【聖書の基本】天に宝を積む

2019年10月27日

あなたがたは地上に富を積んではならない。(マタイ6:19)
富は、天に積みなさい。(マタイ6:20)
 
礼拝メッセージのタイトルでは、「地上に富を」というふうにはなかなかしたくないものです。やはり「地上に宝を」のように「宝」という語を使うのではないでしょうか。それはそちらが馴染んでいるせいです。文語訳が「財寶」としているほかは、永井訳が「財」、ギャロット訳が「財産」としているくらいで、私の知る限り他は悉くここを「宝」で通しています。その箇所が、なんと新共同訳ではまさかの「富」です。これは24節にある「あなたがたは、神と富とに仕えることはできない」との比較のためかと思いきや、24節の「富」はいわゆる「マモン」であって、時に擬人化され、悪魔のように見なされるようにすらなるものを意味する語です。それに対して、新共同訳における19節や20節の「富」は「テサウロス」(英語のtreasureの語源)で、宝や財宝を表すという理解で問題のない語です。これを「富」と訳すのは、別の語の「マモン」と同一と思わせる上でも、よくないと思います。さすがにそう思ったのでしょう、新しい聖書協会共同訳では「宝」に戻っていました。
 
日本語だと「宝を積む」というような訳が多いのですが、口語訳と新改訳は「宝をたくわえる」と訳しています。ここのギリシア語原文をあたってみると、興味深いことに、この「宝」という部分の名詞と「積む(たくわえる)」という部分の動詞が、明らかに同じ語の変化形であって、もしこれを日本語の類する表現で言うならば、「貯えを貯える」というような言い方をしていることになります。尤も、同じように「天に富を積む」という表現が同じマタイの19:21にありまして、ここは金持ちの「青年」が自信満々にイエスに律法を守っていることを誇るのですが、イエスが全財産を手放せと言われてとぼとぼと去るシーンです。イエスは、「もし完全になりたいのなら、行って持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる」と告げました。ここでは、少し表現が異なり、「天に宝をもつ」のような言い方をしています。日本語だけ見ると、同じかと思ってしまいますね。
 
ところで、この「宝」を表す「テサウロス」は、本来は宝の置き場、倉庫のようなものを意味する語であった、とも言われていますから、そうなるとますます、「貯え所に貯蔵する」のような意味があるように見えてきますから、「貯えを貯える」の響きだけでなく、ますます意味が重なってくるようにも思えます。また、日本語での「宝」は「田から」である、として田畑からの恵みであることを、宝酒造のウェブサイトが告げており、中国においてこの「宝」が旧字「寶」のように、玉や貝を含んでいるのとまた文化が違うものだと教えられます。
 
さて、ここで聖書が「宝」と呼んでいるものは、財宝など光り物をイメージさせるには十分なのですが、イエスがそのような意味でのみ言っているのではないと受け取るのが私たちには相応しいようです。次の、目がともし火という怪しい言い方とうまくつながらなくなるからです。この「目」とか「ともし火」とかいうのも不思議なことですが、「目」は、外から光を取り入れる窓のようなものとしてイメージしておけば、それなりに理解ができるかもしれません。神が光であるとすると、その神の光を自分の内部に入れることができず、体が明るくなりません。内に入る光がなくなるということは、神の力が自分の中に及ばないことになってしまいます。結局、目が明るくするところということになりますが、それは、自分の力で自分の中で光が輝き出るというのではなく、外からこそ光がやってきて、自分を明るくするのだということ、つまりひとは外からの神の力がどうしても必要であるという前提で言っていることだと捉えなければならないことを意味しています。ですから、ただ自分の内にあると思っている才能や技術、それから自分が大切にしている家族や健康や生活ということを貯えていたとしても、それだけでは結局暗いままであるというのです。宝とは、自分が大切にしているもの、拠り所、また自分が頼りにしているもの、一切合切を含みます。神のほかに、これが一番大切だ、と思うようなものがあるとしても、それは朽ち果てるものであり、誰かに盗まれたり壊されたりするものです。それを第一のものとして、いわばそれを偶像として自分の支えにするならば、落胆することになるでしょう。私たちはいつの間にか、それらを頼りにし、心がすべてそこに向かって流れ、それに囚われてしまっているということがあり得ます。ほんとうに頼りになるものは何ですか。永遠の喜びとなるものは何ですか。
 
などと言うと、すべてを捨てて神に献げよ、という、へたをするとカルト宗教が迫ってくるような文句につながるような気がしないわけでもありませんが、山上の説教を読み進んでいくと、決してそういうものではないということを、知ることができるでしょう。だからまた、聖書は、一箇所だけを切り出してそこから何かをすぐに結論付けるようなことをするべきではないのです。



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