教会は楽しい

2019年10月27日

家庭のゴミ出しを担当する夫に、ゴミの出し方について注意を促すと、褒めて育てるって知らないの、いいところも見てよ、と夫が言うので、ふだんの家事について褒められたことはないけど、と妻が応えたら夫は沈黙した……そんなツイートがあって多くの人の共感を得ていました。
 
空気のように感じていることでも、ひとはそのためにずいぶんと苦労をしている。そのことに目を留めず、ちょっと拙いところだけを指摘する。私たちの日常で、ありがちなことです。キリスト教会というところにも、私たちはそんなふうに接していることが少なからずあるように思います。聖書から「感謝せよ」と教えられているにも拘わらず、教会から、あるいは仲間からいろいろしてもらっていることを当然のことのように満喫し、なおかつ教会や仲間の不手際を責め立てる、あるいは批判ばかりする、そうしたことが正義であるように勘違いをしてしまっているわけです。
 
いやはや、私なんかその先鋒に違いないのですが、それでも教会生活では感謝しているつもりではあります。つまりは、パウロのように、書いた言葉は勇ましいが実際会ってみるとなよなよしている、というムードに近いかもしれません。
 
敢えて苦言を申し渡す者がいなければ教会のためにはならない、という一面の真理はあるわけで、節度を弁えて批判すること、つまり非難ではなくて、物事を適切に検討し判断しようと努めることは、何も悪いことではないと考えます。けれども、その部分だけをひとが見たときに、悪口を言っているのはどうかしら、と不愉快に感じることは当然ありうるわけですから、お小言を口にするというのも難しいものです。
 
基本的に、教会はいい所です。イエス・キリストの弟子としての立場にあると自覚する以上は、信頼関係が漂う、よい所です。聖書の言葉により、かつての自分が造りかえられたという経験をもち、イエス・キリストとのつながりの内にあるという、一種の資格審査を経たような事実は必要ですが、共同体として、居心地はよいものです。
 
中にはいろいろな人がいます。でも、自分もけしからんわけですから、互いにゆるしあうという関係の下に、同じ地盤に立って過ごすことができると受け容れていれば安心です。楽しいことがいろいろあるし、日曜日をゆっくりと過ごすこともできます。その日曜日になかなか交われない人もいますが、互いに祈り合うという信頼がまた何よりうれしいとも思えます。自分のために祈ってくれる人がいる。自分もまた誰かのために祈ることができる。こうした平和な関係は、なかなかほかでは得られないものではないかと思うのです。
 
同じキリストという岩の上に立っていて、何か困難が起こっても、疑いだけで終わることがない。たとえ夫婦でも、昨今疑心暗鬼でしかいられないケースも少なからずあるようですから、こうしたオープンな空間は、精神的にもありがたいものだと思います。同じ価値観によってつながっている。教会という名をつけている限り、そうありたいものだと願います。



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