【聖書の基本】神の国と神の義

2019年11月3日

何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。(マタイ6:33)
 
有名な言葉です。但し、「神の国と神の義」という理解はそれでよいのですが、有力な(つまり信頼の度合いの強い)写本では「国と彼の義」となっています。ただ十戒の第三「あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならな
い」を守ろうとする意識が強いため、マタイは、旧約の引用やイエス自身の語る言葉のほかは、「神」という言葉を「天」と言い換えて記すことが多い人です。そのため、元の文が「国と彼の義」であっても納得がいくところです。しかし数から言えば圧倒的に「神の国と彼の義」と書かれているとのことです。
 
神が誰を指しているか、についてはさしあたり周知のこととしましょう。では「国」とは何でしょう。「義」とは何でしょう。なんとなく分かったような気持ちで読んだり歌ったりしているわけですが、しみじみ考えてみると難しいものです。そこに黙想が加わり、また一人ひとりが生きる現場でその都度考えを深めて受け止めていけばよいものと私は思いますが、基本的な理解はある程度必要だと思われます。
 
まず「国」ですが、死んだら行くところ、というような説明しかできないと、クリスチャンとしてはちょっとどうかな、と思われてしまいます。これは国土を指しているものとするべきでなく、よく「支配」という語で理解するように促されます。神が王である王国であるとするなら、この王の命ずる法が適用されるところは全てその「国」に属します。その法に反する者は王の権威によって罰されるし、また褒章を得るようなこともあるでしょう。何事もその王の名のもとに営まれ、その権限が作用する、それがこの「支配」であり、「国」という言葉が表している内容です。だから、神の国に属すると言いながら、神の法に背を向けているならば、それはその国にいるとは言えないことになります。
 
次に「義」ですが、これは簡単には述べにくい難しい概念であるかもしれません。元来「まっすぐなこと」を意味する語であるそうですが、そこから、しっかりと立つイメージをももたらします。日本語だと当然「正しい」という意味が強く感じられますし、事実それを有していることは確かなのですが、これを倫理的あるいは道徳的な正しさや正義というものという目で見ると、誤解をすることになるでしょう。ファリサイ派などが、律法に従うのが正しい人間だと考えて行動していたことを、イエスは徹底的に非難し、対決しました。正しくあることを示す倫理的な概念であるというよりも、神とのつながりが適切であるという「関係」の概念としてこれを受け止めてみてはどうでしょう。
 
私たちは「信仰」をしていると言われています。しかし原語ではこれはむしろ「信」という程度の意味であり、新しい聖書協会共同訳の聖書では、かつて「イエス・キリストを信じる信仰」のように訳されていたフレーズを、思い切って「イエス・キリストの真実」のような訳し方に替えました。これで従来の説教は様変わりすることになるでしょうが、これはどちらが主体になるかにより、同じ「信」の語が別の日本語になってしまったというわけです。
 
これを踏まえるならば、「義」というのは、神と人間との関係が適切であるということであるということは、互いの「信」の関係が成立しているというふうに考えることもできます。神がまず私を信頼し、神の求めに応えてくれるものと考えた。御子イエス・キリストを十字架に架けることで私たちの救いを実現した。私はその神の愛を知り、それを受け止め、それに応答するように「信」を返した。こんな図式が成り立つことになると思います。これにより、かつて分断されていた神と人との関係が結ばれたのだとすれば、その関係が「義」であるというのならば、この「義」は私たち人間の側から見れば、まさに「救い」として捉えて然るべきものとなります。それで、聖書のすべての「義」がそうだとは言いませんが、時に、「義」の部分を「救い」と読み替えてみると、理解しやすくなる場面があるものと言われます。また、「義」が扱われる箇所では、しばしば「真実」「まこと」にも言及されます。これは「信」であり、また「真」でもあるわけで、こうして「救い」という言葉が立体的に私たちに響いてくることができるような気がします。神との関係が適切に成り立っている姿、そこにこそ「救い」が成り立っています。このとき、その神を私たちはアバ父と呼び、恐れるべき対象として震えているのではなく、温かな関係の中に安らぐことを、私たちは想定しているように思います。
 
実のところ、私たちは罪の故に、裁判において有罪とされることが元来決定的です。しかしその罪を、御子イエスが犠牲になることによってもう処罰は終わったとして、無罪放免としようというのがキリスト教の根底の救いであるわけですが、これはいわば法的には無謀なことをしていると言うことができます。罪ある者を罪と定めないで無罪にしてしまう判決というのは、表面的に考えれば不正です。たとえ貧しい者でも法を歪めて助けてはならない、と律法はうるさく告げています。しかしその罪を赦すということがなされた、これがキリスト教の強みです。赦しなく裁き合う世界、自分のほうが正しいぞと相手を責め痛めつける世界を変える力をもつキリスト教の掟が及ぶ領域、それを「国」と呼ぶならば、ここに神の「義」と「国」の考えが結びつくことになります。神の「義」は、法に違犯した者が直ちに否定されるのではない、赦しが及ぶところに作用する原理です。それは確かに「救い」と呼ぶに値する出来事であろうと思います。
 
最後に、少しファンタジーをお見せしましょう。ここに、理想的な学級があるとします。先生と生徒の関係はまさに信頼の中にあり、羨ましいくらいにうまくいっています。
 
このクラスを仮に3年1組だとしましょう。私は3年1組の一員です。この「3年1組」とはどこのことでしょう。その教室内だけが3年1組でしょうか。運動場で体育の授業があっているときにも、それは3年1組のはずです。休み時間で一人ひとりばらばらの場所にいても、学校内にいれば誰もが3年1組の一員です。それどころか、放課後家に帰っても、私は3年1組の一人です。休日に街へ出かけても、3年1組のメンバーです。ですから、クラスでルールを決めていて、街では夕方6時以降はうろつかず家に帰ること、となっていたとしたら、私はそれを守って帰宅することでしょう。そこでも3年1組のルールが適用できるし、私は街にいても、自分は3年1組なんだ、という自覚をしていることになります。もしそのルールを自分の都合で破ったとしたら、私は3年1組でいることを恥ずかしく思うでしょう。目に見えて皆の姿がそこにあるわけではないのですが、皆でルールを守るんだという信頼関係があるから、私はルールは破るまいと行動するでしょう。先生の期待を裏切るまいとするでしょう。そしてまた教室で顔を合わせます。私はどこにいても、3年1組の一人であることに誇りをもち、行動します。
 
神の国が、場所ではないということがこれで分かりますね。そして、互いに信頼関係の内で行動していることも分かります。それがクラスの一員としての正しさなのでしょうし、見えないながらも常に心で結ばれていることを感じます。喩えとしては不十分ですが、こうしてイメージすると、教会というのは、この地上でできるだけ神の国を実現するものでありたいという気持ちになってきませんか。完全ではないにしろ、地上の神の国という意識を有することは、大切なことであろうと思われます。独り善がりの「正義」を振りまくところではありません。「義」は倫理を言うのではなく、関係を示すと考えてみましょう。互いの横の関係を重んじます。互いに祈り、助ける思いで過ごしています。しかしまた、神との縦の関係は何よりも大切です。神に祈ることでこそ、横の関係も成り立つのです。当然この神との関係の中でこそ「救い」があると言えます。教会という建物の内のみならば、どこにいても、私たちは教会の一員としての信頼の中に置かれていて、神の支配を受けている者であり続けます。
 
神の国と神の義をまず求めること。先立つ主の業を別にして、人間たる自分にとって第一にするべきことが、ここに置かれていることの意味が、皆さんにさらに近づいて感じられていきますように。



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