香港とCOPとクリスチャン

2019年12月4日

先日、紅葉で有名な、太宰府の竈門神社を尋ねました。車で長蛇の列に並びましたが、先に尋ねた店に車を置かせてもらえ、少し得をした気分になりました。佐賀の九年庵や大分または筑紫の耶馬渓などの名所も、行ける範囲にはあるかとは思いますが、小さな規模でもこの竈門神社はなかなか見応えがあります。
 
小さな社の近くに、絵馬が並べられているところがありました。そこに目に止まったのが、「香港人加油」という文字、そして英語で、「自由のために戦う」ことや「君たちの味方だ」というような意味のことが書かれてあった絵馬。よく見ると、その左右には、同様のメッセージが並んでいました。
 
アジアからの観光客も多く、周囲からは中国語をはじめいろいろな言葉が飛び交っていましたから、香港の人なのか、あるいは他国なのか分かりませんが、それを見て目頭が熱くなりました。11月半ばの日付がありました。
 
中国政府の頑なな態度、と私たち自由主義諸国からは見えることでしょう。いや、しかし日本政府は態度をはっきりさせるような雰囲気でなく、桜問題で疲弊している模様。きっとこの桜問題も、ちょっとしたことに過ぎず、すぐに忘れ去られると高をくくっていたことでしょうが、言質を取られたような形で、小手先のごまかしが簡単には通らなくなっているようです。香港の問題に口出しをするのを避け、その点ではアメリカには従わないままのようです。他方で、日本共産党が明確に香港を支持する声明を出しているというのは、なんとも不思議なことのようにも見えてしまうのは、そもそも共産党という立場に対して、分かっていないが故なのかもしれません。
 
自由を勝ち取るためには、かつて無数の人の血が流されました。私たちは歴史の中からそれをどれほどに真摯に考えてきたことでしょうか。平和も自由も、与えられて当たり前のもの、のようにしか考えておらず、その意味で先日、コスタリカについての若者向けの本に心を動かされた話を述べましたが、民主主義というものについて改めて考える気持ちになりました。そこでまた、文部省著作の教科書『民主主義』をいま手にして読んでおり、相当に感動しています。不謹慎ですが、いまの政権のことを頭に浮かべると、よく当たっていてクスリと笑ってしまう場面(笑っている場合ではないが)も少なからずあります。
 
香港の学生たちも、暴力行為が目立つようになると、少し分が悪くなることもありうるのではないかと心配ではありますが、現場はとてもそんな悠長なことを言っている場合ではないのでしょう。偉そうな口をこんな遠くから利くつもりはありません。だからまた、自由を抑えようとしているように見えてしまう中国政府にも、何らかの考えがある点を否定しきれないでいるのですが、それは人権侵害を認めることになると非難されるような表明になるかもしれません。何も分かっちゃいない、と小馬鹿にされても仕方がないと思います。
 
キリスト教会のベテランの方々は、概ね中国政府を批判する立場であろうかと思います。それも、相当に厳しく、自由と人権を圧する中国政府を非難していると言えるほどであるように見受けられます。もちろん、分からなくもありません。
 
他方、いまCOP25がスペインで開幕しました。チリで開く予定が、反政府デモなどのために、10月末に急遽変更になったのでした。このために世界的にニュースになったのが、スウェーデンのグレタ・トゥンベリさん。16歳の少女は北米でチリに向かうつもりだったことが、スペインに変わって、どのようにして移動するのか困窮していたのでした。というのは、そのポリシーから飛行機に乗ることを拒否するため、このような開催地の変更に移動手段として対応できないわけです。そこで助けを募っていたら、オーストラリア人の二人の太陽光エネルギーで走る船でスペインに向かうことができました。3日にポルトガルのリスボンに入り、4日にはスペインのマドリードに入る予定となっています。
 
