哲学の復権

2019年12月12日

息子の高校で、講演会があったということでした。私も覚えがある。有名な人が来たということでしたが、そのありがたみが分からないままに、なんか昔話しているのかなぁという程度で聞き流していたので、いまにして思えばなんとももったいないことをしてしまったと悔しく思います。
 
なんでも分子生物学の高名な人と、比較的若いけれど脳の働きで認識を説明しようとする人とがいたそうです。レポートがかかっていますから、メモを取りながら聴いていたそうですが、息子は自分で捉えたことを誰かに話すことで、自分の理解を深めるタイプで、家ではその標的は私しかいませんから、熱心に語り続けました。
 
私は直接講演を聞いたわけではありませんから、無責任に評することはできません。が、彼の話にはちゃんと筋が通っており、単なる印象ではなく、話の骨子をちゃんと捉えて聴いており、またそのことを自分の口で説明できるというのは、なかなか立派なことだと思いました。それを基に、私も少しばかり思索したとしても、悪いことではないでしょう。もちろん、その講演者たちを直接どうだと言うことは控えるつもりですが。
 
その若い脳科学の話をした方については、私は最近の流行りを見ました。脳の電気信号の実験が進むようになり、この何十年かで、脳の働きやメカニズムが、かなり物質的に説明できるように進んできているのです。そこで、科学者はどうしても思います。この脳の研究で、心が解明できるようになるのではないか、と。哲学が悩み続けてきた、主観や思考の仕組みも科学で説明ができるようになるに違いない、というふうな方向性です。
 
しかし、全てを脳の働きに還元しようとする傾向に抵抗する勢力もあります。世界は脳ではない、という根本命題を以て対抗する向きもあり、ひところの生命倫理や環境倫理の段階から、いまこの方面がホットな議論を呼んでいるのではないでしょうか。
 
もう一人のベテランの学者は、高校生にはその話の内容自体は難しかったようで、かなりその専門分野の内容を多く披露するような恰好になったようです。とくに医学的な分野では、この一世紀でずいぶん進展がありました。薬学的な処方は、かつては経験則で捉えるしかなかったのを、物質の作用として探究できるようになり、病気の原因も、昔よりずっと特定できるようになってきています。この科学はどこまで進歩するのだろうか、というような話の内容であったと聞いています。この方の理解では、発展の速度は次第に穏やかになるだろうが、科学がどこまで進むかについて非常に楽しみがあるというような気持ちがある話ではなかったかと思います。息子は、エントロピーの増大に逆行する生命の働きの話が心に留まったようでしたが、生命が何のためにあるか、を宇宙の全行程の中で位置づけるスケールの大きさに驚いた様子でした。パラダイム変換により、かつて分からなかったことが新たなフィールドで説明が可能になっていくという仕方で、科学はより真実に近づいて来つつあるのだ、というようなことを言っている印象をも受けたそうです。
 
科学を愛する少年は、科学で問題を解決できるようになることを夢見るかもしれません。しかし、科学という、一定の約束と前提に基づいて実証する因果的な説明が、すべての原理となりうるのかどうか、私には疑問があります。今後の科学の発展が、コストに基づいて方向付けられていくので予測することは難しいが、どうやら楽観的に見られているようにも感じられましたが、この時点で、この科学少年が大人になった姿に、そしてそのままその人が科学とは何かということを考察していることに、少しばかり危惧を覚えました。
 
科学とは何かを問うとき、その問いはすでにもう科学ではありません。哲学となります。しかし、そうなると、科学のフィールド内での検討とは当然違う視座が必要となります。コストがかかるために科学の研究が変わるなどという発言は、科学が、政治的に利用されるという視点を欠いたものであるように思われます。また、科学好きな少年が自分の関心に基づいて探究できるという時代ではもはやなくなり、企業の要請や経済的条件に基づいて、研究内容が操作され定められるという実情に対する警戒感が見られません。そうやって政治に操られ、原子爆弾を開発した科学者たちの歴史は教訓となっていないのです。
 
