【聖書の基本】岩

2019年11月24日

わたしのこれらの言葉を聞いて行う者は皆、岩の上に自分の家を建てた賢い人に似ている。(マタイ7:24)
 
長い山上の説教のコーナーを終えるにあたり、マタイはこのテーマを選びました。締め括りには人は気を使います。いよいよ最後には「彼らの律法学者のようにではなく、権威ある者としてお教えになったからである。」(7:29)と結びますから、イエスの権威をここに示したかったのでしょうが、人口に膾炙した言葉が多く並ぶこの教えの集まりは、ともかくも「岩を土台としていた」(7:25)が故に倒れない家を建てた賢い人と、砂地の上に家を建てる愚かな人との対比で幕を閉じます。建物を建てるのに、土台がどんなに大切かは、素人でも想像がつきますが、建築現場をご存じの方は、この土台にどれだけの勢力を注ぐかを噛みしめていますから、イエスの言葉のリアルさがより伝わるだろうかと思います。
 
このイスラエルの環境では、土台としてコンクリートを流し込むようなことはできませんでしたでしょうから、天然の岩を用いることがベストだったことでしょう。ルカの並行箇所では、「それは、地面を深く掘り下げ、岩の上に土台を置いて家を建てた人に似ている。」(ルカ6:48)とあるように、地面を深く掘り下げた描写がなされています。かの土地では、あまりに文明が古くからあったので、昔の都市の跡は、砂や土で埋もれ、丘のようになり、その丘の上に次の都市ができ、さらにその都市が滅んで埋もれ、また高くなった丘の上に次の都市が建てられる、というような構造になっていました。そのため遺跡は層状に見つかることになります。このような丘を「テル」といいます。いまイスラエルで一番有名なそれは、テル・アビブでしょうか。日本赤軍が1972年ここの空港で、死者だけで26名に及ぶ乱射事件を起こしました。テロリストが無差別に一般市民を襲撃した、恐らく初めての事件ではなかったかと思います。
 
さて「岩」に戻ります。できるだけ完結にお伝えするために、箇条書きを心がけます。
 
・岩は神である。
詩編で神は「救いの岩」(詩編89:27)と呼ばれ、頼るべき頑とした基盤であること、頼るべきものとされます。「神のほか我らの岩はない」(サムエル下22:32)のようにも言われています。
 
・つまずきの岩
「主は聖所にとっては、つまずきの石/イスラエルの両王国にとっては、妨げの岩」(イザヤ8:14)と、イスラエルの中心勢力が、イザヤの預言を蔑ろにすること、つまり主の言葉に敵対することで失敗することを告げていましたが、今度は新約聖書の随所でキリストがその岩として、律法を頼るエリートたちの失敗を招くものとなるように扱われます。  
・水を出す岩とキリスト
主は出エジプトの途中で、水をと要求する民のために、岩に向けて水を出せと命じよと言ったのに、「モーセが手を上げ、その杖で岩を二度打つと、水がほとばしり出たので、共同体も家畜も飲んだ」(出エジプト20:11)という話がありました。おそらくこれが主の逆鱗に触れ(?)モーセは主に従わないとして、約束の地に足を踏み入れることなく死ぬこととなったことがよく知られています。この場面はパウロもコリント一10:4で触れています。
 
・弟子ペトロの渾名
「わたしも言っておく。あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる」(マタイ16:18)という邦訳だけではピンとこないかもしれませんが、「岩」はギリシア語で「ペトラ」といいますから、シモンに渾名をつけるとき、イエスは「岩ちゃん」のような名をつけたことになります。
 
・教会を建てる岩
今の「わたしも言っておく。あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる」(マタイ16:18)というところには、岩の上に教会を主が建てるというフレーズが見られます。これをいま一度噛みしめて、この学びを終えることにしましょう。
 
もちろん、カトリックにおいては、この故にペトロをカトリック教会の重要な基礎と見なしており、初代教皇がこのペトロと見なすことになっています。ペトロの上にカトリック教会が建っているからです。事実イエスも、ペトロたる岩の上にキリストの教会を建てると宣言しています。しかしまた、岩はキリストでもありました。ペトロの役割を過小評価するつもりはありませんが、やはりそこはキリストを見たいと思います。ペトロもまた、そのキリストの救いを受けて、神の霊を以て福音を伝え、信徒をまとめる初代教会のリーダーへと成長していったのです。キリストあってこそのペトロでしかないわけです。
 
しかしさらに注意すべきは、この岩の上に教会を建てるという言い方はマタイだけでなされており、そして山上の説教もまた、マタイのなせる業だったということです。「岩の上に自分の家を建てた賢い人」という岩をペトロだとするのは無理があるでしょう。キリストならば分かります。そして「岩を土台としていた」故にそれは倒れなかった、というのならば、それはキリストを土台とするよりほか考えられません。それならば、この家とは何でしょう。そして、ここに「教会」を建てるというのはどういうことか、について私たちは真摯に考えなければなりません。
 
他方、その教会を形成する一人ひとり、そう、あなた自身がまた、キリストの岩の上に建てられなければならないことについて、パウロが記しているところがあります。第一コリント書の3章です。
 
3:9 わたしたちは神のために力を合わせて働く者であり、あなたがたは神の畑、神の建物なのです。
3:10 わたしは、神からいただいた恵みによって、熟練した建築家のように土台を据えました。そして、他の人がその上に家を建てています。ただ、おのおの、どのように建てるかに注意すべきです。
3:11 イエス・キリストという既に据えられている土台を無視して、だれもほかの土台を据えることはできません。
3:12 この土台の上に、だれかが金、銀、宝石、木、草、わらで家を建てる場合、
3:13 おのおのの仕事は明るみに出されます。かの日にそれは明らかにされるのです。なぜなら、かの日が火と共に現れ、その火はおのおのの仕事がどんなものであるかを吟味するからです。
3:14 だれかがその土台の上に建てた仕事が残れば、その人は報いを受けますが、
3:15 燃え尽きてしまえば、損害を受けます。ただ、その人は、火の中をくぐり抜けて来た者のように、救われます。
3:16 あなたがたは、自分が神の神殿であり、神の霊が自分たちの内に住んでいることを知らないのですか。
 
ここから、三びきのこぶたのお話ができたのだと言われています。こぶたたちがそれぞれ建てた家は、わら・木・れんがであったでしょうか。さすがに金銀宝石で家をこぶたが造るのは無理でしたから、れんがにされたんでしょうね。私たちは、神に愛されて建てられています。どこに建てられていますか。もちろん、キリストの上です。私たちはただ遊びに、気紛れに教会に来てわいわいやっているわけではありません。一人ひとりの信仰が、砂地ではなく、岩の上である、その前提で神の建物として置かれていたいものだと思います。それはもう、神が住まう神殿でさえあるのです。



沈黙の声にもどります       トップページにもどります