いじめ

2019年10月21日

神戸の小学校で、教師たちがいじめを繰り返していたことが発覚したニュースは、多くの人の関心を呼びました。いじめそのものは世間や学校で日常的なものであることは承知の上で、そのいじめを防ぐことをしているはずの教師がやっていた、というのが衝撃的だったのかもしれません。
 
思えば、警官が犯罪に手を染めたというのもセンセーショナルに報道されるし、教師が逮捕されたなどというのも大きく扱われ、聖職と呼ばれた時代は去ったなどとも言われたものでした。牧師や神父という存在も、異常な出来事として、悪い意味で有名になってしまいます。教師の質がどうだなどとも言われますが、高い標準を求められていることは確かでしょう。明治期や戦前の教師とはまたずいぶん様変わりしたには違いないのですが。
 
今回の教師のいじめは、そのいじめをなくすことを「教育」しているはずという前提もあって、残念に思われるか、または呆れられるかしていたようにも見えました。当の児童たちはさらにショックだったはずで、その後登校できなくなった子も幾人がいるのだとか。なんとか立ち直ってほしいとは思いますが、それほどに、やらかした当人たちは責任を感じなければならないと見なされます。全く、いじめているなどとは考えていなかったということのようですから、そもそも「いじめ」というものを理解していなかった、と言われても仕方がないわけです。
 
こうなると、SNS関係では、今度はこの加害者たちを「いじめ」にかかる発言が増殖します。自分はそんなことをしていないから正義だ、といわんばかりに、正義の声がエスカレートしていくことになります。当然、キリスト教関係者からも、けしからんのシュプレヒコールが公表されます。私から見ると、これも立派に「いじめ」であると言えます。ネットでの発言は、人を一旦人間関係の時空から離しますので、容易に過激になれるのです。
 
私は奇妙なもので、叩かれている側に近づいて、そちらからものを見てみようという気持ちが働きがちな性質をもっています。弁護することができない場合もありますが、待てよ、とばかりに、その非難されている方に立てないかと努めてみるわけです。それは、自分の中にも、それと同じことをしていたかもしれないという思いが必ず生まれるのと、いま自分も気づかずにそれをやらかしている可能性を自らに問うからです。それは、あのいじめていた教師たちのように、まさか自分がいじめを行っているとは思わなかった、というように、この発言自体が誰かをいじめ、傷つけているということがきっとあるだろう、というふうに心苦しく思いながら、言葉を選んでいるということになります。
 
さて、教会で堂々と自分の考えを述べる勇者がいて、自分は神に赦されているから自分の考えに確信をもっている、というのが信仰的だとまた強気になるのかもしれませんが、さて、その方は、教会で「いじめ」をしていないかどうか、よくよく省みてもらったらと願う。これが今回私の提言したいことです。
 
教会というところであろうが、世の中のどこででもありうること、としてまず「いじめ」を認識することが肝要です。似たものに「ハラスメント」という言葉が近年使われるようになりました。この「ハラスメント」は、一般に片方が強い権限を有していることを前提とします。一方がなんらかの形で強い立場にあり、それがあるために相手が逆らえないという構造がある中で「いじめ」があるとき、「ハラスメント」と呼ぶように見受けられます。そうなると、ただの「いじめ」より質が悪いようにも思えてきます。「いじめ」だと、いじめていた者が逆にいじめられる側に変わるなど、立場が流動的な場合があり、関係が動く様子が見てとれる場合があるのではないかと思うのです。
 
教会でもし、牧師が信徒に対して「いじめ」を行うならば、それは「ハラスメント」の範疇に入りうるでしょう。しかし、牧師はいじめられる側にもなる可能性があります。牧師のワンマンでなく、信徒の要求や力が強い場合、雇われの牧師の立場が弱いことがあるのです。信徒の立場が強いときそれは一種の「ハラスメント」になるでしょうが、要するに牧師という立場は、どちらの範疇にも入る可能性があるということが分かります。
 
私はいくつかの教会を経験してきたので、実は、どちらのケースも見てきました。かといって、教会というのがいつもそんなふうであるというふうに誤解してもらいたくもありません。教会は、世間に比べるとずっと平和で安心できて、互いに信頼関係が築けるところです。ただ、理想郷だと言ってしまうことはできない、というだけです。教会に、あまりに理想の姿を期待して訪れると、失望するかもしれません。そこは天国ではないのですから。だからほどほどに期待するならば、とても居心地がよい、というくらいに言ってはいけないでしょうか。
 
これ以上の方はいないという意味をももつ神を前にして、共に土塊の存在として横に並ぶ意識をもつ仲間が祈るのだとすれば、さしあたりそれはこの世で期待できる最大級の良さをもつ共同体になりうるものだと考えたいのです。こうすればいい、というマニュアルがあるとは思えません。ただ、自分が正しいという前提しかもたないようなあり方をやめることが、この共同体の一員としてのライセンスだとするならば、そしてそれでもなお自分はいじめているような者なのではないかと自らを警戒するならば、暫定的にでも、教会はこの世界で存在する価値をもち、輝きをもち続けることができるかもしれない、と思いたいのです。



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