牧師に育児休暇を

2019年10月9日

そもそも牧師たる年代だから孫のことか、などと思わないでください。若い牧師もいるのです。また、これから若い牧師を育てるためにも、お考え戴きたいのです。
 
季刊誌「Ministry」vol.42, 2019年9月号には、キリスト新聞の「論壇2.0」が掲載されていますが、そこに、吉岡恵生・シカモア組合教会牧師が記しています。
 
 牧師は「24時間」戦えない
 
牧師の世界にはいまだにこの懐かしいCMのワードが潜在的に残されているが、アメリカに来てそれは時代遅れだと思い知らされた。いまの教団の規則では、牧師の就業時間は週40時間まで、週2日は定休日と決められ、さらに3カ月に一度1週間、あるいは年間でまとめて4週間は休暇を取ることが義務付けられており……などと紹介され、これを牧師も信徒も相互に尊重していると報告しています。心身ともに病む牧師がいることを憂い、「牧師自身の働く姿勢ややる気の問題ではない。各教会の信徒が理解を深め、「どうぞ休んでください」と牧師に声をかけてあげること。そのひと言が牧師を救う」と主張するこの文章は、私も常々思っていることを適切に表現しているものだと思いました。
 
そんなことはできるわけがない。人手不足の中でありえない。宣教をどうやってするというのだ。信徒から文句が出る。――本当にそうでしょうか。やってみる前から、教会は「この世」の理論に染まって、いえ、支配されていやしないでしょうか。同じ「Ministry」の鼎談記事で、「今ドキの神学校事情」として、三人の神学校の校長など関係者が話していますが、その中に、年配の方が神学校に来るが「いわゆる社会の原理を教会運営に持ち込もうとすると、いろいろな弊害がある」と指摘しています。教会は、いつしか社会の原理を教会の原理だと思いなしてしまっているのではないか、と私は感じます。あまりに組織立ち、規約規約(規則に規則?)と自分の正しさを主張し、奉仕という名の職務が強要されていく(命令に命令?)ような現状、それは企業戦士を揶揄した(?)あのCMの姿と、どこが違うのでしょうか。
 
かつてキリスト教会は、社会の常識に反したことを訴え、社会を変えてきました。差別をなくす運動をし、誰も助けない人のために募金を行い、身寄りのない子を育て、女性の環境を改善し、スパゲティ治療でないホスピスを提供し、家のない人に食事や住まいを提供してきました。どれも、社会がなしえないこと、社会がしようともしなかったことを、率先して行ってきたようなことでした。いま、男性の育休が、タテマエだけは世界に遅れまいと、餅を絵に描いたものの、現実にはちっとも実現していないのがこの世の社会とするならば、教会こそが、男性の育休をうち拓く場となって然るべきではないのでしょうか。イエスは、ユダヤ社会に楔を打ち込むことはいくらでもしたけれど、そのユダヤ社会の律法をあれほど重んじたマタイの記録の中でも、反社会的としか目に映らないようなことを行い続けたのではなかったでしょうか。
 v もちろん、教会ならではの方策はあってよいと思います。例えば日曜日に説教は担当してくれる、教会によっては祈り会の場にだけはいてくれる、その他は休み、といったスタイルもありうるかと思います。それで概ね、教会は動いていけるわけです。その教会によって事情が違うでしょうが、知恵を集めれば、また愛によって働く信仰があるならば、動ける人が動いて、教会は命を輝かせ続けることができると思うのですが、如何でしょうか。
 
すると、教会はそのことだけでも、世の光として広く光を照らすことができるのではないか、とまで私は思うのですが、どうか真摯に考えて戴けませんでしょうか。
 
ひとつ、お断りします。ここまで、「牧師」を男性として記してきました。当然そのまま終わったらお叱りを受けることになろうかと思います。女性牧師にとっては出産休暇となるのか、育児休暇という名前でよいのかどうか分かりませんが、休暇があって当然です。それとも、まさか、これまでそういう事態が皆無に近かったとでも仰るのでしょうか。ともかく、それもまた同様に考慮して、その必要を共通理解していくような、キリスト教界であってほしいと願います。



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