上に立つ権威

2019年10月13日

「上に立つ権威」に従うように、新約聖書のとくに書簡が幾度か勧めてきます。パウロもですが、その後の孫弟子に当たるような世代の書にも、それは出てきます。これが、権力の支配下で苦しんだ人々、たとえばナチス・ドイツの時代に抵抗した方々からすると、気に入らない表現、さらに言えば聖書の中にあってけしからん教えのひとつとして意識されることになります。まさにその通りだと思います。
 
だから聖書のこれは間違っている、と断じてよいか。そこが今回注目してみたい部分です。もちろん、なんとか聖書を弁護しようという意図でそれを始めるのではありません。私たちの時代の状況や立場から、聖書をどのように理解していくか、それは大切なことではありますが、私たちの気に入るように聖書の意味を限定して解釈すればそれでよいのかどうか、にも私は疑念があります。書かれた以上は、そこに何らかの意味があった、そこから、いま私たちの環境では見えにくいものを感じていくこともできるのではないか、そうして私たちの狭い了見では分からない世界を体験することも可能なのではないか、というふうに考えてみるわけです。
 
私たちの世界でも、徒に権威を否定することがないのは当然です。ある警察官が法に触れることを行った、だから警察など一切信用しない、なくしてしまえ、という感情は、全く論理的でもなく、適切でないことは、誰もが気づくことでしょう。私たちは、日々の生活を、警察などの法体制に守られて生活しています。そうでなければ、安心して街を歩けないでしょう。いつ殴られても誰も何の保護も同情もしてくれず、金品を奪われても構わないとされる世の中では、身の危険を常に感じていなければなりません。それらが一切罰されないようであれば、私たちの社会生活は成り立たなくなるでしょう。一定の権威があればこそ、比較的安全に過ごせるわけです。とくに日本では、その治安のレベルが高いと言われています。平和のぬるま湯に浸かっていると揶揄されることもありますが、人間が理想とする安心した信頼関係は、かなり高度なレベルで保たれていることを、感謝しなければなりません。
 
新約聖書で権威に従えと記すのも、このように悪を処罰することができる存在として、権威を理解しているからこそであると思われます。確かにパウロはしばしば暴漢に襲われ、命からがら逃げたようなケースが多々あるように書かれています。ユダヤ人たちにとり面白くないことを言い広めているのですから、治安が悪ければ直ちに手を出してくる輩はいろいろあったでしょう。しかし他方で、ローマ法というものを重んじたローマ社会の中では、総督云々に丁寧に扱われ、今でいう人権を十分保証された扱いを受けているのも事実です。神の名によるリンチを認めていたユダヤ社会と、法治概念をモットーとしたローマ社会との差異がそこに見られる、とも言えるでしょう。法に基づく対応をしてもらえるというのは、いうなれば神の国の秩序に、より適うあり方であったと教会側が感じたことは、肯けるような気がするのです。
 
確かに、ローマ皇帝など当局側がやがて迫害をしてくる場面があります。そして歴史は後に、ローマ側からの、筆舌尽くしがたい大迫害が起こったことを証言しています。そのイメージから、新約聖書の文言に目を通すときに、パウロは甘いとか、権威に従うなどと書いてくれるなとか言いたくなる気持ちは、分かります。ですがイエスの福音書の時代、またパウロの存命時代には、ユダヤ戦争によるエルサレムの崩壊はまだなかったわけです。皇帝ネロの迫害あたりは微妙かと思われますが、パウロの護送云々の扱いの記録からしても、法的に適切に運営されているように見え、ローマ法の秩序はむしろしっかりしている印象を与えます。このパウロとネロの関係については、あまり聞いたことがないので、当時の政情について詳しい研究や定説があれば知りたいとも思います。
 
パウロにとり、ローマ法社会そのものが脅威的でなかったとすると、パウロの敵は何であったかというと、やはりユダヤ人たちでした。あるいは、ユダヤ教の急進派または原理主義とでも言いましょうか、パウロの異端的な旧約聖書解釈に対して、執拗に潰しにかかってくる勢力です。よくぞあそこまでパウロを狙いつきまといますこと。それほど、パウロの働きの影響が大きかったということなのでしょう。パウロが旅した先にはすでにキリスト者がいたようなことが、使徒言行録からも窺えますから、パウロ本人によらずして、イエスをメシアと仰ぐ人々が、パレスチナから周辺地域へ拡散していたことは確実のようで、いまの日本の様子を見る限り信じられないほどの伝道効果がそこにあることが分かります。ユダヤ人からすれば、この異端は許せないものだったのでしょう。それは逆にいま、「正統派」キリスト教信仰団体が、「異端」と呼ぶグループを厭わしく思うのと比較可能でしょうし、ローマ法とは異なり神の名に基づき私刑がありえた時代背景からすると、パウロが狙われたということを、それほど異様なこととは思えない、と理解するほうが自然ではないかと考えられます。
 
すると、上に立つ権威はむしろそんなパウロを保護してくれたことが、聖書には記録されている、という図式になるように見えます。そしてより恐ろしいのは、自分が神に成り代わり処罰するといきり立つ、自己義認の集団ではなかったでしょうか。日本でも「天誅」と叫びつつ刀を振り下ろす幕末の武士の姿が描かれることがありますが、天が裁くと言いながら自分の意志と判断で相手をやっつけるのですから、自分を神とするというのはまさにそういうことであったと言えるでしょう。パウロにとり、狙ってくるユダヤ人こそが、そのような存在でした。自分は正しい、自分の考えに反する者がいる、けしからん、成敗してくれる、という思考回路に基づく、正義の殺人がなされようとしていたのです。
 
イエスは、人を殺すことは、生物的生命を奪うこと以前にもありうることを教えました。極端に言うと「バカ」と言うことが殺すことなのだという教えを垂れたのだと理解できます。私たちの中で、このことからすっかり聖められた人は、いったいどれほどいるでしょうか。私だけがそうではないのでしようか。こうして小さな存在を虐げ、また蔑ろにしている自分がいるという自覚をもつ私は、おかしいのでしょうか。イエスが目を留めた、弱者の叫びに、全く気づいていないような自分がここにいると思うのは、間違っているでしょうか。
 
上に立つ権威を非難することがトレンドであり、カッコイイような風潮。いつの間にか自分が正義の使者として君臨してしまい、すっかり上に立ってしまっているというありさま。そして聖書を自分の道具として利用し、神を支配している事実に、気づかない、自称クリスチャン。愛は冷え切っていないか。私たちは灰をかぶり、衣を引き裂くことを、とっくの昔に忘れているのではないでしょうか。いえ、そんなことを一度もしたことがないのではないでしょうか。



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