政治は、実利を求めます。その実利のために、科学大好き少年たちの関心をうまく操り、利用しようとさえします。この目的に適う研究をするならば金を出すし優遇する、そうでない分野には金を出さない。芸術に金を出すのを渋った政治家もいましたが、政治は特定の目的のために制度を変化させようとします。いまの教育改革というのもそうでしょう。どうして英語をこれほど強調するのか。外国語はいくらでもあるでしょうが、英語ができることで、諸外国一般に対して強気で交渉ができる兵隊が欲しいのではないのでしょうか。他方で日本語の読解がまずいことになっているということには余り目くじらを立てません。そして、どうして文学部を消そうという勢いがあるのでしょう。哲学など風前の灯火です。これは西欧諸国では考えられないことです。クィアの人が自分の問題を考えたくて哲学を研究する、というような実例をよく聞きます。日本では哲学は風変わりな学習に見えることでしょう。そんなことをやっても食えない、と決めつけ、ばかなことを考えずに技術を身につけよ、と学生を仕向けることでしょう。しかし、哲学は、自ら利用されようとすることを見破る視点を持ちえます。利用されていく科学の実情を指摘することができます。生物学の研究に、倫理の問題を突きつけることができます。政治の狙う意図を見破り天下に示すことができます。しかし、こういう輩は、日陰に送りたいと考える人々がいます。その権力側にいる人々に、追従するほうが楽だと喜ぶ人々がいます。
 
脳にすべてを還元して説明しようとする科学者。しかし、その科学者のその学説自体を生みだしたその人の脳は何を以てそれを知りえたのでしょうか。科学者はその脳の外部にいるとでもいうのでしょうか。そのあなたの脳はどのようにしていまその学説を語っているのでしょうか。それをもその脳の電気信号によって説明しなければなりません。こうした指摘をする役回りが、人類には必要なのです。
 
科学の方向性を決めているのは、経済的条件であり、また政府の目的であるのではないか。まず目的があって、研究課題が決められるという状況があるのではないのか。それでこれからどうなるのか。技術に仕える科学というあり方になってしまっていないか。科学自体の終焉を目論むのではなくて、このような指摘をする役回りが必要なのです。
 
宗教が、それをしたとも言えますが、論ずるのは哲学です。宗教はひとつの信念ではあっても、それに加担しない人を拘束することができません。哲学にはそれがまだ可能です。これを大学から追放しようとすることはあってはなりません。そもそも義務教育の過程から、この哲学をとことん省いてきたこれまでの日本の教育のあり方がここまで導いてしまっていたとも言えます。和していれば安心する性格は、それを指摘する邪魔者さえいなければ、うまく利用することができます。イスラエルの預言者が、権力者から見れば邪魔だったように、哲学の徒は、為政者から見れば邪魔者に違いありません。
 
かつて神の法則を自然(この概念すら科学的な立場がつくり出したとも言えるが)に見出そうとして、科学の勃興がありました。また、科学がもしも純粋に福利のために用いられていくとすれば、人の生活やつながりを善なる方向に導く力を持っているということも確かでしょう。マンガやアニメで話題の「Dr.STONE」は、科学のそうした利用法を提案しているように思えてならない(これは実によくできている、子どもたちにも大人気、とくに化学に詳しくなる)のですが、現実のいまは、国が儲かる目的、あるいは国が軍備で優位に立つ目的で、科学が推奨され、決定されていくようにも見えます。これを邪魔するものは、たとえば地球環境に関する重大な会議にも、日本はようやく環境相の演説まではこぎつけたものの、「化石賞」という、環境に対する姿勢としては最高に遅れているという不名誉な賞をも受けたほど、悪い意味で目立っています。桜とか薬物とか北朝鮮とかでは盛り上がるワイドショーですが、この会議の詳細の知らせが、もうひとつ報道されていこないような気がします。そこで起こっている少女から若者による世界的な運動も、報道があまりなされません。未来を担う当人が主張していても、その時代にはいなくなっている大人が無責任にも黙殺するのです。勘ぐってしまいますが、それを熱く報道すれば、スポンサーが付かないために報道局も抑えているかのようです。目的が先行している業界が、情報を握っていると、その情報にまた人々は簡単に操作されてしまいます。哲学は、こうしたからくりをも暴き、指摘することができるのです。
 
しかし、コロサイ書に一度「むなしいだまし事」を「哲学」だとする件があるために、クリスチャンも口々に、哲学は理屈だけの空虚な嘘だ、という偏見がまかり通っているのが実情です。しかし、それこそ信仰という名を騙る傲慢を指摘することができるものは、愛か哲学かでしかないという実態があるのではないか、と私は捉えています。
 
哲学へのリスペクトを、求めたい所存です。



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