【メッセージ】平和を道具とするのでなく

2019年11月10日

(ゼカリヤ9:1-10)

諸国の民に平和が告げられる。(ゼカリヤ9:10)
 
平和について考える機会としました。現代の私たちにとり、平和は重大な課題であり、それが脅かされるということは、通常の経済的損失ばかりでなく、生命の危機でもあるといえるでしょう。どうしてか。平和でない状態というと、私たちは何を考えるか、それはあの忌まわしい「戦争」であるからです。
 
しかし、「平和」の対義語が「戦争」であるというのは、必ずしも適切ではないように見えます。身近に考えてみても、私たちはこの数十年、戦争の中にはありませんでしたが、だから平和だというふうに言えるか、疑問があります。国家という前提があり、宣戦布告という手続きを経て初めて「戦争」となるのだとしたら、それだけが平和の反対ではないことは明らかです。小さなケンカであっても、またそれを引き起こす原因ともなる、憎しみや妬みなどの感情もまた、平和の対極をなすものとして捉えることが可能でしょう。だからこそ、マタイの福音書の山上の説教で、あれほど動機が問われたのではないかと思います。
 
ゼカリヤの預言について、新約聖書に引用された有名な個所が開かれました。地中海周辺の地名が多く出され、それらがやがて主によって裁きを受け、滅ぼされるという預言が残されています。なかなか陰惨な表現もあり、戦争を直接経験していない私のような者にとっては、できるならばこのような表現からは目も耳も背けたいという思いに駆られます。
 
ですから、と言うと言い訳のようですが、この裁きについて、またその地名について、ここで調査して物知り知識を提供しようなどとは考えないことにします。ただ、一定の歴史理解は必要です。ユダヤの周囲の国々が、これまで圧迫してきた歴史がありました。大国に痛めつけられたのは当たり前ですが、周辺の小さな国々もイスラエルをずいぶんと苦しめてきたというわけでしょう。如何にもというような強敵に相対したのではなく、むしろこれくらいは負けるものかと思っていたような小国に、辛い目に遭わされてきたのではなかったでしょうか。
 
そこへ、ついに切り札が飛び出します。「娘シオンよ、大いに踊れ。娘エルサレムよ、歓呼の声をあげよ」と、シオンの丘とはエルサレムのある場所であり、指しているものは同じとしてよいかと思います。このエルサレムの都に、喜びの知らせがもたらされます。「あなたの王が来る」というのです。王の到来は、民衆にとり希望の星でした。プロ野球の試合で、抑えの切り札になる投手が九回裏に登場すると、場内は盛り上がります。もうこれで安心だ、この試合は勝てる、と期待します。エルサレムに新しい王が登場すると、人々はそれにも増す期待で沸き返るというわけです。
 
もちろん、キリスト教会はこの王をイエスに見ています。なんといっても福音書が、この箇所を、イエスのエルサレム入城のBGMのように使っていますから、誰しもこれはメシアのとうじょう、「つまり」イエスのことを書いている、と理解するわけです。けれども、旧約の預言者がそれを想定していたとするのはやはり無理です。また、元々の書かれた文脈や意味を顧みることなく、これはイエスのことだ、と決めつけてかかると、旧約聖書の読み方としては危険なことにもなりかねません。それがキリストが現れる預言であったという前提をもちながらも、では元来どういう意味で記されたのかをまるで考えないということは、自分の理解をテクストよりも優先するというあり方を進めることになるからです。
 
ところが、世間の説教を見るかぎり、ゼカリヤ書が何を言っているかについてこの箇所で言及するものは、探してもなかなか見つかりません。すべてと言ってよいほど、イエスの入城のことしか言わないのです。これでは、私たちの思い込みや希望だけを突き進めることにしかならない可能性があります。平和とは、自分の思いを唯一正しいとすることから自由になることではないかと私は思うのです。
 
