聖書と教会を理科の解答から見直す

2019年11月30日

タンポポの葉は、茎がほとんど成長せず、あらゆる方向に広がっていて、円盤のように並んだような形になっています。このような形をロゼットといいます。このことで、ほかに背の高い植物が生えにくいところで育つことができ、また、動物に踏まれても耐えることができるといえますが、このように葉があらゆる方向に広がっていることで、タンポポは特にどのようなよいことがありますか。「タンポポが」に続けて説明しなさい。
 
中高一貫校が各地にできています。その政治的な考えを勘ぐることもできますが、とりあえずその入試問題対策ということで、小学六年生に学習してもらうことを少しご紹介します。上の問題は私のアレンジですが、実際はストーリー仕立てで長い問題文があることをお断りしておきます。また、解答の一部は適宜アレンジしてご紹介することにしています。
 
いわゆる記述式問題であり、理科の知識も必要ですが、なによりも文章表現ということが問われています。六年生にはきつい指導となりますが、私のスパルタ(?)指導の一端をお教えします。正解もあったのですが、問題をはらむ解答がいろいろありました。  
・ロゼットという形をとっているため、葉が日光をたくさんあびることができる。
・他の植物より、多くの日光を浴びることができる。
 
あくまでも理科の問題です。入試では「理科」という区切りをとらず、「適性検査」という形で、科目も混合した状態で出題されるのが普通ですが、ここは明らかに理科の場面です。理科の答案として「あびる」はよくありません。それは、植物が恰も人間の行動をとるかのように表現する「擬人法」のひとつであって、詩的な表現で科学的なデータを表現することは、さしあたり相応しくありません。もちろん、先端科学の分野でも、さまざまな「たとえ」の表現で科学現象をあらわすことはあるのですが。
 
また、「他の植物より」は、比較の対象を間違えています。ここで比較すべきは、葉が広がっていることと、たとえば葉が立っていることとであって、タンポポと他の植物との比較をしているわけではありません。また、もし世の中でタンポポだけがロゼット形状をとっているのであればこの表現は可能ですが、もちろんほかの植物の中にもロゼットになっているものがありますから、この表現は不正確だということになります。
 
・成長するために必要な日光が葉全体にあたるようになる。
・成長するために必要なもののうちの一つの日光が、一枚一枚の葉にあたるので、タンポポがより早く成長すること。
・たくさんの日光に当たることができ、早く成長できる。
 
「育つ」はこれらの共通する「成長する」と同様の観点です。そう、生徒たちは、ロゼットの意義については、学んだことをちゃんと覚えているのです。彼らは、共に学習した授業での「日光」というポイントを、正しく理解しているのです。しかし、それを自分の言葉で短く表現するという段になると、とたんに混乱するのです。あるいは、適切な表現がとれなくなります。書き慣れていない彼らを非難するのではありません。経験が少ないと、文で表現するというのが実に意図通りにいかないということを考えたいと思っているのです。
 
葉を広げること。日光を多く受けること。ここまでは生徒は皆了解しています。しかし、これらの答案は、その目的を、成長することに制限しました。ここが問題です。因みに、植物では「せいちょう」は「生長」と書きますので、生徒たちにはその旨指導しましたが、ここでは正しく「生長」として以下記すことにします。彼らの表現だと、目的を生長ひとつにしてしまいました。しかし、そもそもかなり生長したタンポポだからこそ、葉を広げているのですから、これ以上生長することだけを強調する必要はないかもしれません。それに加え、日光は光合成に使われるものです。光合成の目的は、生長だけではないのです。植物自身が生きるためのエネルギーを生みだすためです。その使われ方の一部が生長なのであって、光合成は生長だけのためではありません。一部だけを取り上げて、それがすべてであるかのように言ってしまうことは誤解を招き、科学的な表現とは言えなくなります。だから彼らがどうしても生長のことに触れたかったとしたら、せめて生長「など」のような言い方をすればよかったのです。
 
何か書かなければ。焦りの心が、詳しい説明を施そうとして、実は相応しくない説明の言葉を加えてしまう、このような傾向が見られます。この生長も書く必要のないことです。他にも、「葉全体にあたる」というのも不正確です。根元のほうは重なっている部分があるかもしれません。また、当たるのは葉の表だけです。葉全体というなら、裏にも当たるように聞こえます。「一枚一枚の葉にあたる」というのも問題です。なぜならば、葉が立っていても、一枚一枚の葉に日光は当たるからです。ロゼットが何と比較されているのかということの説明になっていません。
 
「早く」生長するというのも不正確です。タンポポの生長自体は時期的な要素が強く、日光が当たらない植物もひょろひょろと背が高くなるもやしのような現象を考えれば分かるように、早さと遅さを問題にするというのも、適切ではありません。
 
最初の生長「しやすくなる」だけの答えは、究極の目的をぽんと置いただけです。あまりにも漠然とした、先々の目的を言っただけですから、ここで求められている説明にはなっていません。こうすると、生物のからだのつくりの理由は、と問われて「生きるため」とでも言っておけばすべて正しくなりかねません。チコちゃんに叱られる!の番組は、この問いと答えのバランスをちょっと崩したところに面白さがあり、通常理由に仕立てないところを理由に持ち上げているのが面白いのですが、理科ではそのあたりの駆け引きが確かに難しい面がありますので、あまり決めつけるようにはしたくないのですが、やはりあまりに広範囲に当てはまる解答は、正解とするわけにはゆきません。
 
