若者たち

2019年11月16日

香港の動きが止まらない。緊張が続き、かなり危険な状態が続いているといいます。政治的な主張について何かをここで軽々しく述べるつもりはありません。それぞれに考えがあり、どちらもが正義であると自らを考えるからこそ、ぶつかっているのであり、できるならば穏やかな解決がなされることを強く望むばかりです。
 
それは無責任な態度であるかもしれません。どちらかに与しないで高みの見物をしているとなると、実のところ権力側の味方をしていることになるのだ、と言われても仕方がなくなります。傍観者の無責任さも感じます。まさにどうしてよいか分からない事態です。権力側の企図に抵抗する若者にも声援を送りたいところですが、他方で暴徒と化した現象もあり、市民生活を衛るための警察側の働きを否定することもできません。ともかく火の点いた争いは収まるところを知らない、というのも確かで、遠くから見る者として胸が痛みます。
 
ここでいま少し目を落としてみたいのは、若い世代の力ということです。香港の場合、中国に返還される前の状態を知らない世代が表立っている側面もあるのでしょう。
 
日本でも、高校生世代が注目されます。11月6日には、東京都内の高校生らが、大学入学共通テストについて中止を求める書名を文部科学省に提出したというニュースが流れました。自分たちのことを自分たちで考え主張するという動きに、何万人もの書名が集まったというのです。ですからこれは、英語の制度を改めるという発表がある遙か前から起こされていた運動であったことになります。また、津波への備えを北海道の高校生4人が国連で提言したというニュースも、同じ日に流れました。
 
しかしなんといってもいま世界で一番有名な高校生は、スウェーデンの16歳の高校生、グレタ・エルンマン・トゥーンベリさんでしょう。残念ながら彼女から見れば私は悪の権化のような存在であるのでしょうが、私は彼女の言動を少し知るにつれ、ずいぶんと懐かしい思いがしたのも事実です。というのは、私もかつて彼女と同じような方を向いていたからです。
 
厭世的でもありました。生きていくのは何のためか。人間は、というより私が、資源をただ浪費し、地球環境を破壊しているに違いないということばかり考えていました。あまりその辺りを露骨に書くと一部の人に悪影響を与えるかもしれませんから割愛しますが、人間はバカだと考えていました。自分で自分の首を絞めているのに何故そんなに自分の利益のことだけを考えていられるのか、理解できませんでした。自分の説を懸命に主張しようともしましたが、当時はインターネットもなく、自分のノートにかきつけるばかりでした。そのうち、作詞作曲ということができるようになり、その中にぶつけるようになりましたから、いくらかは生産的な道ができたと言えるのかもしれません。
 
グレタが、自分の知ったこと、そこからどうなるかということをきちんと捉え、それを真っ直ぐに主張しているのは、SNSの力の故にできた面もあるし、支えられた面もあることでしょう。また、それの故に、バッシングも受けたのかもしれません。しかし、最初拒食症になるほどに環境問題が自分の中に溶け込むような感覚があったらしいことなど、私は分かるような気がします。その意味で私もとんがって、哲学に勤しんでいたのかもしれません。彼女のように一途になれなかったのは確かですが。
 
先日は「10代が社会を考え、意見を言ったらダメですか? 春名風花さん、今井紀明さんと考えます」というハフポストの記事が目を惹きました。これもグレタのことから記事が始まっていたのですが、「子どもが意見を言うと、意見の内容とは関係がない部分まで攻撃されることがある」ことを体験してきた春名風花さん(18歳)が、大人が子どもに要求しているものは何かを明らかにしようとしていました。また今井紀明さんは、認定NPO法人の理事長ですが若い男性で、「ひとりひとりの若者が自分の未来に希望がもてる社会」を目指して活動をしているのだといいます。記事は、「今を生きる10代が少しでも生きやすく、その意見が1人の個人として尊重され、社会に反映されるように」と結んでいました。
 
いまのおとなたちも、戦後を生きてきたのならば、相当に親世代を否定し、時に小馬鹿にして反抗しながら成長してきたことでしょう。もちろん世代的に程度の差はあります。学生運動をするのがよいなどというつもりはありませんが、自由を求め社会を変えようとする気概は、今の香港に劣らずエネルギッシュだったのかもしれません。今の日本の若者はそういうふうには行動しないものと思われますが、それでも、高校生などの考え方に触れるとき、彼らが非常に世の中のことが見えていると思うことがあります。なにせ情報量が違います。頭でっかちになることや、自分本位の優越感めいたものを懐くことなどのリスクはありますが、自分の中だけからは決して出てこない多彩な視点を得ることができ、またネット上で意見を交わせるという豊かな経験も踏まえて、それでいて世の中が分かったふりをするという意味でスレていない、どこか純粋な考え方のために真っ直ぐな主張をしてくる、そんな様子を見る思いがします。
 
また、概してポライトで丁寧な言葉が使える子が多くを占めるようにも見えます。昔の学園ものアニメ(昔はマンガって言ってましたね)だと、ちょっと乱暴な口のきき方をする主人公が多く、権威に従わないプチ不良みたいなあたりがカッコよいと見られていたような気がするのですが、最近では、ごく一部を除いて、アニメは友だち同士でも実に敬語のオンパレードです。だから「天気の子」の帆高くんがワルをしてしまうところに意外な魅力を感じたのかもしれないし、それでもなお帆高くんは丁寧な喋り方に終始していたことも思い起こされます。
 
若者たちを、籠の中の虫のように観察するようなつもりはありません。いろいろ教えられます。でもまた、教えなければならないことも多々あり、彼らの素直な思いを尊重する一方、多彩な視点に気づいてもらわなければならない、とも考えます。公民の授業では、君たちに私の老後がかかっているんだから、頑張ってくれ、などと言って笑わせたりもしますが、まんざら冗談でもないつもりです。彼らを育てなければならない、という思いを、上から目線でなしに、務めたいと願っています。そして、直接それができない香港の若者たちや、世界で大人の理不尽な圧政に喘いでいる若者たちのうちに、相応しい助けが与えられること、そして心身に傷をもう負うことがなくなってほしいことを望みつつ、今回の筆を擱くことにします。



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