【聖書の基本】チャリティ

2019年10月6日

見てもらおうとして、人の前で善行をしないように注意しなさい。さもないと、あなたがたの天の父のもとで報いをいただけないことになる。(マタイ6:1)
 
「善行」はここでは「施し」という形で現れますが、私たちはこれをしばしば「慈善」と呼びます。旧約聖書で「慈善」と訳されている言葉を探すと、驚くことにこれはすべて「箴言」の中にありました。
 
8:18 わたしのもとには富と名誉があり/すぐれた財産と慈善もある。
 
8:20 慈善の道をわたしは歩き/正義の道をわたしは進む。
 
10:2 不正による富は頼りにならない。慈善は死から救う。
 
11:4 怒りの日には、富は頼りにならない。慈善は死から救う。
 
11:5 無垢な人の慈善は、彼の道をまっすぐにする。神に逆らう者は、逆らいの罪によって倒される。
 
11:6 正しい人は慈善によって自分を救い/裏切り者は自分の欲望の罠にかかる。
 
11:18 神に逆らう者の得る収入は欺き。慈善を蒔く人の収穫は真実。
 
11:19 慈善は命への確かな道。悪を追求する者は死に至る。
 
12:28 命は慈善の道にある。この道を踏む人に死はない。
 
13:6 慈善は完全な道を歩む人を守り/神に逆らうことは罪ある者を滅ぼす。
 
14:34 慈善は国を高め、罪は民の恥となる。
 
イスラエルの文化には、このような考え方が徹底していますから、施しということは、私たちがいま感じるよりもよほど大きな意味があったものと思われます。たとえばいまなら、国や地方自治体が、あるいは保険機構が、困った人の生活を援助するようなシステムを私たちが造っています。お隣さんや親戚同士で助け合わなくても、社会的組織の取り決めによって、生活が支援されるルールを築いてきたわけです。
 
だから人情味が薄れて味気ないんだ、助け合いを大切にしよう、と考える人もいるでしょうか。一定の機関がその助け合い精神を活かして実行しようとすること自体が悪いはずがありません。とくに助けを受けると、お返しをするという文化の中にいる私たちは、お返しを気にせずに助けられるのは気が楽なことは確かです。だからまた、人情の薄れる背景になることは否定できないけれども。
 
中東文化では、一種の福祉システムとして、この慈善が当然のことのように考えられていました。よく言われるように、一夫多妻制は、いま聞けばなんだかとんでもないことのように思われますが、女手一つで生活がままならなかった時代、夫を亡くした妻と子の生活を支えるために、財力のある男が囲い込むという観点で捉えるべきだ、というようなわけです。また、病気や身体の不自由さのために通常の労働ができない人に対しても、助ける精神から、道端で物乞いをするという様子が普通にあって、むしろそこに施しをすることで、施されたほうは、あなたに神の祝福があるように、と返し、互いに益を得ていたという構図があるわけです。そのとき、施した側も、それを大声で言われることで、街の人々に自分が善いことを行い、神の祝福を受けていることをアピールすることになるのは、当然のことでした。山上の説教でイエスが戒めたことは、この心理に潜む罠であったとも言えます。
 
旧約聖書続編が、新共同訳と聖書協会共同訳の聖書にはオプションで付いてきます。私は好んでそちらを購入します。とくに今回聖書協会共同訳では、この続編にも引照が付いていて、楽しめます。イエスの当時は、いまのような形で旧約聖書がまとめられていたわけではなく、またプロテスタントが続編を拒んでそれは聖書ではない、と判断したような経緯もないわけですから、実のところ、新約聖書の難解な部分が、この続編を引用していたり、続編に描かれてることを受けていたりすることはよくあるのです。つまり、新約聖書を理解するためにも役立つと私は考えているのです。また、歴史文化の観点からも、たとえば画家たちは、続編の名場面を多く芸術作品として遺していますし、それを踏まえた言葉や文章も多々あります。スザンナとかユディトとか、ベル神とかトビトとか、まるで知らないというのであれば、それらを鑑賞することもできなくなり、もったいないことだと思うのです。
 