気になる正答ですが、もちん一例に過ぎないのですが、たとえばこのようになります。
 
タンポポが  (光合成に必要な) 日光を、より多く葉に受けられること。
 
葉を立てるよりも、などと添えればさらに正確さが増しますが、比較していることが表現できていること、それからできれば問いに応じて、文末は「こと」が望ましいと思います。
 
さて、長々と退屈な、関心もないであろう理科の話をしてきました。が、これらは日本語の表現の問題だということは、感じられたことだろうと思います。去年あたりから、この日本語の論理のことが大きく話題になっています。新井紀子さんという、AI開発と教育に関わっている方が提言した二冊の本です。『AI vs. 教科書が読めない子どもたち』『AIに負けない子どもを育てる』ですが、こちらは読解という領域ですが、短い日本語の文の正しい意味が実に読みとれないという状況を指摘していました。
 
私は、聖書の読解にも、これを意識できるのだと考えています。そこから教義や神学という分野にも、この考えを適用して然るべきだと考えているのです。
 
擬人法のことを言いました。理科の場面で相応しくない表現をとるべきではない、と。神学において、あまりに詩的な、また象徴的な表現をとると、考えていることが正確に伝わりません。聖書本文自体は豊かな表現をとるべきだと思います。しかし一定の解釈的学説になるときに、曖昧な雰囲気で、自分の考えを伝えたつもりになると、誤解と無駄な批判を呼びます。
 
比較の対象を間違えている例を挙げました。たとえが誰に対して言われているのかを無視した理解が見受けられます。イエスの教えが、またパウロの主張が、抽象的なアフォリズムとしてそこに示されているわけではありません。イエスの発言すら、それが弟子たちに向けて言っているのか、律法学者に向けて言っているのかでは捉え方が変わってきます。もちろん、そのように設定した福音書記者の意図を考えるにあたっても同様です。エルサレム教会とパウロとの確執を比較の実例に数えながら読むだけでも、一つひとつの言葉が違った意味に聞こえてくることでしょう。
 
生長という目的に制限してしまった例が多々ありました。これは聖書解釈でもよく起こります。これが神の意図です、この聖句の意味はこうです、と私たちは自分が気がついた意味を大きく掲げます。しかしそれが、目的のすべてであるかのように取扱い、他の解釈を排除したり無駄に対立したりしていることが多いのです。この聖書の言葉はこの意味だ、と決めつけるとき、私たちは大きな目的を忘れ、自分の気づいた目的だけに限定して捉えてしまっています。神のすべての意図は計り知れないものです。だのになんとしばしば、これはこういう意味である、と他人に押しつけるようなことをするのでしょう。他人の考えを否定してしまうのでしょう。象の一部に触れただけで、象のすべてが分かったような考え方をしてしまう愚かさの中に、私たちはずっと居続けているのかもしれません。
 
聖書の言葉は、私個人が感じた程度の意味しかもたないのではありません。しかしまた、私個人に投げかけられたその意味も真実ですから、私はそれを握り締めることができます。いえ、握り締めなければなりません。それでいて、その意味だけを唯一の意味として、他人に勧めるわけにもゆかないことを弁えます。昔気質の牧師の中には、このタイプがいました。これの度が過ぎると、牧師が信徒を操り、支配するようになっていきます。ワンマンぶりが魅力的であるという部分もありますが、それでは信徒はもちろん、その牧師にとってもスキャンダルとなってしまいます。
 
書かずもがなのことを書いて不正確になる例もありました。聖書について、行き過ぎた解釈を施すことで、理解が逸れていくことがあります。また、教えられた他人が誤解していく可能性があります。また、よけいな例を挙げることによって、傷つく人が現れたり、教会を去ったりすることも考えられます。これは語っているほうが気づかないことが多いので難しい問題です。「天の父なる神よ」との祈りが耐えられない人も世の中にはいます。父親から虐待を受け続けて苦しんだ人は、この祈りを決して受け容れられないかもしれません。そんなことまで……とお思いかもしれませんが、私たちは、男女の恋愛を当たり前のように講壇から語り、親が子を愛するように、とそれが当然のように話すし、自分に与えられた喜びを、それが与えられない人に向けて語り続けていくものなのです。
 
早いかどうか分からないのにそう書いてしまったものもありました。自分の抱いたイメージで、実は正しくないことを恰も正しいかのように言ってしまうことがあります。きっとそうだ、きっと神はそう思っています、と自分の願望を神に投射(投影)することがよくあります。神はこのように思うはずです、などと。人間の心情に起こりやすいことですが、人が人に対してこれを行うことにもしばしば問題があり、決めつけるなよ、と文句を言われるわけですが、それを大それたことに、また即座に否定されないことから、神に対してやってしまうのです。
 
究極の目的をぽんと答えたものがありました。途中経過を問題とせず、究極の目的を告げて終わりにしてしまう誘惑が、キリスト者にはあります。それも神の恵みです、とひとの苦難を聞きたくないのでケリをつける。神は愛です、と言って一切の疑問を否む。とにかく神を信じましょう、と悩み相談を片付ける。どうですか。心当たりはありませんか。相手がいま手の届くところで何を求めているかには関心を寄せず、「信仰です」と終わらせてしまう返答ほど、冷たいものはありません。そして、多分に間違っています。
 
私たち自身の姿は、世の中のあちこちに転がっています。私たちの意識の届かない、自身のあり方、考え方というものに、気づく機会を設けたいものです。これを、哲学と呼ぶのであれば、大いに哲学をして戴きたいと思うのです。



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