基本的には、ペルシア勢力の支配の中から、アレクサンドロス大王が来て解放してくれる、あるいはしてくれた、と理解する説が有力であろうかと思います。しかしこの直後に「わたしが引き絞るのはユダ/エフライムもわたしは弓として張る。シオンよ、わたしはあなたの子らを奮い立たせ/あなたを勇士の剣のようにして/ヤワンよ、お前の子らに向かって攻めさせる」(9:13)というように、ヤワン(イオニア人)という言い方でギリシア人に抵抗していきますから、あくまでもイスラエル中心の世界観で通している様子が窺えます。
 
さて、ここで目立つのは「わたしは」です。もちろん、これは預言者ゼカリヤのことではなくて、主なる神が、ということです。このように神を主語として語るというのが、預言者のひとつのスタイルです。また、そのようにして神に成り代わって神の言葉を預かって告げるという意味から、預言者と呼ばれるということも併せて確認しておきましょう。
 
そして、この「わたし」なる主は、黙示録のように余りにも酷くはありませんが、周辺地域に裁きをもたらし、「主はその町を陥れ、富を海に投げ込まれる。火は町を焼き尽くす」(9:4)のようなこともしています。こうして「戦いの弓は絶たれ/諸国の民に平和が告げられる」(9:10)のです。いくら、戦車や軍馬を絶つとはいえ、またそうやって戦争の手段がなくなるとはいえ、この「平和」を勝ち取るためには、決して平和ならざる手段が取られたということに、注目してみたいと思います。
 
「平和」という言葉で私たちは、何事もない、波風すら立たないような穏やかな小春日和のような風景を想像しないでしょうか。皆にこやかで、心安らぎ、のほほんとしていられる状態をイメージすることはないでしょうか。中には、何もせずに待っていれば訪れるもの、というような感覚をもつ人もいるかもしれません。しかし聖書の世界でいう「平和」という考え方は、それとはだいぶ違うようです。「わたしが来たのは地上に平和をもたらすためだ、と思ってはならない。平和ではなく、剣をもたらすために来たのだ」(マタイ10:34)や、「あなたがたは、わたしが地上に平和をもたらすために来たと思うのか。そうではない。言っておくが、むしろ分裂だ」(ルカ12:51)のように、イエスが平和をもたらすときにむしろ暴力が現れるという覚悟を、聖書を読む者は懐いていたかもしれません。それだから、というわけではありませんが、中東で「平和」とはむしろ積極的にぶつかって対立や争いを経て後にもたらされるものという理解があると言われています。
 
『平和ってなんだろう』(足立力也・岩波ジュニア新書)という本があります。「軍隊をすてた国」コスタリカについてのレポートです。政治的・歴史的な経緯からはじめ、現地の人々が子どもからきちんと考えている、民主主義と平和についての捉え方が紹介されます。その中でも最後に強調されていましたが、「消極的平和」と「積極的平和」とを分けて考えることがあります。「消極的平和」は、たんに戦争状態ではないという意味のことを言います。政治的にはこれを目指すというのがまず、紛争解決のために目されることになります。他方「積極的平和」とは、貧困や差別や抑圧による不自由などを解決することを言います。
 
こうなると、現代では、聖書の時代に当然視されていた、攻撃によりもたらされる「平和」という観念を、乗り越える考え方も育ってきているようにも思われます。日本が平和憲法云々を誇るのも結構なことですが、本音と建て前の如く、強力な軍隊を現に有しているのと違い、コスタリカはそれを中南米という紛争の多い地域で、実現しており、なおかつ平和に暮らしているのです。もちろん、貧困問題や女性差別問題など、コスタリカ国内に抱える問題は様々あります。平和が実現されているとは言えないだろうと思います。ただ、そこには、私たちが自分に向けて言い訳のように掲げている「平和」についての都合の好い考えを破壊するような実践があると見るべきではないでしょうか。
 
私たちは、「平和」という言葉をすら、自分を正当化するために利用するのに長けています。自分が強くあるように、あるいは自分の考えが正しいと権威をつけるために、私たちは「平和」という看板を体よく利用しがちです。「平和のために核兵器を有するべきだ」「平和のために軍備費を増大させなければならない」という命題は、平和が主役ではなくて、平和という、人々が食いつきそうなエサを掲げて、それを利用して、自分の思い通りに進めようとする声のように聞こえはしないでしょうか。
 