そのトビト書は、アドベンチャー・ストーリーとして大変面白いものですが、トビト自身は初めと終わりに出て来て、その息子トビアが動き回ります。しかしそのトビトは、この慈善ということについて、大変優れていた人物でだと描かれています。旧約と名のつく全般の中で、「慈善」という語が訳語で使われているのは、上の箴言のほかには、このトビト書しかないのです。人の嫌がることを黙々とするなど真面目一本なのですが、堅物で、善いことをすべきだという観念に囚われて、妻にずいぶんと辛い当たり方をする場面が前半で登場します。しかし、とにかく「慈善」の語はこれに着き、あとは、パウロが幾度かこの語を使っている程度です。気をつけるのは、パウロが慈善と言うときには、それにより救われるというような考え方は微塵も見せていないことです。ここは勘違いをしないようにしましょう。
 
英語的には慈善は「チャリティ」として知られています。キリスト教関係でもチャリティとよく謳いますが、中には、すべての募金を届けるというのではない場合もあるということです。「収益」や「純益」を届けるというのは、そのチャリティ事業を開くためにかかった費用は差し引くということです。私はそれでは、申し訳ないと思っています。募金するほうは、そのすべてが困った人を助けるために使われてほしいと願って箱に入れたとしても、そのうちの何割かは、主催者の懐に行くことになるからです。これでは募金するほうも、心理的に決して気持ちのよいものではないと思うのですが、如何でしょうか。
 
しかしそうなると、主催者側が手出しをし、負担をしなければならないということになりますが、私は教会はそれでもよいと考えます。その心意気を示さないと、人々の協力を仰ぐことは難しいのではないかと思うのです。もちろん、これは個人的意見ではありますし、運営上問題があろうかということは心得ておりますけれども。
 
そのような意味で、テレビ局が一日そのことを訴えるという、チャリティ企画がもう長いこと続いていますけれども、あれもいろいろ噂されていることがあり、確かにそうなのだろうと思います。噂というのは、出演者に相当なギャラが支払われているのではないか、という内容です。それはテレビ局につけられたスポンサーから回るお金であるのかもしれません。でも、たとえそれでも、なけなしの小遣いを困った人のために、と募金する庶民からすれば、ステージ上で募金をお願いします、と呼びかける芸能人が何百万もそれで手にしているとなると、釈然としません。仕事なのだから報酬はあるべきだろう、というのももちろん理屈としては分かりますが、それならばまるで「チャリティを仕事として相当な収入を得ている」という図式に、疑問を感じざるをえないのです。海外アーチストが同様のチャリティをする場合は、本当にノーギャラだという「噂」を聞いたことがあります。どこまでがどうなのか、決めつけることはできないのでしょうが、ただ言えることは、欧米ではチャリティはひとつの文化形態であろうということです。もちろん日本にも施しとか互助システムとかよいところは多々あるわけですが、チャリティ精神の背後に、中東の文化を引き継ぐ伝統があるような気がするのですが、どうなのでしょう。詳しい方がいらしたら、修正をして戴きたいものです。
 
必ずしも聖書の文化をひたすら美化する意図はないし、その施すことで自分に益があるようにと願うのも自然なことであり、また教会が金集めにその心理を利用したといった歴史も否定しようがないわけですが、徒に他を非難する評論家になるよりは、まず自分でできることを考え、実行できたらよいと考えています。それこそ「隣人とは誰か」という問題です。私自身は、高校のときにJRC(青少年赤十字)で、いくからでもそのようなことを学んでいました。そのころは聖書を信じていたわけではないのですが、いまにして思えば、ろう学校の生徒や自閉症の子との触れあいもあり、街頭募金はもちろんのこと、高校に献血車を呼ぶなど、それなりに恵まれたことをしていたのだなぁと感じます。若いうちに、そうした体験をもつことは、お金には換えられない財産にきっとなると思いますよ。



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