グレタさんは、ヨーロッパ各地で演説をし、国連でも怒りのスピーチで話題になりました。アスペルガー症候群などの診断を受けている16歳の少女が、まっすぐに訴えるその真摯な声は、世界中の若者の心を掴みました。去る29日には、世界中で一斉にデモ(グローバル気候マーチ)が行われました。福岡でも学生たちがデモをしましたが、グレタさんのFacebookでは広島の様子がシェアされており、もちろんその他世界中で子どもたち(と呼ばせて戴きます)が叫んでいる様子が伝わってきました。
 
日本は、このCOP25に参加すらしていません。そして、グレタさんの活動や子どもたちのデモについての報道が圧倒的に少ないと思います。勘ぐるに、この環境保持への動きは、経済発展に制限をかけることになるため、経済界そして政治の上でも、歓迎していないのでしょう。だから報道にもブレーキがかかる。これを大々的に奉じるテレビ局にはスポンサーが背を向けるし、公共放送にも政治的圧力がかかる……勘ぐりすぎかもしれませんが。そしてそれに乗じる「良識ある庶民」たちもまた、出る杭は打たれるという文化のままに、彼女を批判する声を皮肉混じりに発するくらいはして、二酸化炭素をばらまき続けるのです。二酸化炭素などの点では私も同じ穴のムジナです。威張れたものではありません。
 
地球環境の危機が、グレタさんたちが認識しているその通りであるかどうかは分かりません。しかし、その多くがその通りであろうと思います。少なくとも、地球環境が危機に陥っていることを否定することは不可能だろうと感じます。この危機を、危機だと見なさないことが、実は最も危機であるのではないでしょうか。クリスチャンは、自分には罪がないと自分で誇ることが、最も罪深いことであると知っています。それと同様に、ここに危機があるのに危機だと認めないで、危機と叫ぶ人を冷笑したり迫害したりする、最悪の危機が現実にあるわけです。
 
何が言いたいか、お分かり戴けたでしょうか。私たちは、あの中国政府と同じなのです。危機を訴える子どもたちを香港に喩えるなら、間違いなく大人は中国政府なのです。自由を求める若者を建前や法律で潰しにかかる権力者の姿が、地球環境の危機と未来の消滅を訴える子どもたちの声を無視している私たち大人と、重なって見えるのは、私だけなのでしょうか。私もまた、グレタさんと同じ見方をしていた、若い頃を思い起こしました。私もまた、病的であるからそうなのかもしれません。罪赦されたと信じたことから、幾多の「こだわり」からはひとつ抜け出したのは事実ですが、時折むしょうに、憤りを覚えることがあります。それが自分自身への怒りでもあることから、少しばかり複雑ではあるのですが、人を非難することばかりしているのは、クリスチャンもそうでない人も同じですし、むしろファリサイ派を批判しながら自ら同じことをしているようなところのある、クリスチャンほど、扱いにくい部類の人もいない、と思うことさえあります。環境の神学などと言えるようなものが皆無であるわけではないのですが、一向に日の目を見ないのも気になります。そしてまた、自分のことは棚に上げていると言われてもその通りだと言わざるをえない自分に、立ち竦んでいる毎日なのです。
 
 
※この日、中村哲さんの悲しい知らせを聞きました。福岡のバプテスト教会からすれば誇らしいお手本であり、祈りを共にする仲間でもありました。いや、そんな偉そうなことを言う立場ではありません。敬服するよりほかなく、キリストを見つめるような思いでそのはたらきに感動するばかりの方でした。
 
西日本新聞には、2日前に、その連載レポートが掲げられていました。その最後の部分では、「終末的世相の中」という小見出しの中で、信仰に少し触れ、アフガニスタンの首都カブールにおける近代化の中にそれを見ていることが連ねられていました。それはカブールへの批判なのか。いえ、日本はそこに書かれたこととは比べものにならないくらい、「終末的世相」そのものではないのか。私たちが問われています。私たちに、突きつけられています。これを感じない鈍感な魂ではありたくない。危機を危機として受け止めたい。なおも大したことができるわけでもなく、近代化を助長するばかりの惨めな人間である、この私であっても。




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