていくだけではあるのですが、それはそういう意味ともなります。
 
この問題を解決するには……何も落語のように笑わせるのが目的ではないにしろ、子どもたちに問題解決の方法を説明し、体験もさせます。しかし実際笑いもとらなければ、心を開いてもらえません。ふざけてばかりでもよくないが、ひたすら堅い話で終わることもできない。心をほぐし、そして問題も解けるようになる、そうした結果をもたらす授業が、こちらの仕事となります。その教師側の説明は、子どもたちの熱心な眼差しがあるからこそできるものであって、だからこそ伝わるものだと言えます。話は子どもたちのものになっていき、それぞれの目的へ向けて必要な糧となっていきます。生徒は基本的に、食い入るように授業を見るし、聞くことになります。いや、これはひとつの理想の形なのであって、なかなかそうできていないことなのですが、落語と授業との共通な構図があるのではないか、というのが言いたかったことなのです。
 
そしてこうなると、教会の礼拝説教もまた、同じ路線で考えることはいけないでしょうか。命の言葉、神の出来事たる説教を落語と一緒にするな、とお叱りを受けるかもしれませんが、さて、落語はそんなに下衆(ゲス)なものだと思い込んでいらっしゃるものなのか。庶民の知恵と人生をこめた噺は、私は一種の福音のようなものでもあり、また福音を語るという時の、大きなヒントになりうるものだと考えています。もちろん説教は、落ち(下げ)を狙って語るというものではないにしろ、会衆の魂に何かひとつ遺すことができればそれが命につながると確信していなければ、とても語ることができるものではないでしょう。
 
礼拝説教を聞く。そのとき、メモを取る人もいますが、多くの人はただ聞くだけです。やはりメモを取らないといけないのかどうか、そんな瑣末なことをいま考えようとしているのではありません。スタイルはどうであれ、語られる言葉を命の言葉として真剣に求めて聞いているかどうか、そこが問われているように思われます。人生最後の主日礼拝かもしれない、との思いで聞き入っているひとも、そこにはいるかもしれません。私はそういう意識でいます。それ故にまた、語るほうもそうした求めに応じて語っているかどうか、問われています。命の切実な求めがそこにあるのを感じとることができず、教案誌にちょっと自分の感想を加えるような、短い講演会で役目が果たせるとでも思っているような方はいないだろうと思いますが、実に命のない、レポートの発表のような説教や、すべて他人事でしか語れない説教を度々聞かされたことのある身とあっては、世の中にはそうした説教を形式だけ整えて礼拝としているような教会や信徒もあるかもしれない、と案じます。
 
落語を真似しろというのではありません。しかしそこには、噺を聞いてもらえることでおまんまを戴けるという、芸人の真摯さがこめられています。テレビではいじられるばかりでふざけているような「芸人」さんが、どんなにネタやキャラのために苦労しているか、日々営業のことを考えているか、ただの視聴者である私たちは忘れています。お笑いで日本中をリードしていた人が、舞台を下りればどんなに難しい顔をして考え事をしているか、そんな話もよく聞きました。牧師が、常にしかめっ面でいよなどとは申しませんが、今日もまた、命を賭けた語りを、命を与える神の言葉を、もたらしてほしいと願っています。



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