即位の礼

2019年10月23日

2019年10月22日は天候の悪いもとではありましたが、新しい天皇の即位の礼が行われました。台風19号の被災者に配慮して、パレードは11月10日に延期になりましたが、新たな台風の接近があった昨日の故、延期が適したいたことになるのかもしれません。
 
聖書の記述は、聖書の時代の文化や慣習の内で書かれていますから、時と場所を超えていま私たちが感じる感じ方とは当然違う部分も多くなります。人の罪や神の救い自体が変わるとは思えませんが、それでもたとえばイスラエルの動物犠牲の購いの意味や感覚が、私たちにも同様に響くということが少ないように、記録された事柄がピンとくる、こないというのは、どこか仕方のないことでもあり、しかし探る必要のあることでもあろうかと思われます。
 
さて、この即位の礼を事前に私がどう見ていたかというと、これはひとつ貴重な感覚を経験できるのではないかと、一種の期待をしていたわけです。というのは、聖書で「油注がれたもの」、いうまでもなくメシアの象徴行為であり、キリストたるものがそのように描かれているとも考えられる事柄ですが、それはこの即位の礼とある意味でパラレルであると思われたからです。後の西洋では、王の戴冠式というものがあり、儀式としてその国の最高度の注目を得たものでありましたでしょうし、多くの名画がそのために描かれてもいます。冠というのが、注がれた油と同様のものと見てもよいのだと仮定して話をしていますが。
 
新約聖書の福音書でイエスが語った話にも、この戴冠式に相当するシーンが描かれます。
 
イエスは言われた。「ある立派な家柄の人が、王の位を受けて帰るために、遠い国へ旅立つことになった。(ルカ19:12)
 
また、王が王子のために婚宴を催したという話もあり、こちらは宴会のようではありますが、王子のひとつの地位の認知という点では類似のものと見てもよいかと思います。
 
「天の国は、ある王が王子のために婚宴を催したのに似ている。王は家来たちを送り、婚宴に招いておいた人々を呼ばせたが、来ようとしなかった。(マタイ22:2-3)
 
もちろん、イエスがエルサレムに入城するときには、人々はイエスを王として迎えるような騒ぎとなったわけで、そのことがイエスの裁判へ影響を与えたとも考えられます。おまえは王なのか、という問いかけは、ローマ皇帝への反逆の証拠にもなりうるのですから、地上の王と全世界の王という設定の違いが分からぬ限り、地上の論理で裁かれるということもひとつの筋道であったということになるでしょう。
 
これが黙示録になると、また様々な王が現れます。地上の王たちが狂乱した素行をしたり、終末期に七人の王が出ることを預言したりします。しかし結局は「王の王、主の主」なる方が世界を支配するように落ち着いていきます。それでいてまた、天の都エルサレムが降った後にも、地上の王たちが自分たちの栄光を携えて都に来るなど、どのような情景を想定してよいのか難しい場面にも出くわすのですが、やはり最終的にはこの「王の王」というお方こそがまことの王であるという点については揺るぎないことだろうと思われます。
 
支配者が支配者として公認されるというのは、その国や地域にとって大きな出来事でしょう。だから恭しく儀式を以てそれを演出します。即位の礼もそういうことなのでしょうが、今の世界感覚では王や天皇が支配者という意味合いはほぼなくなっているのが実情でしょう。人間なのに象徴であるという難しい理屈をつけて、なんとか天皇制を維持している現状がありますが、戦後日本のためには天皇が必要だと提言し、また判断したのも、キリスト教を篤く信じる人々であったと伝えられています。基本的人権のない天皇という立場を遺してしまったことがどう影響するか、それは天皇を取り巻く人々、あるいはそれを利用しようとする政治権力をもつ人々次第となっています。私たちは天皇自身に目を奪われて、これを操る為政者のほうへの眼差しを薄くしているわけにはゆきません。王を王とする信仰をもつと称するのがクリスチャンであるとすれば、別の王を王としようとする人間たち、またそれに都合良くなびいていく人々に、より注目しなければならないのではないかと思わされます。
 
そして、ほんとうの王が王として戴冠するという、主の日へ向けて、心を備えていく必要を、いっそう強く感じるようでありたいと願います。



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