「平和主義」を掲げる憲法第9条が、日本の平和を守る妨げとなっている。皮肉な話だが、この点に気づいて憲法改正を実現しなければ、いつまでたっても平和を保つための抑止力を整えることは難しい。(2019年11月3日 産経抄)
 
「平和」という概念が巧みにすり替えられていることに、人々はなかなか気づかないでしょう。「平和」という語が三度出てきますが、それぞれ異なります。最初は、理想的な平和、次が日本の利益、最後は一触即発を孕む破滅寸前の状態を指すのです。同じ語を並べながら、尤もらしいことを騙って、それが正義だと思わせるように仕向ける言論の責任は大きく、またその魂胆を見破る知恵をもたなければなりません。ひとは、正義のためなら何でもできるのです。正義の折り紙をつけることにより、万人を従わせることになるのです。
 
これは、用心しなければなりません。「平和」といま言ってきたことを「神」という語に換えると、教会の歴史がこれまでやってきたことに相当する場面が多々あるからです。神のためにどんなに残酷なことをしてきたか、いまなお神のためと言いながら自分では気づかずに、様々な人を差別し、圧迫しているか、数知れないものだと私は捉えています。神の名を利用して自らを正義にしてしまうことほど、恐ろしいことはありません。
 
そして同様に、平和の名を利用して、平和を自分の道具として使うことに、自分自身用心しなければならないし、また、権威ある者がそのようにしていないか、目を覚ましていることが肝要だということになります。
 
最後に、イエスの姿に全く触れないままに終わるのも味気ないので、言及しておくことにします。「見よ、あなたの王が来る。彼は神に従い、勝利を与えられた者/高ぶることなく、ろばに乗って来る/雌ろばの子であるろばに乗って」(9:9)という箇所は、イエスがエルサレムに入るときの応援歌でした。ここに「ろば」が登場します。それが軍馬ではなく、ろばであることから、平和の象徴というイメージで見られることが多いようです。
 
しかしろばは必ずしもおとなしくはありません。海の中道海浜公園にろばがいますが、しきりに鳴いているのを見たことがあります。動物園の動物のストレスは大きいものと思われますが、鼻息荒く、明らかに苛ついているときもありました。ろばだから平和、と決めつけるのもどうかと思います。また、ろばに乗るという姿は、見方によってはあまりに滑稽です。果たして軍馬ではないからそれでよかったのでしょうか。
 
調べてみると、どうやらこの「ろば」しかも「子ろば」というヘブル語にひとつのヒントがありました。ヘブル語には、母音が違うだけで子音の並びが同じという語がいくつかあります。日本語でもひとつの漢字にいろいろな読みがあるようなものでしょうか。この「子ろば」と同じ綴りの語にはほかにも幾つかあって、たとえば「保護する・揺り動かす・起き上がる」のような意味の語があり、他に「町」「衝撃」のようなものも見られます。必ずしも温和な動物だから、というのでなく、このような言葉のもつ豊かなイメージを、預言の書が伝えることがしばしばありますから、ここでも新約聖書の記者も当然ヘブル語の元の引用を意識しているという前提から言いますが、町に衝撃を与え揺り動かし、あるいは起き上がらせる者として、しかも護るはたらきをなす者として、イエスがその姿を衆目に現した場面に、相応しい演出であったと言えるのかもしれません。
 
このイエスにしても、平和ならざる処遇に遭わされるのです。残酷な十字架を経なければ、その平和はもたらされませんでした。平和が実現されるためには、とてつもない犠牲が必要だったことになります。もちろん、だから平和のための戦争を肯定するべきだなどと言うつもりはありません。そうではなくて、平和をつくる神の子がここにいたということを、誇らしげに指し示すと共に、自分を平和の道具として用いてほしいと願う祈りをささげるばかりです。自分が、平和を道具にしてしまうようなことがなく。



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